栃木県大田原市にある前方後方墳の「侍塚(さむらいづか)古墳」で、筒状の埴輪(はにわ)「円筒埴輪」とみられる破片が複数出土した。調査している県によると、4世紀後半(古墳時代前期)につくられた前方後方墳…
はじめに 滋賀県高島市 #鴨川 が流れる天皇橋のそばに #鴨稲荷山古墳。金銅製のキラキラ輝く冠、沓、耳飾りなどで飾られた被葬者の様子から、#継体天皇 と深い関わりのある首長・皇子クラスの墓と推定されます。#高島歴史民族資料館 目次 鴨稲荷山古墳(かもいなりやまこふん) 高島歴史民俗資料館 本文 滋賀県高島市といえば、安曇川(あどがわ)が知られていますが、市内南側を鴨川(かもがわ)が流れ、琵琶湖に注いでいます。 滋賀県高島市 鴨川 天皇橋付近 鴨稲荷山古墳(かもいなりやまこふん) その鴨川にかかる天皇橋(県道23号線、小浜朽木高島線)の近くに、鴨稲荷山古墳があります。 鴨稲荷山古墳(滋賀県高島市鴨)茶色の小屋に石棺 鴨稲荷山古墳は、6世紀前半の築造の前方後円墳(墳長45m、周壕含めて約60m)で、その築造年代から『被葬者は継体大王と深い関わりを持ち、当時の高島を治めていた首長であろうと考えら
さてさて、今日やってきたのは奈良県磯城郡川西町にある島の山古墳。 ここにちょっと気になる謎なエリアがあるんだよね。 島の山古墳は全長200mと大型の前方後円墳である。 古墳が多い奈良県内でもトップ20にランキングされるほどの古墳であり、国指定史跡、国指定重要文化財にも指定されている。 国内に多数ある大型の前方後円墳は概ね古墳の周りには堀があり、堀の周りは遊歩道やや車道となっている場合が一般的である。 がしかし、GoogleMapで島の山古墳を確認すると南側の堀のぎりぎりに住宅が建っているのが分かる。 この場所はいったいどうのような場所なのか? そうなんです。 国指定重要文化財である古墳の堀の上に住宅が建てられているんです。 関西には古墳が4万個ほどあり、その大半は実は個人所有であると言われているが、ここまで大きな古墳であり、国指定重要文化財にもなっている古墳の堀の水上に住宅が建つなんてこと
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1985年福岡生まれ。思い立ったが吉日で行動しています。地味なファッションと言われることが多いので、派手なメガネを買おうと思っています。(動画インタビュー) 前の記事:カレーの匂いでカレー屋に行きたくなるのか(デジタルリマスター) > 個人サイト Web独り者 彼女がいる風の地主恵亮 梶ヶ谷は東京です 神奈川県川崎市高津区にある梶ヶ谷。 僕はこの「梶ヶ谷」に住んでもう3年になる。田園都市線が東京「渋谷」から神奈川「中央林間」まで走っており、その中に「梶が谷駅」がある。限りなく東京よりに位置する駅だ。 もう東京だよね(「かじがや」は「梶ヶ谷」や「梶が谷」と表記される) 梶が谷駅からは5分で東京である。たった5分である。 たとえば朝の「あと5分だけ」の二度寝はあっという間に経ってしまうと思う。しかも5分くらい寝ても眠たさは変わらない。つまり5分とはもはや無いに等しい時間なのだ。そう考えると東京
東アジア最大の蛇行剣(長さ237センチ)の初公開など、今年最も話題を集めた古墳の一つが奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半)だ。ただ、半世紀前に高度経済成長期に伴う住宅開発で消滅する危機にあったことはあまり知られていない。当時若手研究員だった奈良県立橿原考古学研究所元副所長の泉森皎(こう)さん(83)が、保存の必要性をあの手この手で業者に訴えた。その熱意が、今の「蛇行剣フィーバー」につながった。 3月中旬に邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などが埋葬時の状態で見つかり、現地説明会には2日間で4500人が訪れた。3月末~4月の同研究所付属博物館(橿原市)での蛇行剣の初公開には8日間で1万7千人以上が詰めかけ、2時間待ちの列ができるほどだった。 ふた開けた缶詰
国内最大の仁徳天皇陵古墳。古墳時代以降もさまざまな歴史を刻んだ=堺市国内最大の仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)を宮内庁が初めてレーザーで測量した。歴史教科書では優美な前方後円墳の姿が知られるが、最新の科学の目で見ると、墳丘の半分ほどが地滑りで大規模に崩壊。すぐ西側には上町断層帯が南北に走り、地震が原因とみられる。後円部の斜面には地滑り被害の後に設けられた正体不明の円形の小道があり、頂上部には石室を囲む江戸時代以降の石柵もレーザーで確認された。一枚のレーザー測量図から、古墳築造以降1600年の歴史が見えてくる。 「T」字形の破線で地滑り跡が示されたレーザー測量図。築造当初の墳丘部分はアミをかけて表示(「書陵部紀要 第74号」から転載)皇室の祖先の墓として立ち入りができない同古墳は長らく、昭和2年の測量図でしか内部の様子は分からなかった。測量は人の手によるものだった。平成24年に大
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東京国立博物館 特別展 はにわ ★このブログはアフィリエイトを利用しています 埴輪!いいなあ行こうかなあ!と思っていたところ、友達から「平日どうよ?」とお誘いがあり、喜び勇んで埴輪に会いに行ってきました。 ※数日前に、学校がお休みの息子を誘ったけど、「はにわか・・・。」で終了。 上野駅で待ち合わせ(母はここで違う人に手を振ってしまう。恥ずかしい。)、公園口を出ると、上野動物園や国立科学博物館、国立博物館に行く小学生・中学生・修学旅行生がたくさんいる様子。 ごった返しているというか。 東京国立博物館の表慶館ではでキティ展が開催されてたんですね。それで混んでいるのかな?違うかな? 覗いてる! ハローキティ展(Hello Kitty展) -わたしが変わるとキティも変わる-|公式サイト 特別展はにわは、キティちゃんの表慶館を通り過ぎた奥にある平成館。 色々な素敵ブログ様がすでにワンダフルな埴輪を紹
国内最大の仁徳天皇陵古墳(手前)。左は国内3番目の履中天皇陵古墳(365メートル)。大阪湾(奥)を望むように築かれた=堺市(本社ヘリから) 日本の国はいつ誕生したのか。古代史最大の謎は「七五三論争」といわれ、研究者の間で議論が分かれる。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)が登場した「3世紀」、仁徳天皇陵古墳(墳丘長486メートル、堺市)など巨大前方後円墳が築かれた「5世紀」、法治国家ができた「7世紀」-。この謎を解く鍵が、奈良や大阪に集中する天皇陵クラスの古墳。大きさや形の変遷から、国の姿が浮かび上がる。古墳の新緑もみずみずしい季節。鳥居の設けられた天皇陵を仰ぎ見ると、厳粛な気持ちにさせられる。 卑弥呼と墓ともいわれる箸墓古墳(手前)。すぐ上には宮殿跡が見つかった纒向遺跡が広がる=奈良県桜井市(本社ヘリから) 邪馬台国の有力地、纒向(まきむく)遺跡(奈良県桜井市)にあり、卑弥呼
奈良県明日香村にある国宝の高松塚古墳の壁画はカビによる劣化が起こり、12年にわたって修復作業が行われてきましたが、文化庁は26日、修復が終わったと発表しました。 飛鳥美人の名前で知られる「女子群像」などが描かれた高松塚古墳の壁画は、文化庁の対策が不十分で、大量のカビが生えるなどして劣化が進み、平成19年に古墳から取り出されて、近くの施設で修復が進められていました。 修復技術の開発に時間がかかり、もろくなった下地のしっくいを天然素材のにかわなどを使って慎重に補強するなどしたため、修復作業は、予定より2年長い、およそ12年におよびましたが、文化庁は26日、修復が終わったと発表しました。 修復後の「女子群像」では、カビなどで黒ずんでいた4人の女性の顔や上半身の表面の汚れが除かれ、顔つきが鮮明になったほか、衣装に描かれたしわも見えやすくなっています。 一方、方角の守り神の1つ、「白虎」は汚れは取れ
富雄丸山古墳で木棺出土 富雄丸山古墳で出土した木棺。小口板が垂直に立った状態で見つかった=6日、奈良県奈良市(南雲都撮影) 国内最大の蛇行剣や盾形の銅鏡が見つかった奈良市の富雄丸山古墳(径109メートル、4世紀後半)の埋葬施設「粘土槨(かく)」から、被葬者を納めた割竹形(わりたけがた)木棺が築造時に近い状態で出土し市教育委員会が6日、発表した。石棺などにみられる「縄掛突起(なわがけとっき)」が見つかり、割竹形木棺で確認されたのは初めて。木棺の構造を知る上で重要な資料としている。 木棺の蓋(ふた)は全体の3分の1が確認され、身(本体)も大半が残っているとされ、これほど当時の姿をとどめているのは全国的にも珍しいという。副葬品については金属探知機で反応があり、今後内部の土を取り除いて調べる。 同古墳は国内最大の円墳。粘土槨は墳丘から張り出した「造り出し」にあり、木棺を粘土で覆う構造。昨年度の調査
河岸段丘上に築かれた巨大古墳。(手前から)応神天皇陵古墳、仲姫命陵古墳、允恭天皇陵古墳(右奥)。応神天皇陵古墳の前方部西側(左端)は地震によって大きく崩れたというえぐられたような巨大な前方後円墳。国内2番目の規模を誇る応神天皇陵古墳(大阪府羽曳野市、5世紀前半)の航空レーザー測量図を見ると、前方部の西側が大きく崩れているのが一目で分かる。ほぼ真下に活断層が走り、マグニチュード(M)7以上の大地震が原因という。なぜ活断層の上に築かれたのか-。不安定な地盤と知りながら、ライバルを意識して無理に巨大化したためとの見方も。崩れた墳丘の姿から、連合政権とされるヤマト王権内の主導権争いも垣間見える。 応神天皇陵古墳の航空レーザー測量図。前方部西側(左)が大きく崩れているのが分かる。東側の堤に接しているのが二ツ塚古墳(右)=百舌鳥・古市古墳群世界遺産保存活用会議提供活断層が墳丘縦断墳丘長は425メートル
富雄丸山古墳から見つかった盾形銅鏡(左)。X線画像では精緻な文様が施されているのが分かる(奈良県立橿原考古学研究所提供) 奈良市にある国内最大の円墳、富雄丸山(とみおまるやま)古墳(4世紀後半)の墳丘から張り出した「造り出し」の部分で埋葬施設が見つかり、内部から精緻な文様が施された盾形の青銅鏡と剣身が曲がりくねった「蛇行(だこう)剣」が出土した。奈良市教育委員会と奈良県立橿原考古学研究所が25日発表した。銅鏡は通常円形で盾形のものは類例がない。蛇行剣は長さ237センチで、古墳から出土した鉄剣では国内最大。いずれも国産とみられ、古墳時代前期の金属器としては国宝級の傑作と評価され、当時の生産技術の高さを示す極めて重要な発見となった。 富雄丸山古墳では国史跡指定を目指し、同市教委が平成30年度から発掘調査を実施。昨年10月下旬、3段に築かれた造り出しの上段から「粘土槨(かく)」と呼ばれる粘土で覆
大勢の報道陣を前に副葬品について説明する柴原聡一郎さん(右)=3月12日東アジア最大の蛇行剣などの発見で一躍脚光を浴びた奈良市の富雄丸山古墳(直径109メートル、4世紀後半)。昨年12月に始まった木棺の発掘は、副葬品など被葬者の謎に迫る調査とあって全国から注目され、担当者も想像以上の緊張を強いられた。「わずかな遺物も見逃さない」。現場では通常のスコップとは別に、つまようじや竹べらを使って土を一粒ずつ取り除くような作業が続き、青銅鏡や漆塗りの竪櫛(たてぐし)発見に結びついた。 土を少しずつ取り除いてようやく見つかった青銅鏡。木棺の端に3枚が重ねて置かれていた(奈良市教育委員会提供) 「鏡だ」思わず拍手2月末、木棺の底まであと数センチ。残りの土を竹べらで取り除いていくと、黒光りした金属製品が姿を現した。表面は磨かれたような滑らかさ。「鏡だ」。直径20センチほどの青銅鏡が完全な形で残り、さびもほ
「鼉龍文盾形銅鏡」には龍が円を描くように施され、周辺にはのこぎりの歯のような文様も。表面は粘土で覆われていた=奈良県橿原市龍をあしらった特異な文様の盾形銅鏡、曲がりくねった蛇行(だこう)剣。「国宝級の最高傑作」と話題を集めた国内最大の円墳が、奈良市の富雄丸山古墳(4世紀後半、直径109メートル)。ヤマト王権の拠点からぽつんと離れた位置にありながら、西方の生駒山地を越えれば大阪という地の利を占める。「孤高の古墳」ともいわれるその被葬者は-。王権内でライバルだった奈良と河内(大阪)を結びつけたフィクサーか、王権と一線を画した有力者か。中国の文献にない「空白の4世紀」を埋めるカギを握る。 富雄丸山古墳で出土した鼉龍文盾形銅鏡(左)と透過X線画像(奈良県立橿原考古学研究所提供)。「鼉龍文」が上下に配置されているのが分かる 大和と河内を結びつけたフィクサー古墳の頂上から眺めると、東方には若草山、麓に
※1,3コマ目の黒いのは樹木のシルエット。 映画館から出た瞬間とか、人工物の無い山から街へ降りてきた瞬間とか、旅が終わった瞬間とか、いきなり現実が目の前に現れて面食らうことありません? 別に工業団地にケチつけてるわけではないんですよ。 古墳→工業団地を通ったらそう感じたってだけです。 工業団地→古墳の順でしたら「最先端な場所の隣に古墳!?」となったと思います。 人間の脳って面白いです。 ∞ F県は古墳数全国7位。 1万759個の古墳があるそうです。 8位の奈良県9663基より千基ほど多いです。 日本全国には15万9953基もの古墳があるそうですね(R3年)。 今年の1月時点での日本のコンビニ数は約5万7000店舗だそうですので、古墳の方が多いです。 因みに1位は兵庫で1万8707基あるそうです。兵庫のコンビニは2013店舗(R5年)、F県は2300店舗だそうですので、両県とも古墳の圧倒的勝
5月19日(日) 明日香村にある 高松塚古墳壁画修理室の公開 に応募したところ 当選してしまったので 急遽 奈良に行ってきました 公開期間が一週間なので既に満員になってます 👉『国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開』事務局 公式ホームページ キトラ古墳は未だ未だ余裕があります ~6月16日まで 👉『キトラ古墳壁画の公開』事務局 公式ホームページ 兎に角、奈良、それも飛鳥は女将の家からは遠いのです ワチャワチャと準備をして 若女将に 陸山一家をお願いして出かけました ホテルは京都に比べたら格安 \(゜ロ\)(/ロ゜)/ 4種類から選べる朝食付き 前菜とメイン お品書きは忘れましたが朝からこんなメニュー食べたことないです💦 シッカリ食べて 早速近鉄で飛鳥駅に向かってGO 今更ですが、雨で傘を持っていたのでモバイルスイカが使えて便利でした 雨が降っていましたが タクシーの姿見当たらず
奈良県斑鳩町法隆寺の円墳「舟塚古墳」(推定直径約20メートル)で、横穴式石室の構造や築造年代が分かり、発掘調査を担当した町教委と奈良大学が7日、発表した。石室は、被葬者を安置する玄室が通路・羨道から左側に張り出した「片袖式」と呼ばれる構造であることが判明。出土した須恵器により築造が6世紀後半であることも分かった。9日に現地説明会を開く。 舟塚古墳は現存する墳丘部が直径8・5メートルで、石垣で囲われている。今年2~3月の前回の第3次調査で横穴式石室の一部を確認。8月3日から始まった今回の4次調査(今月16日までの予定)では、墳丘中央付近の約13平方メートルを発掘した。 その結果、羨道部は破壊され、石室の天井石が抜き取られていることが明らかに。玄室は長さ3・8メートル、幅1・6メートルで、入り口(玄門)から見た正面の奥壁は5段以上の石材が積まれていた。玄室の規模や出土品などから地域の有力者2人
畝傍山(右)の麓に築かれた神武天皇陵(手前)。初代天皇にふさわしい森厳なたたずまいをみせる=奈良県橿原市初代・神武(じんむ)をはじめとする歴代天皇陵で、まず目に入るのが鳥居かもしれない。神社でもないのに、なぜ古墳に…。鳥居や玉垣のある「拝所(はいしょ)」が現在の姿に整備されたのは、幕末から明治初め。欧米列強が開国を迫り、植民地化の危機さえあった時代の激動期だった。ときの政府は、万世一系の皇統の姿を世界に対して視覚化する目的もあって、被葬者の特定とともに天皇陵の整備を急いだ。今では観光スポットになっている古墳は、近代国家としての威信を示す重要な役割を担った。 「万世一系」国柄を誇示「万世一系の皇統を奉戴(ほうたい)する帝国にして、歴代山陵の所在のいまだ明らかならざるものあるがごときは、外交上、信を列国に失うこと甚だしき」
岡山大学は20日、大学に隣接する宅地(岡山市北区津島福居)に、5世紀後半に築かれたとみられる前方後円墳があったと発表した。「塚前(つかのまえ)古墳」と命名。一帯は戦後に宅地化され、墳丘は完全に失われたが、全長最大約55メートルと推定される。墳墓発見のきっかけは、大学に持ち込まれた1枚の古い写真だった。 同大の野崎貴博助教(考古学)が記者会見した。塚前古墳の西約10キロには、全国4番目の規模の前方後円墳「造山(つくりやま)古墳」(北区新庄下)がある。今回の古墳発見の意義について「造山古墳を築いた強大な吉備の集団が分裂し、旭川下流の平野部にも広がっていく過程がより鮮明になった」としている。 発見のきっかけとなった写真は、明治期に現在の大学敷地にあった旧陸軍の駐屯地一帯を1908年に写した写真だった。昨年3月、岡山市の男性から持ち込まれた。野崎助教は、写真に納まる農地に、前方後円形の高まりがある
奈良市の日本最大の円墳、富雄丸山(とみおまるやま)古墳(4世紀後半)で、過去に例のない盾形の青銅鏡と、東アジア最大となる鉄剣が見つかった。 ともに国産とみられており、デザインや大きさから古墳時代に高度な技術があったことがうかがえる。既に「国宝級」との評価も高く日本の古代文化の豊かさを知らしめる新発見だ。研究成果に期待したい。 奈良市教育委員会と県立橿原考古学研究所が発表した。いずれも墳丘から張り出した造り出し部で新たに見つかった未盗掘の埋葬施設から出土した。 鏡は長さ約64センチ、最大幅約31センチの青銅製で、他に類例のない盾形である。文様面には上下に2つの大きな円を描くように日本でアレンジしたという空想上の神獣「鼉龍(だりゅう)」を配す。一見盾の中に2枚の円形銅鏡を組み込んだような斬新なデザインだ。「鈕(ちゅう)」と呼ばれるひもを通す突起もあった。 一方の鉄剣は蛇のように波打った形状の「
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中国の『魏志倭人伝』やわが国の『古事記・日本書紀』などの記述と、考古学の発掘調査結果が一致すると、それが事実であったという信ぴょう性が一気に高まりますし感激します。これまでにどんな一致が見られたのでしょう? ■貴重な文献と考古史料の整合性で見える古代史 わが国にはほぼすべての時代の考古史料が途切れることなく存在します。ただ文献資料は途切れることがあったり、その時代の文献が無かったりしますので、稀に文献と考古史料が一致すると、大きな感激と驚きを感じます。 古代の史実を証明する考古史料は数多く存在しますが、その裏付けとなる文字史料は極めて少ないといわざるを得ません。 現代のコンビニエンスストア数の3倍はあるといわれる古墳から、墓誌が出ることはまずありません。 つまり誰の墓なのかがほとんどの場合さっぱりわからなくなっているのです。残念なことに天皇陵とされている古墳も、被葬者の学問的裏付けはほとん
本記事はアフィリエイト広告を利用しています 記事内に商品プロモーションを含む場合があります こんばんわー さあ、良い子のみんなー!久しぶりに 古墳 de Go!のお時間だお~! 今回訪れたのはこちら! 茨城県はひたちなか市【虎塚古墳】desu!! 国指定史跡【虎塚古墳】! こちらの古墳は色鮮やかな壁画が遺されている「装飾古墳」(゜゜)wao! 装飾古墳といえば九州地域に多く分布しており、東日本では珍しい!! 合わせて東日本では珍しい「前方後円墳」で、しかも装飾古墳! 既にもう・・コーフンMAXですっ!!(゚∀゚)☆ クラブツーリズム テーマ旅行 おおお~・・・・ こんもりと盛り上がった不自然な膨らみ・・!! 丸く見えますが・・こちらは「前方」部分! 奥の方に見えるのが「後円」部分です・・! うわあ・・・なんか綺麗なカタチしてますねえ・・・!! ていうか・・こ・・コイツ・・・ デカいぞ・・(
Published 2024/07/06 08:03 (JST) Updated 2024/07/06 15:03 (JST) ソウル郊外にある百済の王城跡に近い遺跡から、5世紀前半に倭の技術者が製作したとみられる円筒埴輪(はにわ)の破片が見つかった。倭王権から百済中枢に派遣された高官が現地で死後、日本式の古墳に埋葬されていた可能性がある。専門家は、同盟を結んでいた百済と倭の「密接な関係を裏付ける発見だ」と評価。埴輪のかけらが古代の日韓交流に光を照らした。(共同通信=渡辺夏目) 大韓文化財研究院が2022年までにソウル南方の城南福井洞遺跡の発掘調査を行い、今年4月に報告書にまとめた。 百済王朝は4世紀、最初の都を漢城(ソウル)に置いた。日本列島での中心勢力は、大和(奈良県)を拠点に成立した倭王権。百済から取り入れた文化知識で発展し、朝鮮半島有事の際は軍事支援にも乗り出した。文献には緊密な関
県内で初めて出土した「築山古墳盾持人埴輪」。独立した盾を前面に持たせる、全国的にも珍しい形態で表現されている 佐賀県内で初めて出土した、盾を構える武人の埴輪(はにわ)「盾持人(たてもちびと)埴輪」が、独立した盾を前面に持たせる全国的にも珍しい表現形態だったことが12日、佐賀市の調査で分かった。大和町の前方後円墳「築山(つきやま)古墳」(6世紀後半)の出土品で、顔に入れ墨を施し、冠に似た帽子をかぶったリアルな姿で表されている。 埴輪は、円筒状の人物部分が高さ50・1センチ、胴体の径が19・5センチ。盾は高さ28・0センチ、幅17・0センチ。上半身が良好な状態で残っており、本来は高さ1メートルほどだったと推定される。 顔にはネコのひげのような入れ墨が複数刻まれており、「魏志倭人伝」が倭人の習俗として伝えた「鯨面文身(げいめんぶんしん)」の表現と考えられる。頭部は正面中央を切り込んだ2本の角のよ
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1971年東京生まれ。デイリーポータルZウェブマスター。主にインターネットと世田谷区で活動。 編著書は「死ぬかと思った」(アスペクト)など。イカの沖漬けが世界一うまい食べものだと思ってる。(動画インタビュー) 前の記事:代々木駅の外観が古い > 個人サイト webやぎの目 大田区の多摩川台公園には「多摩川台古墳群」と呼ばれる古墳群がある。小さな古墳が8基並んでいる。 これぐらいの大きさの古墳が並んでいる。これは7号墳 この古墳群、かつては全8基ではなく9基ということになっていたのだ。なぜひとつ減ったか。なぜなら調査の結果、ひとつは古墳ではなくただの排土の山だったからだ。 これがかつて古墳だと思われていたかつての8号墳、現在、ただの山 どう見ても古墳だ。 ここは小さな円墳が並んでいるのでほかの古墳もこんな雰囲気である。 こちらはれっきとした古墳の5号墳 そして排土の山、かつての8号墳 これだ
1897年に奈良県田原本町の羽子田遺跡から出土した牛形埴輪。全体像が分かる貴重な資料(田原本町教育委員会提供) 今年の干支(えと)「丑(うし)」について調べていると、兵庫県立考古博物館(播磨町大中1)の職員が興味深い話を教えてくれた。「古墳から見つかる出土品で、『牛形』の埴輪(はにわ)は少ない。『馬形』はいくらでもあるのに」。確かに、豪華な馬具を身に着け、立派なたてがみがある馬の埴輪はよく見かけるが、牛の埴輪の出土例は、兵庫県朝来市を含めて全国で数カ所しかない。牛も馬も古くから人の生活に身近な存在だったのに、なぜ差が生まれるのだろう-(門田晋一) 「そもそも、昔の日本列島には牛も馬もほとんどいなかったかもしれない」と指摘するのは同館の中村弘学芸課長(54)。「邪馬台国(やまたいこく)」の記述で知られる古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」には、3世紀半ば(弥生時代末期)の日本には「
市原市が取得した海保大塚古墳(中央の六角形の盛り土部分)=同市海保(1989年撮影、市埋蔵文化財調査センター提供) 市原市は、巨大な古墳を含む同市海保の土地を民間から無償で取得した。古墳は「海保大塚(かいほおおつか)古墳」と呼ばれ、墳丘の全長は60メートル(高さ約8メートル)もある。市埋蔵文化財調査センターによると、4世紀末の築造とみられ、この時期の円墳としては県内最大級という。この地一帯を治めた有力者の墓の可能性が高く、六角形という極めて珍しい形状をしているなど謎も多い。市は「国指定史跡を目指す姉崎古墳群を構成する主要古墳の一つ」と重要視している。 土地は大手建設会社の大成建設(東京都新宿区)が1960年代から所有しており、2万5750平方メートル(評価額404万円)を7月29日付で無償譲渡。市は寄付を受け今月1日、表彰状を贈呈した。 同センターが2017年度に行った遺跡確認調査の報告書
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