大きな一歩!福島県沿岸で古代遺跡が見つかり保存決定。復興事業での遺跡保存は初! #復興 #歴史
NHKのきょう(2013年5月11日)のニュースによると、福島県の沿岸部で見つかった遺跡が地域にとって重要な古代遺跡であることがわかり、一部を保存することが決まったそうです。
沿岸部の高台移転などで、遺跡調査が「悪者」にされそうな風潮を危惧しています。
こうした保存の実績を増やして、「どうして遺跡を、歴史を、守ることが地域の復興のためになるか」という情報発信とコミュニケーションを、自治体も考古学者らも復興と同じくらいの熱量で行ってほしいものです。
津波の被害を受けた福島県広野町で、災害公営住宅の建設予定地から、奈良時代、街道沿いに整備された施設とみられる建物の跡が見つかり、町は一部を保存することを決めました。
東日本大震災の被災地の復興事業で見つかった遺跡が保存されるのは、初めてだということです。
福島県の浜通りには、古代に「海道(かいどう)」地域と呼ばれていて、10の駅があったことが正史『続日本紀』に書かれています。
しかし、これまで遺跡としては見つかっていませんでした。
宮城県出身の考古学者で国立歴史民俗博物館長の平川南さんの『東北「海道」の古代史』(2012、岩波書店)から、今回遺跡が見つかった福島県沿岸の古代史をピックアップしていきます。
福島県浜通りは、けがれを呑み込む女神のいる死の国への入り口?
古代の福島沿岸部は、巨大だった未知の大地「陸奥」への入り口でした。
いまのいわき市には菊多関という関所がありました。(一方、内陸・中通りの入り口は有名な白河の関があります。)
浜通りは、南から菊多郡、磐城郡、標葉(しめは)郡、行方郡、宇多郡の5郡が設置されました。
今回遺跡が見つかった広野町は、古代には磐城郡に位置していました。
浜通りは「蝦夷の国」というより、昔から茨城と水運でつながっているので、どちらかという関東圏でした。
そのため、789年の阿弖流為(あてるい)の反乱では、政府軍の将軍格(別将)として磐城郡出身の丈部(はせつかべ)善理が「巣伏の戦い」(岩手県奥州市)で戦死しています。
興味深いのは、磐城郡をはじめとする「海道」地区が、地の底・海の底にある「死の国」への入り口と考えられてきたことです。どうしても、あの大津波を想像します。
具体的には、沿岸部に、呪術性の強い墨書人面土器が多数出土しています。(平川、148頁)
平川さんは「なぜ海沿いに分布するのか」について、『延喜式』(平安時代にできたwikipedia)に載る祝詞(のりと)から分析します。
罪を祓うために、罪を高山、短山の山裾から下り、速川の瀬をへて大海原に持ち出すと、多くの潮流が集まるところにいて、勢いよく口を開けて潮流を呑み込む速開竎(はやあきつひめ)という女神ががぶがぶと呑んでしまうだろう。
さらに罪を呑み込んで息を放つと、最後には地下にあると考えられる根の国・底の国におる速佐須比竎(はやさすらいひめ)という女神が持ちさすらい失せてしまうという。(152頁)
平川さんはリンクさせていませんが、上の祝詞の現代語訳を何度読んでも、津波の光景が浮かんできます。
この祝詞の成立がいつかは分かりませんが、延喜式の編集開始は、例の1000年前の大津波「貞観地震津波」の869年から、30年後の905年なのです。
これを偶然と片づけるのは、「想定外」と等しく感じます。
(人面墨書土器自体は、貞観地震より古い時代からありますので、貞観地震によって生まれたわけではなく、もっと以前から、頻繁に津波が襲った地域だったという恵美嘉樹の考えです)
(↑貞観地震についてはこんな記事も書きましたので、よろしければどうぞ)
ちなみに、いわき市にある荒田目条里(あっためじょうり)遺跡で見つかった木簡で、村のリーダーが女性だったことが明らかになっています。
海の女神といい、女性たちの存在感の強い地域だったようです。
東北「海道」の古代史 | ||||
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