たぶん比治山公園では御製の碑は前項の1基だけ。 陸軍墓地内には香淳皇后の御歌を含む慰霊碑が1基ある。 比治山 陸軍墓地-詳細 : 英霊顕彰・慰霊 : 日本会議広島 その「広島少年飛行兵の碑」自体は昭和50年の建立で、墓誌は平成11年に加わっている。 入江相政揮毫の「皇后陛下御歌」の歌自体はは昭和12年の作で、「みたま慰の舞」で知られる。 「大空に散華せし亡き友に捧ぐ 広島少飛会」部分は源田実の揮毫。建立当時は参議院議員。 一つの記念碑が複数の要素の集まりになると、複数の人物と複数の時代が絡まり合って想起される。昭和12年に源田実は海軍大学校を卒業、とか。
▼作品 ▼審査評 頼山陽賞 熊野町立熊野東中学校 二年 田村 有莉咲さん この度は頼山陽賞というすばらしい賞をいただき誠にありがとうございました。私は、「山紫水明」という字を書きました。バランスが取りにくく、また行書のように柔らかく書くことが難しかったです。でも、練習を積み重ねていくことでだんだん自分の納得する作品が書けるようになったので良かったです。また、名前も作品の一部なので気を抜かず最後まで丁寧に書き上げました。これからも楽しく書道をしていきたいです。 広島県教育委員会賞 広島市立亀山南小学校 六年 楠木 さりあさん この度は、広島県教育委員会賞に選んでいただき、ありがとうございます。 「真」を書く時一番苦労したところは、字の太さです。字の太さを細くしたらとても、「真」が弱く見えてしまって、太く力強く書くと、間が均等になりませんでした。 そこで先生にアドバイスをもらってやっとこつが
所蔵品展 「時を超えて-漢字の世界」を開催いたします。 概要現存最古とされる漢字が誕生したのは約3500年前の殷時代である。殷王朝は、神意を伺って政治を行い、そのため占いによって物事を判断していた。漢字は占いの記録に用いられ、卜辞と呼ばれるその内容は、祖先の祭礼、農耕の吉凶、気候、狩猟に関するものなどであった。亀甲や獣骨に刻まれたことから甲骨文(こうこつぶん)という。人や動物の形、占いに用いた道具などから生まれた象形文字である。 周の時代、卜辞は次第に衰退し、青銅器の鋳造が盛んになった。青銅器の表面に鋳込まれた文字を金文(きんぶん)という。続いて秦時代に始皇帝が文字の統一を行い小篆(しょうてん)が生まれ、これまでの文字の書体を総称して篆書(てんしょ)という。篆書は、曲線を多用し、線の太さは均一で、主に政治的な文書に使用され、現代でも印鑑などに使われている。 篆書の形は使われるうちに速写に対
狛犬をはさんで顕彰碑の向かい側に「忠孝」の二字、と隣に小さく「正二位基弘」と。 裏面に「正二位公爵二條基弘*1卿書」とあり、「壬戌菊秋」とあるので大正11年*29月に、呉市の稲垣壽惠によって建立された。 表と裏の字の硬軟が対照的。 関連 礒宮の忠孝岩 *1:wikipedia:二条基弘1859-1928 *2:1922年
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