先週に引き続き、馬場美佳先生による大衆文学のお話。 前回は、「大衆文学」ができるまで、ということで、まずは京極夏彦と東野圭吾の「読者サービスに終わりはない」と題された、東野の直木賞受賞記念の対談から説き起こされました。この中で彼らは口を揃えて、「作家じゃなくて小説家と言われたい」とか「僕は「文学性が高い」という言葉の意味がまったくわからない」とか「やっぱり娯楽小説ということを強く意識します」とか「小説は読者に委ねるもんなんであって、権威になっちゃいかん」といった発言を繰り返すわけですが、彼らが前提として共有する、(純)文学/(娯楽・大衆)小説という二項対立、そしてその前者の方に「権威」があり、「読者」を優先するのは後者だという認識は、いったいいつごろ成立したのか。 というわけで、話は一気に明治へとさかのぼり、まずは日本における「文学」、先ほどの二項対立の前者に当たるものとしての「文学」の成
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