タグ

mongolに関するtaskapremiumのブックマーク (24)

  • 阿塔海 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "阿塔海" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2014年10月) チンギス・カンの時代に伝令使として活躍したスルドス部族のタガイ・バアトルの息子ブカ(卜花)の子。父ブカの死後モンケの時代、1252年にクビライ率いる雲南遠征軍の副司令であったスベエデイの子ウリヤンカダイに従ってこの地域の征服に従事した。 モンケの没後ウリヤンカダイの軍と共に続くクビライによる大元朝の対南宋戦でも丞相バヤンやウリヤンカダイの子アジュ(阿朮)らに従い活躍した。至元9年(1272年)に襄陽包囲線などで戦功をたて、このため翌至元10年(1273年)に鎮

  • モンゴル帝国襲来!全滅のヨーロッパ軍!?【モヒの戦い】世界の戦術戦略を解説

  • タタールのくびき - Wikipedia

    タタールのくびき(タタールの軛)またはモンゴル=タタールの軛(モンゴル=タタールのくびき、ロシア語: Монголо-татарское иго、タタール語: Татар-монгол игосы、英語: Mongol-Tatar Yoke)とは、13世紀前半に始まったモンゴルのルーシ侵攻とそれにつづくモンゴル人(モンゴル=タタール)によるルーシ(現在のロシアウクライナ・ベラルーシ)支配を、ロシア側から表現した用語である。現在のロシア人などの祖先であるルーシ人の、2世紀半にわたるモンゴル=タタールへの臣従を意味するロシア史上の概念である[1]。 「タタールの羈絆(きはん)」と称することもある[1]。 バトゥの征西(1236年-1242年) アレクサンドル・ネフスキー(ソビエト時代の切手) ノヴゴロド公として北方十字軍を撃退し、「タタールのくびき」のもとでウラジミール大公となった人物。のち

    タタールのくびき - Wikipedia
    taskapremium
    taskapremium 2020/07/29
    キプチャク・ハン国は、ルーシで人口調査を行い、それにもとづいて課税と徴兵を行ったが、西ヨーロッパでは王権はそのような施策を講じることができなかった。それに対し、モスクワ国家の大公やツァーリの権力はモ>
  • 杜世忠 - Wikipedia

    蒙古人、元の正史(官位・礼部侍郎)として文永の役の翌年、建治元年4月15日(1275年)長門国室津(現在の山口県下関市)に上陸。一行は捕えられ大宰府へ送られ、8月になってから太宰府は元使を鎌倉へ護送した。1275年9月27日、時の8代執権北条時宗は元使一行を竜ノ口(現在の神奈川県藤沢市片瀬 龍口刑場跡)にて斬首。享年34。 辞世の句「出門子贈寒衣 問我西行幾日歸 來時儻佩黃金印 莫見蘇秦不下機」は、蘇秦の故事を踏まえた李白の詩のもじりであり、栄達を果たして家族のもとに帰る望みを果たせなかった無念と、身につけた一定の教養が窺われる。 正使:杜世忠(34歳・蒙古人) 副使:何文著(38歳・唐人、兵部郎中) 辞世の詩「四大原無主 五蘊悉皆空 兩國生靈苦 今日斬秋風」 計議官:撒都魯丁(32歳・ウイグル人) 書状官:果(32歳・ウイグル人) 通訳:徐賛(32歳・高麗国人) 辞世の詩「朝廷宰相五更

  • ジャーニー・ベク - Wikipedia

    この項目では、ジョチ・ウルスの当主(ハン)について説明しています。カザフ・ハン国の始祖(トカ・テムル家)については「ジャニベク・ハン」を、アストラハン・ハン国の第3代ハン(在位:1514年 - 1521年)については「ジャーニー・ベク (アストラハン・ハン国)」をご覧ください。 ジャーニー・ベク(جانى بيك خان, Jānī bīk Khan, ? - 1357年)は、ジョチ・ウルスの第12代当主(ハン、在位:1342年-1357年)。ジャニベク・ハンとも呼ばれる。先々代のウズベク・ハンの息子。先代のティニベク・ハン(ティーニー・ベク)の同母兄弟で、母はウズベク・ハンの4人いた正妃(ハトゥン)のうち第一正妃で大ハトゥンであったタイ・ドゥラ(タイトゥグリー)であった。バトゥの6世の子孫にあたる。 生涯[編集] 名前の「ジャーニー」とは、ペルシア語で「魂」「親愛さを」を意味する「ジャー

    taskapremium
    taskapremium 2020/04/09
    ジャーニー・ベクはジェノヴァが領有するクリミア半島の都市カッファを占領するため数度の攻撃をかけるが、1347年にカッファを包囲した際、軍内にペストが蔓延して撤退を余儀なくされた。いざ撤退しようとすると>
  • カイドゥ - Wikipedia

    この項目では、オゴデイ家の皇族について説明しています。ボルジギン氏のカンについては「カイドゥ・カン」をご覧ください。 カイドゥ一族のタムガ(家紋) カイドゥ(モンゴル語: Qaidu、? - 1301年)は、13世紀の後半に中央アジアに独立王国を建設したモンゴル皇族。チンギス・カンの三男オゴデイの五男カシン(モンゴル語: Kašin)の子。『集史』などのペルシア語史料では قايدو Qāydū 、漢語史料では海都と書かれる。現代モンゴル語の発音に基づいてハイドゥあるいはハイドともいう。 30年以上にわたってモンゴル皇帝(カアン)、チンギス・カンの四男トルイの四男クビライ率いる大元ウルスと対立し、中央アジア以西のモンゴル諸勢力のモンゴル皇帝権力からの分離独立を決定づけた。このカイドゥの一連の行動は一般に「カイドゥの乱」と呼ばれる。 生涯[編集] クビライへの反逆[編集] カイドゥの属するオ

    カイドゥ - Wikipedia
  • クビライ - Wikipedia

    クビライ(漢字:忽必烈、モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、モンゴル帝国の第5代皇帝であり、元朝の初代皇帝(カアン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写ではХубилай хаан。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī Qā'ān など書かれる。死後は諡を聖徳神功文武皇帝、廟号を世祖と称し、モンゴル語での尊号は「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禅皇帝)。日語での名前表記については揺れがあるため日語による表記の節を参照。 その即位にあ

    クビライ - Wikipedia
  • オゴデイ - Wikipedia

    オゴデイ(Ögödei、Ögedei)は、モンゴル帝国の第2代皇帝(カアン、ハーン)。モンゴル帝国の君主で初めて自らの君主号をカンに代えてカアン(Qa'an<Qaγan)と名乗った人物と考えられている。 漢語表記では窩闊台、月闕台など。資料によっては、哈罕皇帝/合罕皇帝(カアン皇帝)とも書かれる(後述)。モンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語文や前近代の古典モンゴル語文では 'WYK'D'Y Q'Q'N/Ögedei Qaγan、パスパ文字モンゴル語文では "ö-kˋö-däḙ q·a-n/Öködeï Qa'an 。ペルシア語表記では『集史』などでは اوگتاى قاآن Ūgtāy Qā'ān 、『五族譜』では اوُكَدى خان Ūkaday Khān などと綴られる。オゴタイ、エゲデイは、日語表記。元朝によって贈られた廟号は太宗[注釈 1]、諡は英文皇帝。 チンギス・カン

    オゴデイ - Wikipedia
  • パルワーンの戦い - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "パルワーンの戦い" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2011年12月) パルワーンの戦い(英:Battle of Parwan)は、1221年にカーブルの近郊パルワーンでシギ・クトク率いるモンゴル帝国軍とジャラールッディーン率いるホラズム・シャー朝軍との間で行われた戦い。チンギス・カンの西征においてモンゴル軍が唯一敗れた戦いでありアイン・ジャールートの戦い以前に西アジア方面においてモンゴル軍が唯一敗れた戦いでもある。 1219年に始まったチンギス・カンの西征ではホラズム軍はほとんどなすすべもなく各個撃破され、国王であるアラー

    パルワーンの戦い - Wikipedia
    taskapremium
    taskapremium 2016/11/24
    チンギス・カンの西征においてモンゴル軍が唯一敗れた戦いでありアイン・ジャールートの戦い以前に西アジア方面においてモンゴル軍が唯一敗れた戦いでもある。>
  • モンゴルのビルマ侵攻 - Wikipedia

    モンゴルのビルマ侵攻(モンゴルのビルマしんこう)は、1277年から1287年にかけて行われた戦争である。元緬戦争(げんめんせんそう)とも呼ばれる。 概要[編集] 南宋の征服後、モンゴル帝国(元)のクビライはさらなる領土の拡張を目指し、1277年からビルマのパガン朝への攻撃を始め、1287年のパガンの戦いでもってこれを完全に制圧した。 侵攻に至る経緯[編集] ウリヤンカダイによる大理の征服(1253年 - 1254年)以来、モンゴル帝国とパガン朝は国境を接するようになっていた。帝位継承戦争(1260年 - 1264年)を制し国号を大元としたクビライは、さらなる領土の拡張を目指し、周辺の国々に入貢と臣従を求め使者を送った。 パガン朝のナラティーハパテ王は、1271年に初めて使者が来た際これを拒絶し、1273年に再び使者が訪れた時にはこれを処刑した。この侮辱的行動に対し、クビライはすぐには行動を

    モンゴルのビルマ侵攻 - Wikipedia
  • モンケ - Wikipedia

    モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝[1]。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で永遠を意味する。チンギス・カンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。 若い頃から資質に優れ、父のトルイと共に金の名将である完顔陳和尚を三峰山の戦いで破って大勝を収めた。1232年、父の死によりトルイ家の当主となる。 1235年、第2代モンゴル皇帝オゴデイの下で、カラコルムのクリルタイにおいて諸国への遠征計画が発議された。その一つとしてジョチ家の当

    モンケ - Wikipedia
  • タタール - Wikipedia

    タタール(Tatar, タタール語: татарлар)は、北アジアのモンゴル高原とシベリアとカザフステップから東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したテュルク系民族に対して用いられてきた民族総称である[38]。日では、中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた[39]。 タタル (Татарла, Татар - Tatarla, Tatar) という語は、テュルク系遊牧国家である突厥(とっけつ)がモンゴル高原の東北で遊牧していた諸部族を総称して呼んだ他称である[40]。この語はテュルク語で「他の人々」を意味するとされ[41]、その最古の使用例は突厥文字で記した碑文(突厥碑文)においてであった。まもなく中国側もテュルク語のタタルを取り入れ、『新五代史』や『遼史』において「達靼」「達旦」などと表記したが、これは他称ではなく、彼らの自称であるといい[42]、

    タタール - Wikipedia
  • モンゴルのルーシ侵攻 - Wikipedia

    モンゴルのルーシ侵攻(モンゴルのルーシしんこう)は、1223年のカルカ河畔の戦いに始まり、1236年のバトゥの西征で格化する、ルーシ諸国に対するモンゴル帝国の征服戦争である。 1223年のカルカ河畔の戦いでは、スブタイとジェベのモンゴル軍偵察隊にルーシ諸侯やキプチャク(クマン人)連合軍が挑み、ルーシ・キプチャク連合軍が大敗したが、モンゴル軍はルーシの征服は行わず東へ去っていった。その十数年後、バトゥは征西のために大軍を率いてルーシおよびヨーロッパへの大規模侵攻を開始する。これに対し、キエフ大公国の分裂後のルーシを割拠するノヴゴロド公国、ウラジーミル・スーズダリ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国などが戦ったが、結果はルーシ諸国の大敗に終わり、ルーシの人口に甚大な被害が出た。人口の半分を失う結果になった[1]という見方もあれば、犠牲者は50万人ほどという見方もある[2]。 また東ヨーロッ

    モンゴルのルーシ侵攻 - Wikipedia
  • クリミア・ハン国 - Wikipedia

    クリミア・ハン国(クリミア・ハンこく、クリム・ハン国とも。クリミア・タタール語: قرم خانلغى, ラテン文字転写: Qırım Hanlığı, キリル文字転写: Къырым Ханлыгъы, ウクライナ語: Кримське ханство, ロシア語: Крымское ханство、1441年頃 - 1783年)は、ジョチ・ウルスの後継国家のひとつで、クリミア半島を中心に存在した国家。首都はバフチサライ。 クリミア・ハン国の支配下で、クリミア半島にはテュルク諸語の一種を話すムスリム(イスラム教徒)の住民が多く居住するようになった。彼らの子孫が、現在クリミアで少数民族となっているクリミア・タタール人である。 クリミア・ハン国は15世紀中頃に、クリミア半島にいたチンギス・ハーン後裔の王族、ハージー1世ギレイ(英語版)によって建国された。 ペルシア語、テュルク語などで編纂され

    クリミア・ハン国 - Wikipedia
  • 蒼国来栄吉 - Wikipedia

    蒼国来 栄吉(そうこくらい えいきち、1984年1月9日 - )は、中国内モンゴル自治区赤峰市出身で荒汐部屋に所属した元大相撲力士。2019年に日国籍を取得。日名は中国名をそのまま(但し片仮名表記)使用したため、現在の名はエンクー・トプシン[2][3][4][5]。旧名は恩和図布新(モンゴル語キリル文字表記:Энхтүвшин、ラテン文字転写:Engketübsin、日語カナ表記:エンヘトゥプシン)、愛称はエンクー。身長186cm、体重145kg、血液型はO型。好物は羊の塩茹で[6]。得意手は右四つ、寄り、投げ。最高位は東前頭2枚目(2017年3月場所)。解雇処分の後、裁判での勝訴を経て幕内力士としての地位を回復し、現役復帰を果たすという珍しい経歴を持つ。現在は年寄・荒汐。荒汐部屋の師匠を務めている[7]。 7歳からモンゴル相撲に親しみ16歳で全国優勝、そして内モンゴル第3スポーツ

    蒼国来栄吉 - Wikipedia
  • モンゴルのポーランド侵攻 - Wikipedia

    モンゴルのポーランド侵攻(モンゴルのポーランドしんこう)は、「バトゥの西征」(モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版))のうち、1240年後半から1241年にかけての「トゥルスクの戦い」、「フミェルニクの戦い」、「レグニツァの戦い」、「モヒの戦い」などのシロンスク公ヘンリク2世率いるキリスト教騎士修道会とポーランド軍を壊滅させた諸戦闘の総称である。 バトゥに率いられたモンゴルの西方遠征軍は、1236年に中央アジアを出てヴォルガ・ブルガールを侵攻し、1237年から1240年にかけてルーシ侵攻を行い、ヴォルガ・ブルガールやルーシ諸国を完全に圧倒した。モンゴル軍はこれで征服を終えることはなく、さらに西を目指し、ポーランドおよびハンガリーへと侵入した。 モンゴルのヨーロッパ侵攻(英語版)は全ヨーロッパを震撼させた。教皇グレゴリウス9世は、全キリスト教徒に対し、ポーランドを救援してこの異教徒襲来と戦うべし

    モンゴルのポーランド侵攻 - Wikipedia
  • 熊本発 けん爺ちゃんの徒然見聞録    元寇(蒙古襲来)

    (中編 からの続き) 季長は 鎌倉へ直談判に行く決意をした。 周囲は仰天し、季長の主張に対して反対する。 しゆえの御房 『何をバカな!? そのような事をしても無駄に 決まっておろう!旅費はどうするのじゃ!?』 季長 『馬と鞍 (くら。騎乗する際に下に敷く馬具) を売ります』 親族 『馬鹿者! 命より大切な馬を売るだと!? 次の戦が起こったら何も出来ぬでは ないか!?乱心もいい加減にせい!!』 母 『季長… 私はお前が無事に戻って来ただけで 満足じゃ。周りが何を言おうと気にする 事はない。鎌倉に行くでない。お願いじゃ…』 季長 『母上… 私は、このまま黙って座する訳には いかないのです。この訴えが通らなかったら、 出家 (しゅっけ。坊さんになる事) してここには帰りませぬ!』 1275年(建治元年) 7月4日 06:00 季長 『弥二郎、又二郎、行くぞ! 何を後ろばかり見ておる!』 弥二郎 

  • 元寇はなぜおきたか(文永の役)

    「天に守られている大蒙古国の皇帝から日国王にこの手紙を送る.昔から国境が接している隣国同士は,たとえ小国であっても貿易や人の行きなど,互いに仲良くすることに努めてきた.まして,大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり,はるか遠方の国々も,代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている. 例えば私が皇帝になってからも,高麗(こうらい=朝鮮)が蒙古に降伏して家来の国となり,私と王は父子の関係のようになり,喜ばしいこととなった.高麗は私の東の領土である.しかし,日は昔から高麗と仲良くし,中国とも貿易していたにもかかわらず,一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく,国交をもとうとしないのはどういうわけか?日が我々のことを知らないとすると,困ったことなので,特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝えよう. これから日と大蒙古国とは,国と国の交わりをして仲良くしていこうではない

  • 世界史講座11 チンギス=ハンとモンゴル帝国

    taskapremium
    taskapremium 2012/09/17
    モンゴル人は幼いころから馬に慣れ親しんでいたため乗馬の技術がすぐれていたのはもちろんですが、特筆すべきは全軍が騎馬化され、一人が数頭の換え馬をもち、しかも歩兵がまったくいなかったことです。>
  • 弘安の役とその後

    使者を斬る(元の怒り) 文永の役の翌年,建治1年4月15日杜世忠(と・せいちゅう)を正使(せいし=使いの代表)とした元の使い一行が再び日にやってきました.彼らは戦いのあった博多をさけて長門の室津(現在の山口県豊浦町)に上陸しました.これは使者たちが,うらみのある博多の人々に狙われるのをおそれたからと考えられています.元の使い5名はとにかく天皇や将軍にあって国書を渡す使命がありました.文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的でしたが、今回は,「今度はもっとたくさん軍隊を送るよ・・言うことを聞くなら今のうちだよ」というつもりでやってきたのです. しかし,杜世忠一行を待ち受けていたのは厳しい処遇でした,大宰府に移りさらに鎌倉に送られた一行は「龍ノ口」(たつのくち=当時刑場だったところ)で全員処刑され,見せしめとして首はさらされました.その時,杜世忠は34歳でした.杜世忠の辞世(じせ