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g永禄に関するkanototoriのブックマーク (4)

  • 波多見の八幡宮 - 環藝録

    麓の鳥居と標柱の間にある石碑に八幡山神社の略歴が記されている。 平成4年の建立で、祭神が応神天皇・神功皇后・玉依姫命であることのほか、以下の出来事が載っている。 天平宝字年間 勧請 中世 戦乱によって矢野へ遷る 永禄3年 尾崎神社(矢野)から渡子*1へ遷る その後 当地に遷る 天正4年 小早川隆景が再建 文化文政期 『藝藩通志』の記述「祠官の属十余家あり…」 以後 二・三回の改修 音戸町の前身は、東部の音戸瀬戸〜藤脇「瀬戸島村」と、北西部の早瀬瀬戸に面する「渡子島村」で、瀬戸島は中世には波多見島・波多見浦と呼ばれた。 島をめぐって矢野を拠点とする野間氏と竹原小早川氏が争ったこともあって、小早川氏の所領に落ち着くまでが明瞭でない。 『藝藩通志』(巻三十九 安藝國安藝郡四 祠廟)には 八幡宮 瀬戸島波多見村にあり、建久二年辛亥、勸請すと云、天正四年丙子、小早川隆景、再造、(略) と、細かなとこ

    波多見の八幡宮 - 環藝録
  • 長野日報社 - Nagano Nippo Web

    平素より株式会社長野日報社のホームページをご利用いただき、誠にありがとうございます。 このたび、弊社ホームページを2024年4月15日(月)にリニューアルいたしました。 より使いやすいホームページを目指して、デザインとページの構成を見直しました。 これからもコンテンツの拡充を図りつつ、お客様に有益な情報を発信してまいります。 今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申し上げます。

  • 毛利隆元 没後450年記念事業開催!!

    毛利隆元 (1523 〜 1563) 父元就が家督を相続した年に誕生。 名将の子としての苦悩を抱え毛利家発展のため尽力しますが、41歳という若さで死去します。 毛利家当主でありながら偉大な父の陰となり、これまであまり注目されることがなかった隆元。 大内文化に触れた人質時代、父元就との関係、武将としての活躍、そして謎の死… 毛利隆元没後450年の今年、隆元に光をあてる3の矢を放ちます!! (※下記の事業の詳細は、決まり次第随時お知らせします) ★ 一の矢! 特別展「毛利隆元」 期 間: 平成25年10月26日(土)〜12月8日(日) 場 所: 当館 毛利隆元にスポットを当てた初の展示。 ★ 二の矢! シンポジウム「毛利隆元 −名将の子の生涯と死をめぐってー」 期 日: 平成25年11年17日(日) 場 所: 安芸高田市民文化センター(クリスタルアージョ) 神楽   「元就公」 吉田神楽団

  • ろんがいび:『言継卿記』に見える上泉信綱

    『言継卿記』に見える上泉信綱 田中光郎 戦国期の兵法者の伝記があいまいなのは、史料不足による。多くは後世に作られた伝説を書き留めたような代物しかない。その中で、上泉信綱だけは、同時代人である山科言継の日記の中に三十回以上登場するという、きわめて恵まれた存在である。しかしながら、これまで必ずしも十分にこれを読み解いてはいないように思われる。私もまた完全にそれを出来るような能力がある訳ではないが、信綱の伝記研究のためのノートを作成してみようと思う。 『言継卿記』に上泉信綱が(多くは大胡武蔵守の名で)登場する三十二日分は『前橋市史』が網羅している(第1巻九七六〜八頁)が、以下その箇所を刊(国書刊行会版第四巻)と照合し、以後の引用のための記号を付けておく(例えば永禄十二年正月十五日条はA1のようである)。 永禄十二年(A) 1正月十五日(三〇二頁) 2十六日(三〇三頁) 3二月二日(三〇七頁)

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