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小説に関するsueのブックマーク (2)

  • 「ゲドを読む。」 - アンダンテ日記

    きのうは、あきらめてパソコンの電源を切ったくらい、 午前中に雷がひどくて。 いきなり、することがなくなり、 「そうだ、『ゲドを読む。』をもらってこよう」と、思い立ちました。 パソコンが壊れることは怖くても、 自分が雨のなかへ出て行くことには、けっこう平気な私。 頭上に落ちる確率が極めて高い、というときでなければ、 雷は怖くないです。蛇も、たぶん、怖くない。 アニメ『ゲド戦記』DVD・PRの、無料配布ペーパー文庫版が、 『ゲドを読む。』。さすが糸井重里氏という感じ。 行きつけの屋では、すでに配布終了していました。 でも、近くのミュージックショップで手に入りました。 読んだなかで、河合隼雄氏が1978年に『図書』に載せた ゲド戦記論の再掲が印象に残りました。 河合氏も、作品をたいへん評価しているのですが、 良い悪いと関係ない文脈で、ふと、もらしたように、 キリスト教神話をもとにした『ナルニア

    「ゲドを読む。」 - アンダンテ日記
    sue
    sue 2007/06/27
    「遊ぶ楽しさ」がどれほど必要か、というあたりに微妙に引っかかり。「骨」が見えてもいい、というスタイルもありだと思う。例えばSFならハードからソフトからハテナ?なのまで色々アリなわけで。
  • 本と活字をめぐる読み物 クラムボンの正体:「やまなし」読解

    クラムボンとは、何なのでしょう。 と、毎年、全国の小学校の国語の時間で、必ず問われているわけである。(注) そのたびに、 「はーい、仲間の蟹だと思います」 「はーい、タケダさんの意見は、違うと思います、泡だと思います」 「はーい、ナカノさんの意見も、違うと思います、光だと思います」 などと、十年一日のごときワンパターンな討論が繰り返されることになるのだが、いやはや、だから国語の教育はダメだというのだ。 泡とか光とか、エッ、そりゃ、何だよ。文中のどこにも書いてないことを想像たくましくでっち上げることばかりが、国語ではないのだ。妄想力を強化するのもいいが、もっと文に即して、客観的に事実を検証する、そんな力を身に付けるのも、子供にとって大切なことなのではないのか。 たしかに、文中には、 「そのなめらかな天井を、つぶつぶ暗い泡が流れて行きます。」 「つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽつ

    sue
    sue 2007/06/25
    極論っちゃあ極論だけど面白い。国語については、無難に逃げるのがよくない、というのは分かるが、刺激的なことを言えばいいというわけでもあるまい。大事なのは一冊でも多く読んで感じることだ。
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