1839年、福井藩の家老である本多家の越前府中(現在の越前市、旧武生市)領にて、本多家家臣・山本五郎の三男に生まれる。当初名乗っていた名前は山本龍次郎であった。嫡男ではないため、福井本藩の家臣であった山本家の分家で育つ。 藩校明道館に学び、幹事の橋本左内に認められて、文久2年(1862年)に昌平坂学問所に学んだ。1866年(慶応2年)、長崎の坂本龍馬を訪ねて亀山社中に加盟し、のちに海援隊に属した。この頃より「関龍二」を名乗る。直後に英国への渡航を行うが、長崎から出帆した船が台風に遭遇して遭難し、上海を経由して長崎に帰還した。その後は京都の越前藩屋敷に出仕するが、藩の中心人物らと上手く行かず、大阪などで新政府の官吏として活躍していたが、これは藩の許可は得ていなかった。 1868年(明治元年)には、大阪の舎密局で舎長を務めたが、新政府の中心人物らと福井藩の人物らとの間に軋轢が生じるようになると
後閑 菊野(ごかん きくの、1866年11月15日(慶応2年10月9日) - 1931年(昭和6年)6月21日)[1]は、明治から昭和にかけての女性教育者。桜蔭女学校の初代校長。名はキクノとも表記[2]。 播磨国(現・兵庫県)出身。東京女子師範学校小学師範科、東京女子高等師範学校卒業。同校教師となり、国語・修身・作法などを担当する[1]。 1911年(明治44年)2月、東京女子高等師範学校教授となる[3]。 1918年(大正7年)4月、宮内省御用掛となり[4]、皇太子妃に内定した久邇宮良子女王の教育主任を務める。 1924年(大正13年)3月、東京女子高等師範学校の同窓会組織「桜蔭会」が設立した桜蔭女学校の初代校長となる[2]。
これは今年の正月の私の誕生日に、子供たちが集った時に口ずさんだのです。 いつか思いの外に長命して、両親、兄弟、主人にも後れ、あたりに誰もいなくなったのは寂しいことですが、幸いに子供だけは四人とも無事でいますのを何よりと思っています。近親中で長生したのは主人の八十七、祖母の八十八でした。祖母は晩年には老耄(ろうもう)して、私と母とを間違えるようでした。主人は確かで、至って安らかに終りました。この頃亡兄は結核であったといわれるようになりましたが、主人も歿後(ぼつご)解剖の結果、結核だとせられました。解剖家は死後解剖するという契約なのです。医者でいる子供たちも、父は健康で長命して、老衰で終ったとばかり思っていましたら、執刀せられた博士たちは、人間は老衰だけで終るものではない、昔結核を患った痕跡(こんせき)もあるし、それが再発したのだといわれます。解剖して見た上でいわれるのですから、ほんとでしょう
戦国時代をはじめとして、またも歴史ブームが再燃している。さて、そうした知識を得たいときに、足を運ぶ場所とはどこだろう。そのひとつに、図書館があることは間違いない。 そして実は図書館史こそ、歴史好きのハートを揺さぶる面白さに満ちている。 昨年、『図書館の日本史』(勉誠出版)という労著を上梓した新藤透・文学部准教授は、日本の古代から現代までを見渡し、「図書館」の潮流に連なる事例を渉猟、ひとつの通史としての図書館史を書き上げた。インタビューの前編ではまず、なぜ図書館史なのか、さらにはその魅力を存分に語ってもらった。 従来の図書館史研究でイメージされている図書館というものは、一言でいえば建物のことでした。図書館の前身とされている「文庫」という建物がまずあって、その制度や組織を中心に研究が進められてきたのです。図書館という存在だけを時代からスポッと取り出して、時系列で並べていく、という向きが強かった
朝、NHKの番組表を見ると、ほとんど終日、即位礼正殿の儀の番組なので呆れた。平成の時もそうだったろうかと思い出そうしたが、記憶が今ひとつ曖昧だった。30年前と違いは、いろいろあるだろうが、そうだな、ネットの反応、特にSNSの反応というのも大きな違いなるにだろうと思った。 ネットを覗くと案の定、関心を持つ人は多そうだった。天皇を好意的に受け止める人がこうも増えたものかと思い、こうした傾向は日本ナショナリズムの一つの達成でもあるのだろうなと他人事のように思い、なんの気なしに私もつぶやいた。 皇室が偉いというのは、国民国家意識が芽生えた江戸時代にできたもんだと思う。 それが、プチ炎上した。というか、罵倒を数多くいただいた。概ね、間違っている、歴史も知らないのか?、古典を読め、バカじゃね、といった類で、簡素なものだった。まあ、Twitterにありがちなことだし、その人たちに、①朱瞬水から水戸学の流
2008.09.14 ストーンサークルと十和田文化圏を論じた諏訪富多さん カテゴリ:東北 大湯環状列石は昭和7年に発見されて、大きな反響を呼んだ。諸説ある中で、大湯郷土研究会会長で元大湯町長の諏訪富多さんは、十和田文化圏なる古代文明の存在を提起し、東北がかつては文化の中心であったと論じた。 諏訪さんは発掘当初から、私財を投じてストーンサークルに身を捧げた。記紀による奈良や京都中心の歴史ではなく、東北には何があったのかをどこまでも追求しようとした。発見された列石を作った人間達は、この地で何をしてどういう国家を築いたか、そしてなぜ消えていったのか。 このことは、高橋克彦編『東北(みちのく)歴史推理行』(徳間文庫、1993年)に書いていた。この文庫本は、NHKで放映したテーマをもとにした熊谷印刷出版部1987年刊行の『高橋克彦の歴史ズームイン』を増補改題したもの。 諏訪さんが98歳で亡くなってか
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