仁徳天皇陵として宮内庁が管理する日本最大の前方後円墳、大山古墳(堺市、5世紀中ごろ)を発掘調査している同庁は29日、後円部西側の周濠や堤で明治時代の大規模な造成工事の跡を確認したと発表した。 農業用水を確保するため、周濠を掘り込んで堤に約1.8mも土盛り。濠を横断する土手を造り、ためた水を少しずつ田畑に流す仕組みだった。 大山古墳には、三つの周濠と二つの堤がある。今回発掘されたのは墳丘から数えて二つ目の堤と一番外側の第3濠。 宮内庁によると、第3濠は築造当初のものか後世に掘られたのか論争が続いていたが、第3濠の外側の岸辺でも護岸用とみられる古墳時代の葺石を確認。第3濠が当初からあった可能性が高くなったという。 古墳時代の地表面からこぶし大の石も出土。これまでに調査された内側の堤と同様、石敷きと円筒埴輪列がぐるりと巡っていたとみられる。 文献によると、第3濠は元禄時代(17世紀後半~18世紀
金銅製の冠などで知られる藤ノ木古墳(奈良県斑鳩町、6世紀後半)の副葬品(国宝)の保存処理の成果を紹介する企画展「再び輝き始めた藤ノ木古墳」が、同県橿原市の県立橿原考古学研究所のアトリウムで開かれている。保存処理の過程で石棺内で見つかった「金銅製筒形品」に毛髪とみられる繊維質が付着していたことが判明。皇族クラスとされる被葬者の頭飾りだった可能性が高まり、写真パネルで紹介されている。12月27日まで。 【写真】修復された金銅製の靴 藤ノ木古墳は同研究所が昭和60年から発掘し、被葬者を納めた家形石棺が未盗掘の状態で見つかり、石棺の周囲から数多くの金銅製の馬具が出土。石棺内には金銅製の冠や靴、被葬者2人分の人骨などが埋葬された状態で残り、考古学史に残る発掘となった。 副葬品の保存処理は当時も行われたが、数十年を経て劣化も見られるようになり、同研究所が令和3年度から13年間の計画で約1万6千点の保存
牟田口章人客員教授が復元した大織冠のCG画像。帽子部分の詳しい文様は不明だが、花の刺しゅうや縁部分は精密に再現できているという=帝塚山大提供 1934年に大阪府高槻市の阿武山古墳で出土した冠に、大化の改新で定められた最高位の冠「大織冠」の特徴があることが専門家の研究で判明した。出土当時のX線写真の解析で、「綴織(つづれおり)」という特徴的な織り方の生地を使っていたことが分かった。歴史上、大織冠は国内では藤原鎌足(614~669)にしか授与されていないため、被葬者を鎌足とする通説がより確実になった。復元した大織冠の画像などは11月2日に帝塚山大である公開講座で初公開される。 研究は同大の牟田口章人客員教授(文化財アーカイブ)が実施した。 阿武山古墳は34年4月、地震を計測する京都大阿武山観測所の地下掘削工事で発見。石室内には麻布を漆で固めた夾紵棺(きょうちょかん)があり、男性被葬者が布団に包
古墳時代最大の内戦「磐井の乱」の中心だった豪族筑紫君磐井の墓とされる岩戸山古墳(福岡県八女市)で出土した埴輪の破片が、よろいを付けた馬形埴輪の一部だったことが県立九州歴史資料館(同県小郡市)の調査で11日までに分かった。よろいを付けた馬形埴輪が確認されたのは全国初という。韓国・新羅の遺跡では馬のよろい「馬甲」が見つかっており、磐井に対する新羅の影響がうかがえる。 岩戸山古墳は6世紀前半に築造されたと推定され、長さ130メートルを超える前方後円墳。1971年、九州大と八女市教育委員会の発掘調査で埴輪の破片八つや石製品などを発見していた。 昨年度、この八つの破片を改めて調べた際、形状の特徴から全て馬形埴輪の破片と判明。さらに日本各地で出土している武人の埴輪のよろい部分にある格子状の線刻が認められ、馬甲をまとった埴輪と分かった。全体では高さ全長ともに1メートル超だったと推測している。 磐井の乱は
特別展「はにわ」(2024年10月16日(水)~12月8日(日)、平成館 特別展示室)を担当しております、主任研究員の河野正訓です。 古墳時代が専門で、普段は埴輪など古墳時代の作品(遺物)のお世話係をしています。 今回の特別展「はにわ」では、チーフを務めるとともに、主に群馬県方面を担当しています。 そのため、ご出品いただくための調整や、東京国立博物館や巡回する九州国立博物館へ作品を安全に輸送する事前調査のため、何度も群馬県に通いました。 前々から思っていたのですが、その事前調査で改めて感じたのは、群馬県の埴輪熱がすごいことです! ほとんどの博物館で埴輪が展示され、かつ埴輪の展示スペースはかなりのウェイトを占めています。 例えば、群馬県立歴史博物館では、常設展示の入口を入ってすぐに、群馬県高崎市の綿貫観音山(わたぬきかんのんやま)古墳出土品が一括して展示されている部屋があります。 群馬県立歴
5年前(2019年)、滋賀県近江八幡市の川の中で見つかった古墳を県文化財保護協会が調べたところ、およそ1500年前の古墳時代に造られた前方後円墳とみられることが分かりました。 協会は川に沈むなどして消失した遺跡が存在することを物語る貴重な事例としています。 近江八幡市江頭町を流れる日野川の中では、2019年に県が行った調査で▼人工的に土を積み上げた跡や▼1列に並んだ円筒状の埴輪6本が見つかり、県は、中州のような土の盛り上がりは、古墳の可能性があるとしていました。 この場所を、去年10月から先月(2月)にかけて県文化財保護協会が調べたところ、新たに13本の円筒状の埴輪が1列に並んだ状態で見つかりました。 埴輪は5年前に見つかったものと同じ種類で、▼カタカナの「ハ」の字型に並んでいることや、▼焼き方の特徴などから、この古墳はおよそ1500年前の5世紀後半から6世紀前半ごろに造られた前方後円墳と
古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣など、貴重な発見が相次いでいる奈良市にある富雄丸山古墳で、木製のひつぎの中から新たに3枚の鏡などが見つかりました。 このうち1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁神獣鏡」の可能性があるということで奈良市教育委員会はさらに調査を進めることにしています。 4世紀後半に造られたとされる奈良市の富雄丸山古墳では、▼古代の東アジアで最も長いとされる鉄の剣や、▼盾の形をした国内最大級の青銅製の鏡などの貴重な発見が相次いでいます。 ここで長さ5メートルを超える木製のひつぎも見つかり、奈良市教育委員会が2月上旬から土などを取り除き、中を調べていました。 その結果、▼直径20センチほどの青銅製の円形の鏡3枚のほか、▼「竪櫛」と呼ばれる竹製のくし9点が副葬品として納められていたことがわかりました。 鏡の中の1枚は大王クラスの巨大な古墳で見つかっている「三角縁
富士山のふもと、本栖湖の底には古墳時代の土器などが見つかった遺跡があります。 富士山の噴火との関係など、遺跡の成り立ちを明らかにするため専門家による本格的な調査が行われることになりました。 本栖湖の東側、水深10メートル前後の湖底では平成10年度の調査で古墳時代の土器などが複数、見つかっています。 その成り立ちを解明するため帝京大学文化財研究所は、地元の山梨県富士河口湖町や身延町と共同調査を行うことになり、まずは湖底に向けて音波を発信する地形の計測や水中ドローンによる探査が行われていました。 湖の底に遺跡がある理由について水中考古学が専門の佐々木蘭貞准教授は、もともと陸上にあった遺跡が、富士山の噴火による溶岩流が湖に流れ込んで水位が上がったため水没した可能性のほか、陸上の別の場所にあった土器などが、何らかの理由で流されてきて湖底に沈んだ可能性も考えられるとしています。 調査グループは湖底の
東アジアで最も長いとされる、鉄の剣などが見つかった奈良市の富雄丸山古墳で、木製のひつぎの中身を調べる発掘調査が4日から始まりました。 4世紀後半に造られたとされる奈良市の富雄丸山古墳では1年前、「蛇行剣」と呼ばれる波打ったような形をした東アジアで最も長いとされる鉄製の剣や、盾の形をした国内最大級の鏡などが見つかりました。 剣や鏡は、木製のひつぎのそばから出土していますが、1年前は調査が行われずそのまま埋め戻されています。 4日から、ひつぎの発掘調査が始まり、現場では作業員が道具や調査の拠点となるテントなどを運び込んで準備を進めていました。 ひつぎが埋まっているのは、古墳の斜面から突き出た「造り出し」と呼ばれる場所で、雨や風などから古墳を守る「覆い屋」と呼ばれる屋根に覆われています。 今月下旬からひつぎの本格的な発掘が始まる予定で、今回の調査で剣や鏡が埋められた背景などが、解明されるのではな
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