拓殖大学に入学するも1度も授業に出ず[6][注釈 2]、2年生に進級できなかったため音楽の道を志す。程なくデモテープが「面白い」と北島肇プロデューサーに認められて音楽業界に入る。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのボーヤとして、渋谷にあったライブハウス渋谷ジァン・ジァンで前座を務めていた。もう一人の河原崎直彦プロデューサーがダウン・タウン・ブギウギ・バンドも手掛けていた関係で宇崎竜童と出会い、前座で出演するに当たって「所ジョージ」と命名された。ライブ会場では小遣い稼ぎのために勝手に宇崎のシールを作って売ったり、ステージ上では「どうせ誰も聞いていない」との理由で餅を焼いて食べるなどしていた。人前で歌ったことがない状態からボーヤを経て、1977年7月25日に『ギャンブル狂想曲/組曲 冬の情景』で、シンガーソングライターとしてデビュー。 1980年代前半は、CBSソニーの新人登竜門の新宿ルイードな