6月23日、EU(欧州連合)残留の可否を巡り、英国で国民投票が実施される。6月に入り、世論調査では、離脱派と残留派の支持率が拮抗する状況が続く。つい数カ月前には誰も本気にしなかったBrexit(ブレクジット=英国がEUを離脱すること)が現実味を帯びてきた。

 仮に英国が離脱を決めた場合は、英国だけでなく、世界経済に影響が及ぶ。その詳細は、日経ビジネス2016年6月20日号のスペシャルリポートで報じた通りだ。

 既に、金融市場にその影響が表れている。6月14日には通貨「ポンド」が対円で一時149円台前半に下落、2年10カ月ぶりのポンド安・円高水準となった。安全資産に向けて資金が逃避する動きが始まり、欧州安定国の国債に買いが集まった。ドイツの10年物国債は14日、利回りが一時、初のマイナスを記録した。英国内の経済も、今年に入って建設投資が手控えられるなど、景気減速の兆しが見え始めている。

経済への悪影響を訴える残留派

 英国のEU離脱は世界経済に多大なリスクをもたらすとして、英国の残留派だけでなく、欧米各国の首脳も英国の残留を求めている。ところが、離脱の支持率は一向に下がらない。それどころか、投票日が近づくに連れて高まる一方だ。経済への影響を考えれば、一部の英国人以外はこの状況を理解し難い。なぜ彼ら合理的な判断ができないのか。そこには、彼らが考える「この国のかたち」への強いこだわりがある。

ロンドン郊外にある日立製作所の鉄道車両基地を訪れたジョージ・オズボーン財務相(左)。キャメロン首相とともに残留を目指し、英国内を行脚している。
ロンドン郊外にある日立製作所の鉄道車両基地を訪れたジョージ・オズボーン財務相(左)。キャメロン首相とともに残留を目指し、英国内を行脚している。

 「離脱すれば、Hitachiのようなグローバル企業が英国に投資する興味を失うだろう」

 6月15日、ロンドン郊外にある日立製作所の鉄道車両基地。残留派の中心人物、ジョージ・オズボーン財務相がこう訴えた。オズボーン氏は、デイビッド・キャメロン首相とともに、残留派の顔とも言える人物。この日は野党・労働党の前財務相と共に演説台に立ち、日立の現地社員に向けて、英国が離脱した場合のリスクを何度も繰り返した。

 オズボーン氏はこの日、英国がEUから離脱した場合の増税リスクについての試算を発表。離脱した場合、経済の悪化によって税収が大幅に減る結果、約300億ポンド(約4兆5000億円)規模の増税か歳出カットが必要になると警告した。「こうしたマイナスのリスクは、一度きりで終るものではない。離脱を決めれば、将来もずっと向き合わなくてはならない」(オズボーン財務相)。

 残留派は、国民投票の正式なキャンペーンが始まった4月15日以来、経済への影響を最大の争点としてきた。英財務省は、4月と6月の2度にわたり、英国がEUを離脱した場合の影響を分析した報告書を公表した。短期的(2年後)にはGDP(国内総生産)を3.6%~6%程度押し下げ、ポンドは12%~15%下落。52万~82万の失業者を生むと予測する。さらに離脱決定から15年後には、GDPは5.4~9.5%縮小、政府の年間税収は450億ポンド(約6.7兆円)減ると見ている(最悪シナリオの場合)。

 一方で、「離脱して経済的にメリットになることは何もない」(キャメロン首相)とし、EU残留することこそが英国の繁栄につながると主張している。実際、財務省以外の主要な機関やシンクタンクの分析も、英国が離脱した場合の経済は悪化するという点で一致する。

 その一例を以下に示す。
OECD(経済協力開発機構):2020年にはGDPがマイナス3.3%、2030年にはマイナス5.1%
CBI(英産業連盟):2020年にはGDPがマイナス5.5%、2030年にはマイナス3.5%(悲観シナリオの場合)
LSE(ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス):長期的にはGDPがマイナス6.3~9.5%
NIESR(国立経済社会研究所):長期的にGDPがマイナス2.7%~3.7%(最悪シナリオの場合)

 英国の中央銀行であるイングランド銀行のマーク・カーニー総裁も、英国が離脱した場合の経済的影響に対する懸念を公の場で表明している。通貨ポンドが急落する可能性があると警告し、景気後退に陥ることを示唆。日米欧の中央銀行と連携し、金融市場の混乱を回避すべく全力を注ぐとするが、「金融政策での対応には限界がある」と述べている。

 英国の残留を望むのは、経済を重視する英国の閣僚や中央銀行だけではない。4月以来、米国やEU加盟国、日本を含む多くの政府首脳が、英国がEUに留まることが望ましいと表明している。

離脱派キャンペーンを率いる前ロンドン市長のボリス・ジョンソン氏(右)。英国がEU離脱を決めた場合、次期首相候補になると言われている。(写真=Christopher Furlong/Getty Images)
離脱派キャンペーンを率いる前ロンドン市長のボリス・ジョンソン氏(右)。英国がEU離脱を決めた場合、次期首相候補になると言われている。(写真=Christopher Furlong/Getty Images)

 ところが、こうした圧力にもかかわらず、離脱の支持は一向に下がる気配がない。むしろ、投票日が近づくにつれて離脱支持は上昇を続け、6月に入ると残留支持を上回るようになった。英調査会社YouGovが6月17日に発表した世論調査では、残留支持44%に対して離脱支持が43%と、残留派がわずかにリードしているものの、離脱派も依然として一定の支持を保ち続けている。

 ほぼすべてのシンクタンクが将来の経済縮小を予想し、さらに、これだけ国際的な圧力が加われば、残留支持が増えてもおかしくない。しかし、現実には、離脱派の勢いは衰えるどころか、増し続けている。これはどういうことなのか。

「移民問題」は表層的な理由

 一義的には移民問題がある。大量に流入した移民が英国人の仕事を奪っていることに対する反発だ。

 英国中部のリーズ郊外で取材したトラック配送業を営む50代の男性、ポール・フレイズフォード氏は、移民が自身の仕事を苦しめていると語った。同氏が雇うドライバーは全員英国人。しかし、近年は移民が設立した運送業者との料金競争に巻き込まれ、業績が低迷している。「自分の身を削るか、ドライバーの給料を減らすか。どちらにしても、厳しい」とフレイズフォード氏は言う。

 都市部でも、移民に対する反発は根強い。ロンドン近郊の住宅街、ウィンブルドンに住む20代の女性は言う。「今もどんどん移民が流れ込んでいる。英国には、彼らをすべて受け入れられるほどの住宅はない。その割を食うのが英国人というのはおかしい」。

 5月26日には、英政府統計局がこう発表した――2015年12月に英国に流入した移民の数は、過去2番目に多い33万人に上った。「これから起きる可能性がある経済損失よりも、移民によって現実に脅かされている生活の方にリアリティを持っている」と、LSEのトーマス・サンプソン経済学部助教授は指摘する。事実、離脱派が勢いを得た最大の理由は、6月に入って移民問題にフォーカスしたことにある。

 ただし、この移民問題だけで離脱派への支持が高まる理由がすべて説明できるわけではない。離脱派の中でも、より所得水準が高く、より教育水準の高い層は、別の理由から離脱を主張している。端的に言えば、英国の将来の姿に対する憂慮だ。それは、「EUの中にいては、将来はない」という考えである。

EUの中にいる限り、英国は永遠に自立できない

 「民主主義を守るために離脱しよう」――。6月1日、英ロンドンに拠点を構える起業家のポール・タスティン氏は自社のブログに、こんな呼びかけで始まる一文を掲載した。

 タスティン氏は、金のオンライン取引サービスを提供するベンチャー、ブリオンボールトのCEO(最高経営責任者)を務める。ブログに自身の考えを掲載した理由を「Brexitを巡る議論があまりにも近視眼的で、いてもたってもいられなくなった」と語る。

 「幸いなことに、英国ではまだ民主主義が機能している」とタスティン氏は言う。それは、国民が選挙を通して、自らの意志で代表者を選べることだ。仮に国民が代表者の選択を間違えたとしても、選挙を通して国民の意志を改めて反映することができる。「ところが、EUの枠組みの中では必ずしもそれが実現できない」とタスティン氏は言う。

 欧州議会の議員は、EU加盟国の国民が選挙で選んだ代表者により構成され、欧州委員長やEU大統領はその議会によって任命される。任命にあたっては欧州議会の選挙結果を考慮するとの規程はあるものの、EU加盟国の国民は、彼らを選挙で直接選ぶことはできない。「『EUの方針が間違っている』と我々が考えたとしても、その方針を変える手立てがない」というのが、タスティン氏の主張だ。

 にもかかわらず、EUで決まった規制やルールに、原則として英国も従わなければならない。「英国の意志が反映されないEUという枠組みの中にいては、英国の将来はない」(タスティン氏)。規模は小さくても自由に意思決定できる組織と、規模は大きいが自由に意志決定できない官僚組織。「歴史を見れば、前者の組織が生き残ってきたのは明らかだ」とタスティン氏は言う。

 不満は、EUの執行機関である欧州委員会にも向けられる。離脱派のボランティア団体でリーダーを務めるデビッド・ローチ氏は「組織が官僚化しており、無駄が多く、何よりも意思決定に時間がかかる」と言う。英国は多額の拠出金を出しているが、それに見合うメリットを享受していない、というのが離脱派の主張だ。

 離脱派の頭目、ボリス・ジョンソン前ロンドン市長の経済アドバイザーを務めた経済学者、ジェラルド・ライオンズ氏は「EUに拠出している金額は見合わない。その資金を内政に注ぐべきだ」と言う。

 日本でも有名なデザイン家電メーカー、英ダイソンの創業者、ジェームス・ダイソン氏も、個人として離脱を支持することを公にした。その理由は、タスティン氏同様、EUの中にいる限り、英国は永遠に自立できないというものだ。「私にとって最大のリスクは、自分の将来を人の手に委ねてしまうことだ。EUにとどまる限り、英国は自らの力で成長する自由を奪われる」。英国の地元紙に、ダイソン氏はこう考えを述べている。

 乱暴に言えば、こうした主張は官僚的な大企業を飛び出す起業家に例えられる。融通の利かない、EUという官僚組織で小さくまとまるより、リスクはあるが離脱し、結果も責任もすべて負う国の方が、英国にとっては好ましい、というものだ。

短期的な経済損失以上に大事なもの

 こうした離脱派の主張をわかりやすく説明したドキュメンタリー映画が下の「BREXIT THE MOVIE」だ。離脱派陣営が制作した作品だが、その信ぴょう性についてはともかく、主張の要点は理解できる。

離脱派陣営が作成した「BREXIT THE MOVIE」。信ぴょう性はともかく、主張が端的にまとまっている。

 彼らのメッセージをひと言で表現すると、離脱派のスローガン「Take back control(主権を取り戻す)」に行き着く。

 残留派にとってやっかいなのは、彼らが「短期的に経済損失が生じてもやむを得ない」と本気で考えている点だ。「正直、短期的な経済損失は覚悟している。それ以上に大事なものがある。自分たちの子供の世代を考えれば、短期的な経済損失を覚悟してでも主権を取り戻さなくてはならない」と、タスティン氏は言う。

 日経ビジネスオンラインのコラムニストである倉都康行氏は「再浮上する1930年代との相似性」の回で次のように指摘した。英国が自国の主権を取り戻そうとする現象は、ハーバード大学の経済学者だったダニ・ロドリック氏が提唱した「世界経済の政治的トリレンマ」によって理解できる。

 世界経済の政治的トリレンマは、(1)グローバル化、(2)国家主権、(3)民主主義の3つのうち2つしか同時に達成できないとするもの。ユーロ圏は通貨統合と経済統合によって(1)と(3)を達成しようとした。その結果、加盟国の主権、すなわち(2)が犠牲となっている。

 主権を抑えこまれているという不満は、ユーロ危機とその延長で起きた昨年のギリシャ危機、そして昨年から大量に流れこんだ難民問題によって、多くのEU加盟国に蓄積されることになった。英国が抱えるEUに対する反発は、これまでに蓄積された不満がいかに大きいかの証左と見ることもできる。

 英国は歴史的に見て、独立心に富み、EUと一体のものではない。英国がEUと距離を置いてきたことは否めない事実だ。

 今回の国民投票の結果は蓋を開けてみるまで分からない。実際、2014年のスコットランド独立を巡る国民投票、昨年の英国総選挙でも世論調査の予想は外れている。このため、有識者や金融関係者の多くは世論調査よりもブックメーカー(掛け屋)の予想を参考にしている。ちなみに、ブックメーカー(賭け業者)のラドブロークスは6月19日時点で、離脱29%、残留71%との予想を発表している。

6月16日に起きたジョー・コックス議員の殺害事件が、国民投票に影響を与える可能性もある(写真:永川 智子)
6月16日に起きたジョー・コックス議員の殺害事件が、国民投票に影響を与える可能性もある(写真:永川 智子)

 6月16日には、EU残留を訴えていた労働党の下院議員、ジョー・コックス氏が殺害される痛ましい事件が起きた。これが最終的な投票行動に何かしらの影響を与える可能性もある。

 運命の投票まであと数日。世紀の投票に、世界の注目が集まる。

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