「立体的放送で定評ある放送界の一人者」(朝日新聞1936.4.10)。かつてのアナウンサー河西三省の評価は、「前畑ガンバレ」が始まる以前からどこを眺め渡してもきわめて高い。 河西が日本放送協会(NHK)東京中央放送局に入ったのは1929年(昭和4)のことであった。この頃ラジオでは8歳年上の松内則三がすでにスポーツ放送で名をあげている。松内を有名にしたのは神宮球場の大学野球の実況中継。「カラスが一羽、二羽。三羽、四羽。風雲いよいよ急を告げております」。私が新人アナウンサーの頃、年配の先輩たちからよく聞かされたのは、「球は転々、外野の塀」という松内がよく使ったもう一つのフレーズだった。ブツブツとした口調ながら五七調にそろえたコメントは、多くのファンだけではなく後輩アナウンサーたちにも語り継がれていた。 その松内に遅れること4年、河西はアナウンサーとして放送局に招聘される。慶応大学を卒業して時事
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