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哲学に関するdlitのブックマーク (28)

  • ダメットの言語哲学について(コメント用に書いたものをここに転用) - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    専門の学者さんのブログ(→こちら)に長々と素人見解を書くのは僭越で恥ずかしいと思ったのでそれはやめたのですが、せっかく書いたのにもったいないのでここに転用します ダメットの言語哲学は日語ではめぼしい情報が手に入りにくいのですが、私が今現在おそらくこうではないかと構成したものを書きたいと思います。素人の戯言だとでも思ってお付き合いいただければ光栄です。ちなみに、ここでするのは意味論の話(例えば世界と言語との関係)なので、語用論的な例(例えば含意や命名)は枠外において考えてください。 言語への直観主義的な理解法 ダメットの主張可能性条件*1は正当化条件*2とも言われますが、こちらの方が質を示した分かりやすい呼び名だと思います。まず、ダメットがこれを主張した基盤となった直観主義数学の話から。数学的命題(たとえばフェルマーの定理やゴールドバッハ予想)は証明によって真偽が確かめられます。数学的命

    ダメットの言語哲学について(コメント用に書いたものをここに転用) - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • もう少しマシな言語哲学への展望を妄想する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    (承知済みだったとはいえ)前回の記事があまりにひどかったことに後から反省。きちんとした解説はid:optical_frogさんが訳した「レカナティ「語用論と意味論」」を読んでください。以下はあくまで私的見解としてお読みください。ちなみに、最近はやる気がないのでブログの更新は(めったにしそうにもないが)たとえしたとしてもこの程度のメモぐらいがやっとだと思います。 オースティンとグライスとの差異 とりあえず手元にある文献から思いつくところを適当に引用してみます トラヴィスは、私が言う二つの「哲学的構図」を、自然言語における発話の意味論とはいかなるものかをめぐる相異なる見解として提起する。一つは(ポール・グライスに代表される)「古典的」見解、そして―よりなじみの薄い―もう一つはウィトゲンシュタインおよびオースティンに帰せられる「発話状況に敏感な意味論」である。(p.127-8) 私の知り合いのあ

    もう少しマシな言語哲学への展望を妄想する - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • Mixiコミュで書き込んだ拙文

    松尾匡のページ 09年6月8日 Mixiコミュで書き込んだ拙文 やすいゆたか先生が、この八月あたりに「疎外論再評価をめぐるシンポジウム」を実施しようと企画されていて、協力せよと声をかけられている。あまり役に立ちそうにないのだが、お声をかけていただけたことは光栄な話である。 ところで、やすい先生からは以前ミクシーに誘われて、「マルクス研究」というコミュニティに入れていただいたのだが、忙しすぎて滅多に書き込むこともなかった。 それが、シンポジウムも近づいたからということで、その準備のために議論を始めよということで、先生から話をふられて、投稿を促された。 なぜ私松尾が、疎外と言えば「観念の自立」ばかりを問題にするのか。マルクスは生産物の労働者からの自立を「疎外」として取り上げたのではないのかというお題であった。 それで、おこたえを書き込んだのだが、かなり時間がかかって、ちょっとした文章になったの

  • 「論理は真理を保存するか」(秋葉研介) - あいまいな本日の私 blog

    「科学哲学」27(1994)pp.69-82. 某氏の日記経由、web上で取得可能(いい時代になったものです)。 論文では、推論主義の見地から論理的推論にアプローチする。すなわち、「良き論理とは演繹的保存拡大の条件を満たす論理であり、良き推論とはそのような論理内の推論である」。そして、我々が古典論理を使用するのは、「使い勝手が良い」からである。また、古典論理が「真理保存的」であると見なされるのは、使い勝手が良いために我々が古典論理をよく使うため、「真理保存的である」と考えると便利だからだ、と結論する。 非常に明快で力強い論文なのですが、明快すぎる嫌いがありあます。すなわち、議論を単純にしすぎてしまい、いくつか重要な点で過剰殺戮を行っているようにも思えます。たとえば、論文では、上記の引用からも分かるとおり、自然演繹チックな方法で証明論的に形式化されていることが、論理としての最低条件である

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  • "Multiple conclusion" (Greg Restall) - あいまいな本日の私 blog

    Logic, Methodology and Philosophy of Science: Proceedings of the Twelfth International Congress, pp.189-205. 原稿は著者のページから取得可能。この論文、読み終わったのは帰国する飛行機の中だったんですが、感想を書くヒマがなかったもので。 「証明論的意味論」というと、自然演繹 (natural deduction) を反射的に思い浮かべてしまいますが、でも、論理学の現場では自然演繹よりも列計算 (sequent calculus) の方が一般的です。自然演繹の場合、導き出される結論は基的に一つ(でそれが樹状に結合する)ですが、列計算の場合は複数の結論があります( みたいに)。この違いは、論理的帰結関係の分析という視点から見た場合、質的なんでしょうか。この点に答えようとするのが論文の

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  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    織田信長 ぼちぼち、元気にやっています。少し薬にも慣れた...んかなぁ。相変わらずべられないけど。朝、指がこわばって文字なんて入力できなかったけど、それはほぼなくなった。関節もどこも痛くない。薬効いてきたんやろな。 で、ブログを書こうと言う気がまた起きてきた。 …

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  • left over junk

    2008-04-05 optical_frog 2008-04-05 通りすがり 2009-02-11 optical_frog 2009-02-11 @minorimironim 2009-02-11 @minorimironim 2012-06-02 optical_frog 2012-06-02 toohuudoo 2009-02-11 optical_frog 2009-02-11 dh 2012-12-31 optical_frog 2012-12-31 ponchi 2012-12-31 optical_frog

  • 言語の文脈的意味を考えるつぶやき - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    まとまりがなくて自信がない文章だけど面倒なので出しちゃう 言語行為論の哲学的貢献は、言語は記述に関係すべきという(道徳的説教と変わらない)哲学の傲慢を批判したことであり、その延長で言語と現実との関係はそれに関与する人間によってこそなされるとする主張だ。言語と現実との関係にも二つあって、オースティンが提示したのは言葉の記述役割を相対化する語用論的関係であって、文脈主義による意味論的関係とは分けないといけない。ところで、言語行為論は論理実証主義との対抗関係で成立しているが、言語行為論的な批判をそのまま日に持ってきて主張してもむなしいところがある。つまり、日では逆に言語と現実との関係が無責任であることの方が問題なのだ。言語行為論の普遍的意義は(歴史的意義とは別に)認めるべきだが、いい加減に特殊な文脈で意義を持つ輸入品をそのまま日で使おうとするような愚はやめてほしいと思う(日には記述至上主

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  • 行為の哲学史、その他: temporalia

    ◆行為の哲学史、その他 ・Stewart Candlish & Nic Damnjanovic, "Reason, Action and the Will: the fall and rise of causalism," in Beaney, M. (ed.), The Oxford Handbook of the History of Analytic Philosophy (OUP, forthcoming) [pdf] ウィトゲンシュタイン、ライル、アンスコムによる因果説批判(身体行動の原因たる意志作用の概念への批判)に対して、デイヴィドソンはきちんとした対応をついに怠ったのではないか、というような内容。 ・John M. Finnis, "Anscombe's Essays," National Catholic Bioethics Quarterly, Vol. 9 (200

  • "Can we see numbers? Can we see sets?" (Byeong-Uk Yi) - あいまいな本日の私 blog

    発表内容はこちら。 ベナセレフのディレンマ*1を解決するため、数学的知識は経験によって得られることにしたい。そのため、自然数を属性と考えよう。つまり、「xはn個ある」は、「xは赤い」と同じような経験的な属性である、と考える。 Maddyらは、集合を属性と考える。すなわち、「属性「二匹いる」を持つ牛たちがいる」のではなく、「属性「濃度2」を持つ牛の集合が一つある」と考える。しかし、Yi氏は集合の存在論にはコミットしたくない。だから、自然数は「見ることが出来る」*2が、「集合は見ることが出来ない」 自然数が、有理数や実数や無限集合と違って特別な立場にあるのは、複数量化(prulal quanitification)を使って表現できるから。そして複数量化は、英語などの複数形の解釈で威力を持つが故に、正当化できる。他の数学的対象では、例えば「xは三角形である」は属性として認める。「xは群である」は

    "Can we see numbers? Can we see sets?" (Byeong-Uk Yi) - あいまいな本日の私 blog
    dlit
    dlit 2009/06/11
    「集合の存在を認めずに自然数に関する知識の獲得を経験的に説明する」そんな考え方もあるのかー
  • 科学について(あるいは真理について) - quine10の日記

    えー、FC2のブログでは疑似科学に関することを取り上げて論じたこともあるわけですが(疑似科学批判ではなく)、当ブログでは疑似科学を取り上げる予定は当面ありません(未来永劫ない、とも言いませんが)。 最近、疑似科学批判(あるいは疑似科学批判批判、さらには疑似科学批判批判批判、and more…)に関わるブログ間のやり取りを眺めていて、思うところがあるので述べてみよう。 ただし、疑似科学に関するものではなく、科学に関するものであるが。 もちろん、疑似科学批判は主に科学的見地からなされる以上、科学に関することがらが疑似科学と全く無関係と断ずることも出来ないのだが。 言いたいことは、僕自身はこの論考を疑似科学(ないしは疑似科学批判)と絡めて論じるつもりはない、ということである(他の誰かがこの論考と疑似科学を絡めて論じることを阻む意思は全くない)。 では、題へ。 えー、とある疑似科学批判派(と思わ

    科学について(あるいは真理について) - quine10の日記
    dlit
    dlit 2009/04/22
    クワインが言ったのはそういうことじゃないと思うけど。自然を記述する理論(体系)にいくつもの可能性があるってことと、一つの理論を自然の在り方をよりよく説明できるように改訂していくことは矛盾しない。
  • はてなブログ | 無料ブログを作成しよう

    年間約50現場通うアイドルオタクが選ぶ2024年現場ベスト3! こちらのブログでは初めまして。アイドルオタクブロガーのあややと申します。普段は「それは恋とか愛とかの類ではなくて」(https://moarh.hatenablog.jp/)というブログを書いています。この度、アイドルオタク友人たちと4人で交換日記を始めることになりました! …

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    dlit
    dlit 2009/02/13
    「哲学を学んで思ったことは、「根源的な問いは生産的ではない」ということ」僕が哲学にはまりながらも院での専門は言語学/文法研究にした理由とほぼ同じだ。
  • これが自然種だ! - スウィングしなけりゃ脳がない!

    と講談社現代新書のように高らかに名指し得るものがあるのか、僕には皆目わからない。*1 前回のネッド・ブロック Ned Block の翻訳に自然種 natural kind という語が出てくる。これまでも何度も様々なで目にした語であるが、いまいち、自然種とは何か、が覚束ぬ。僕の所属する脳科学の研究室には、哲学辞典など、ない。そこで、安易にグーグル先生に尋ねてみた次第であるが、パンの酵母が云々、といったページばかりである。ブロック先生は「中国人ひとりひとりにニューロンの真似をさせたらそこに意識が生まれるか、仮に意識が生まれるとするならチベットやウイグルなどの問題はどうクオリアとして立ち現れるのか」といった奇抜な発想で知られる方であるが(後ろ半分は真っ赤とはとても言い難い嘘である)、流石に脳内の酵母菌と意識との関係を論じるはずがないのである。 こちらの「知識は自然種か?」 (pdf) は大変勉

    これが自然種だ! - スウィングしなけりゃ脳がない!
    dlit
    dlit 2009/02/01
    クワインの論考は難しくてよくわからなかった思い出が/この概念を認めるとfoundationalismが持つのと同種の問題を抱え込んでしまうような気がぼんやりとするのはやっぱり自分が理解できていないからなのか。
  • IT Professionals

    メタソフト CTO 早川てつろう 最終回 「語りえぬこと」〜言語の限界〜とは この連載も,いよいよ最終回となった。最後に,「論考」の結びの言葉である「語りえぬものについては沈黙せざるをえない」と,プログラミング言語の関係について考えてみたい。 メタソフト CTO 早川てつろう 第11回 オブジェクトは現実世界の像だ 前回,オブジェクトと変数について話をした。今回は,このテーマを補足する意味で,ウィトゲンシュタインの「像」という概念について説明する。 メタソフト CTO 早川てつろう 第10回 オブジェクトは変数だ プログラムを作るには,どんなプログラムを作るかという設計図が必要だ。この設計図のことを通常,「詳細仕様書」や「プログラム仕様書」と呼ぶ。プログラマは,それらの仕様書に従ってプログラムを作る。 メタソフト CTO 早川てつろう 第9回 プログラミングと実行 プログラミング言語で書か

    dlit
    dlit 2009/01/19
    なんじゃこりゃ。少なくとも僕の知っているウィトゲンシュタインとは違うウィトゲンシュタインのような。
  • 必然性と予期:猫は必然的に動物か? - left over junk

    困ったときのクルーズてんてー頼み,というわけで,リハビリ的に Meaning in Language から自分の気に入ってるところをチョイスして紹介します. Meaning in Language: An Introduction to Semantics and Pragmatics (Oxford Textbooks in Linguistics) 作者: Alan Cruse,D. A. Cruse出版社/メーカー: Oxford Univ Pr発売日: 2004/03/25メディア: ペーパーバック クリック: 32回この商品を含むブログ (5件) を見る 3.3.2.1 必然性と予期 〔意味の相対的次元の〕一つ目のパラミターは必然性 (necessity) だ.このパラミターについて単純な見方をするなら,必然的な論理関係と偶有的な論理関係とを截然と二項対立にして,ある特性が必然的

    必然性と予期:猫は必然的に動物か? - left over junk
  • 「我思う故に我有り」は微妙に誤訳なんじゃないか: 極東ブログ

    このエントリを書こうか書くまいかためらっているうるに、なんとなく書かなくなりそうな感じがして、それはそれでいいかなと思うものの、まあ少し気楽に書いてみるかな。おそくらほとんどの人にとってそれほど関心のないことだろうし、そういう話題を扱うのがこのブログだしな、と。さて、結論からいうと、「我思う故に我有り」は誤訳だとは断言しづらい。また、「思う」じゃなくて「考える」だとかそいうレベルの話でもない。 このことが気掛かりになっていたのは、先日の「極東ブログ: ウォーレン・バフェットのありがたいご託宣」(参照)で取り上げたコラムの標題"Buy American. I Am."をどう訳すかということだった。コメント欄でいろいろご示唆をいただいたけど、正直なところあまりピンと来なかった。来ない理由は、なんとなくこの英語の意味を、ちょっと変な言い方だけど、自分の英語処理脳でなんとなくわかっている部分があり

    dlit
    dlit 2008/12/08
    接続詞があると関係節にはならないと思うんですけど…/これも文法の話につっこむと「文法の話がしたいのではありません」と言われそう、ってすでに色んな所にエクスキューズが書いてあった。
  • 奇抜な見解で話題になる分析哲学者たち - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    どうもクワイン以後の分析哲学には、奇妙な結論を引き出して話題になる哲学者が時々見受けられる。彼らは奇妙な結論の裏側に重要な哲学的問題を隠し持っているのだが、奇妙な結論ばかりが有名になって哲学の専門家の間に話題を提供することにはなるのだけれど、その奇妙な結論のせいで却って当の問題提起は見えにくくなってしまっているところがある。そうした哲学者とはデヴィッド・ルイスやリチャード・ローティやジョン・マクダウェルのことである。可能世界は現実世界と同じように実在するとか科学も芸術も政治も解釈学的には同じとか知覚内容はすべて概念的なので幼児や動物は知覚しないとか、奇抜な見解で知られる。しかし、その奇妙な結論に注目するのは実は誤りで、その裏に潜む哲学的難問に気づかないとしょうがないような気がする。つまり、デヴィッド・ルイスなら実在論問題、リチャード・ローティなら認識論問題、ジョン・マクダウェルなら超越論問

    奇抜な見解で話題になる分析哲学者たち - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
    dlit
    dlit 2008/11/25
    専門家の主張のインパクトや突飛さばかりが注目されるということは色んな分野で見かけられる気がする。そこへ至るプロセスとかそこから自動的に導出される含意の方が重要だったり面白かったりもするのにね
  • ハイデガーにおける論理学と形而上学 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    理性を解明し規定することが正当に且つ必然的に《論理学》と呼ばれるかぎり、西洋的な《形而上学》は《論理学》であるとも言える。存在者たるかぎりの存在者の質は、思惟の視圏のなかで決定されるのである。 ハイデガー「ニーチェ ヨーロッパのニヒリズム」isbn:4582761844.78-9より カテゴリー論と形而上学の関係 ハイデガーの大きな問題点は、科学と技術を安易に同一視しているのと同じように、論理学と形而上学をも一緒くたにしてしまうことだ。この場合、形而上学とはアリストテレス的なカテゴリー論のことであり、トマス・アクィナス経由で西洋哲学が受け継いでる思考法でもある。実際にハイデガーは(若き時分にブレンターノの論文で出会った)トマス・アクィナス的なアリストテレス理解への批判を出発にしているところがある*1。ところで、カテゴリー論とは何か。カテゴリー論とは物事をカテゴリーに分類する議論のことだ。

    ハイデガーにおける論理学と形而上学 - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • 分析哲学が分かる人だけにしかお勧めしない記事です - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~

    いきなり追記:内容に自信がなくて書いてから公開をしばらくためらっていたのですが、思い切って出しちゃいます。適当に割り引いて読んでください さらに追記:勘違いと思えるところを一部削除(横棒の入った部分)しました(08/10/11) 注 こちらのブログのコメント欄に書こうとしたコメントを、長大で難解な文章になったので、別にしてそのままこっちに転用(文体が滅茶苦茶なのはそのせい)。一切分かりやすく書いてないので、理解できなくても全く心配ありません(むしろ矛盾や論理の破綻がないか心配なくらい)。 理解するコツは「様相命題→普通命題→モデル」の三段階であることを考慮することです。来のモデル論的論証は「普通命題→モデル」レベルの話だが、モデル論的論証による批判が強烈になるのは様相命題を持ってきたときである(なぜなら可能世界意味論が指示の因果説や選り抜きの集合に頼っているからだ)。ちなみに、この文章で

    分析哲学が分かる人だけにしかお勧めしない記事です - 蒼龍のタワゴト~認知科学とか哲学とか~
  • http://kurt.scitec.kobe-u.ac.jp/~sato/misunderstanding.html