元亀4年(1573年)2月、将軍・足利義昭は反織田方の諸将に御内書を出し、織田信長に対して挙兵した[1]。 2月28日、信長は義昭に朝山日乗・島田秀満・村井貞勝らを使者として送り、人質を出すことを条件に講和しようとしたが、義昭はこれを認めなかった[2]。使者は講和が成立しない場合は、京都を焼き払うと忠告した[2]。 3月25日、信長は足利義昭の兵を討つため、岐阜を出陣した。しかし、京都では「武田信玄が3、4万人を率いて信長に近づいている」「朝倉義景は"もし信長が京にくれば、2万人を率いてその背後を襲う"と公言している」「三好軍と石山本願寺勢の計15,000人が京に向かっている」「赤井直正が義昭方として京に出陣する」[3]などの風説があり、京の人々は信長が京都に進軍して来ることが可能であるとは思っていなかった。 3月27日、京に「信長はすでに近江に来ており、近いうちに京にやってくる」との報が
人道に対する罪(じんどうにたいするつみ、英: crime against humanity)とは、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」と規定される犯罪概念。ニュルンベルク裁判の基本法である国際軍事裁判所憲章で初めて規定され、1998年の国際刑事裁判所ローマ規程において「人道に対する犯罪」として定義された。現在ではジェノサイド、戦争犯罪とともに「国際法上の犯罪」[注釈 1]を構成する。戦時、平時を問わない。 トルコによるアルメニア人虐殺に対する1915年の英仏露共同宣言中でその概念が初めて登場した。セーヴル条約230条ではアルメニア人虐殺に対する責任者の、連合国に対する引き渡しと裁判を定めている。これに基づき、マルタ島に設置された国際法廷(英語版)において旧オスマン帝国高官に対する審理が行われたが、証拠不十分で
ジェノサイド(英: genocide)は、ギリシャ語の γένος(種族:英語の接頭辞でgenos)とラテン語 -caedes(殺害:英語の接尾辞でcide)の合成語であり、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキン(英語版)による造語である[1][2][3]。政治共同体、人種、民族、または宗教集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われる行為としてジェノサイド条約第2条では定義される[1][4][5]。 日本語では集団殺害(しゅうだんさつがい)[1][5][4]、集団殺戮(しゅうだんさつりく)[6]、または大量虐殺(たいりょうぎゃくさつ)[7][8][9]や、虐殺[10]と訳される[注釈 1]。 犯罪としてのジェノサイドは「集団殺害罪」と訳される[4][12][13]。 ジェノサイドは、ユダヤ系ポーランド人の法律家ラファエル・レムキン(英語版)により『占領下のヨーロッパにおける
中国の周辺国では、2年前の同時期に台湾の中華民国ではのち民主化前の一歩前進の戒厳令解除や、韓国の光州事件から始まった民主化闘争の末の民主化宣言が立て続けに起こり、東アジアの広範囲で民主化の波が押し寄せていた。 民主化とその成功が勢いづいた波が遅れて到達した中国国内でも若者の民主化運動の高まりが広がり、民主化を求めるデモは、改革派だった胡耀邦元党総書記の死がきっかけとなった[2]。胡耀邦の葬儀までに、政治改革を求める学生を中心に約10万人の人々が天安門広場に集まった[3]。 抗議運動自体は、胡耀邦が死去した1989年4月15日から自然発生的に始まった。抗議の参加者たちは統制がなされておらず、指導者もいなかったが、中には中国共産党の党員、トロツキスト、左派の毛沢東主義者、通常は政府の構造内部の権威主義と経済の変革を要求する声[4] に反対していた改革派の自由主義者も含まれていた。また、デモへの
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