だって「正しい歴史」なんて幻想じゃん 鎌倉幕府が1192年から1185年になったとかガバガバすぎるでしょ こんな曖昧な情報を覚えて僕らに何のメリットがあるの? って中学生の甥が言ってたけど何も言い返せんかったわ
だって「正しい歴史」なんて幻想じゃん 鎌倉幕府が1192年から1185年になったとかガバガバすぎるでしょ こんな曖昧な情報を覚えて僕らに何のメリットがあるの? って中学生の甥が言ってたけど何も言い返せんかったわ
佐渡金山は1601(慶長6)年、鶴子鉱山の山師たちが新しい鉱脈を求め、大露頭(ろとう)を発見したことに端を発するが「道遊の割戸(どうゆうのわれと)」はそれが2つに断ち割れた露天掘りの跡。坑道の総延長は400km、388年間で78トンの金を産出したといわれる。当時の坑道がそのまま見学コースになっている「宗太夫坑」で、金採掘の様子を再現。金山展示資料室では佐渡小判の製造工程を詳細に展示している。売店、茶処も併設。
上杉景勝の時代、佐渡国は越後とは別の国で、守護代・本間氏の支配下にあった。本間氏は、相模にルーツをもつ国人衆(鎌倉時代の地頭から発した在地武士)のひとり。一族を各地に配置して佐渡全域を支配した。しかし同族間での内紛が後を絶たなかったという。その中で最有力だったのが、北佐渡の河原田本間氏と南佐渡の羽茂本間氏。「御館(おたて)の乱」で越後の盟主となった景勝は、この群雄割拠した佐渡領有を目論むが、秀吉は自らの裁定による天下統一のため、「惣無事令」により大名間の私戦を禁じた。 つまり各地の戦国大名は、かつてのように自分の意志で他国へ侵攻することは許されず、領地の安堵、裁定は、すべて一括して豊臣政権の手に委ねられるというシステムに、世の中がガラッと変わってしまったのだ。そんなわけで秀吉の手前、上杉は目の前で金銀を産する「金のなる島」佐渡に、水面下では工作を続けながらも表立って手を出せずにいた。 しか
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