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blog.livedoor.jp/kenjiro45
日本のホームレスの定義は「ホームレスの自立の支援等に関する特別措置法」にある、 「都市公園、河川、道路、駅舎その他の施設を故なく起居の場所とし、日常生活を営んでいる者」 という文言が公式なものでしょう。要するに公園や河川敷などにテントや小屋を持っていたり、駅やビルの谷間などにダンボール一枚で寝ている人々を指しますが、一般市民にとってもその捉え方にあまり違和感はないかも知れません。 がしかし、世界的に見てもこれは極めて限定的なホームレスの定義であり、それゆえにホームレス問題の改善が進みにくい原因になってもいるのです。 占有する権利のある宿泊施設を持たない者 家はあるが、そこに住む者から暴力の恐怖にさらされている者 緊急事態のための施設に住んでいる者 一緒に住むところがないために別々に暮らさざるを得ない者 (『居住福祉』早川和男/岩波新書)より とされ、その範疇にドメスティック・
これまでこのブログでは、川崎市にあるホームレス支援施設「富士見生活づくり支援ホーム」のさまざまな様子を伝えてきたが、基本的に施設内の衛生環境や食事メニューの粗末さなど生活環境は劣悪で、就労支援やメンタルサポートなどの自立支援サービスもほとんど機能していない。自立支援プログラムなどというものも、紙切れとしては存在しているらしいのだけれど、利用者本人が見たことがないので、あるのだかないのだかさっぱりわからぬ。 なにより、施設長をはじめ職員からアルバイトに至るまで、福祉の仕事とはどういうものなのかについてまったく無知なのだ。通りすがりにあいさつをする職員すらほとんどおらず、ましてや声かけをしてゆく職員などまずいない。こちらから声をかけようにも、職員がIDカードを身に着けていないので、名前さえわからない。担当職員との相談にしたところで、ひと月に1回あればよいほうという放置主義であり、親身になって
福祉業界は慢性的な人手不足に陥っているといわれて久しい。しかし、それは当然のことである。 最大の理由は、業界の門戸が非常に狭いことだ。この世界で仕事をするには、なによりもまず資格を持っていることが前提となる。求人情報の必須資格項目を見ればわかるが、社会福祉士、社会福祉主事任用資格、介護福祉士、精神保健福祉士、ケアマネージャー、ホームヘルパーなど、ありとあらゆる資格が列記されている。はじめに資格ありき、の業界なのだ。 しかも、これらの資格はおいそれと所得できるたぐいのものではない。福祉系の4年制大学を卒業しているか、そのスジの短大や専門学校や高卒で数年の実務経験があるか、長期に渡る実務経験があるかなどしないと、受験資格さえ得られない。 さらには、実務経験を得るためにはその種の職場で働かねばならないが、働くためには資格が必要だという、ワケのわからない逆転現象が起きている。社会福祉主事任用
■弱者をエサに太る福祉団体というウジ虫たち 某月某日 NPO法人・自立支援センター「ふるさとの会」の求人を見つけ、ハローワークで紹介状を発行してもらう。志望動機書なるややこしい書類を用意せよとのこと。相手がホームレス支援のNPO法人であることもあって、ぼくは自分の経歴を隠さずに書き、「ミッドナイト・ホームレス・ブルー」の作者であることも通知した。 某月某日 「ふるさとの会」より封書が届く。なんの変哲もない不採用通知だった。ぼくが5年半に渡ってこのブログに叩きつけてきたことばどもを、彼らホームレス支援団体が完全に否定した瞬間であった。 この段になって、ぼくはようやく理解した。社会福祉法人・川崎聖風福祉会にしろ社会福祉法人・有隣協会にしろふるさとの会にしろ、あるいは他の支援団体にしろ、およそホームレス支援を標榜している福祉団体は、ほんとうは当事者の社会復帰などにはまったく無関心である
■笑顔を食べて生きる ぼくの人間性に対してフェイス・トゥ・フェイスでいわれる多くの事がらは、やさしい、思いやりがある、謙虚、控えめ、穏やか、落ち着いている、ナイーブ、繊細、知的、教養がある、頭がよい、といったことばたちである。その点、このブログから受ける健次郎の印象とは、少々ちがっているはずだ。 健次郎は確かにぼく自身ではあるのだけれど、それはまたぼくの一部分でしかない。現実のぼくは、よくも悪くも健次郎そのものではない。そうしたことが、面と向かった他人のことばをとおしてよくわかる。 ぼくは、これらのことばたちが好きである。ぼくが自身の長所だと思っていることどもが、他者の眼にもしっかりと映っていることがわかるからだ。ぼくが自分自身に求めてきた姿を、きちんと他人も感じているのである。 ぼくは、そういう自分が大好きだ。 *** 某月某日 施設の心理カウンセラーと面談する。主にコミュ
某月某日 ぼくを担当する職員がなにもいってこないことに耐えられず、自分で無理やりスケジュールを組んだ。PowerPointで印刷したタイムスケジュールを担当に渡す。ひどく感心され喜ばれたが、内容は単なる概略に過ぎない。具体的な活動内容は依然として霧の中にある。細部を頭の中でイメージできていない以上、行動に移せる見込みはまずないのだが、なにも決まらない不安に耐えられなかったのだ。アクティング・アウト、かも知れない。 同室の人たちとは話もするようになり、なんとか打ち解けた雰囲気になってきた。みなで気晴らしにサイクリングに出かける。かなり離れた海沿いにある公園が目的地。ヒーヒーいいながらやっとたどり着く。釣り人たちのバケツの中身を覗きながら歩いた。魚ではなくカニが釣れるらしい。それほど寒くもなく、お出かけにはもってこいの日和だ。 某月某日 大掃除。部屋の床と廊下を掃き、窓ガラスを拭き、ベ
某月某日 施設側からの接触は一切ない。職員たちは忙しく立ち働いていて、喫煙所でタバコを吸っているぼくの脇をみな、無関心に急ぎ足でとおり過ぎてゆく。いったいぼくはこれからどうなるのだろう? いいようもない猛烈な不安が襲いかかってくる。心臓が踊りタバコを持つ手に震えが走る。全身が硬直してしまう。 この先になにが待ち受けているのか? 相談、というが、いったい誰に相談したらよいのだろうか? 担当職員がつくと聞いたけれど、それは誰なのか? ぼくはここでなにをしたらよいのだろう? なぜ、誰もやってこないのだ? なぜ、誰もなにもいってこない? なぜ、アプローチしてこない? なぜ、まったくコミュニケーションがないのだ? 知人から不安解消・安眠用のサプリメントが郵送されてきた。就寝前に服用するが、ほとんど変化なし。眠れぬ夜を過ごす。 かねてからの福祉事務所の指示で病院の精神科に赴く。施設の職員が自転
某月某日 食欲がないため朝食をとらず、部屋でひとり、片付けものをしていた。ノックがあって職員が入ってきた。本来、支給品の袋に入っているはずの箸がなかったことがわかり、わざわざ部屋まで届けにきてくれたのだった。 同時に、利用者証も渡された。食事や荷物の受け取り、あるいは外出時に必要となる。礼をいって職員を送り出してからしげしげと眺めた。あらまぁ、これは……他人にゃ見せられない顔だなぁ。むぅ…… 喫煙所の集団から離れてひとり、ポツリとタバコを吸っていた。所長が笑みを浮かべてすぅっと近づいてきた。 「どう、調子は?」 「はぁ……」 「少し図々しくやってやろうぐらいのつもりで、ゆっくりやろうよ」 「はぁ……」 「コンピュータ関係の仕事、見つかるといいねぇ」 「はぁ……ありがとうございます」 なかなか馴染まないぼくの様子に気を遣って声を掛けていただいたのだろう、たいへ
前回、ホームレス自立支援施設入所の日記を記してのち、ご心配いただいていた多くの方々から安心した旨のメールをいただきました。ほんとうにありがとうございました。 ただ、みなさん誤解していて、ゆっくり休むようにとおっしゃってくださる方が多いのですが、ホームレス自立支援施設はゆっくりと休んだり休養したりする場所ではなく、またそうできる場所でもありません。これは本人の意思によらないのです。 これから追々書いてゆきますけれども、ホームレス自立支援施設は就労による自立を目指す場所であり、働いてアパートへの入居資金を貯める場所として設定されているのです。3ヶ月で就労できない場合、原則的には施設を出されます。その先は運がよければ福祉の世話になれますが、そうでなければ再び路上生活が待っています。 したがって、入所者の話題はほとんどが仕事に関するものであり、やれハローワークに行ってきた、面接の日取りがどう
去年の11月初頭、この冬を越すのがむずかしいことを肌で感じたぼくは、消息不明のままに騒ぎとならぬよう、このブログを閉鎖した。終了しておけば、更新がなくとも読者には、 「どこかで元気にやっているだろう」 という想像の余地があるからだ。だが、現実には、ぼくは自分の生命に対する保障すら、すでにできない状態であったのだった。 しかし、ブログ閉鎖後、ぼくの身辺はにわかにあわただしくなった。知人から会いたいとの連絡があり、付き添いのもとに福祉事務所へ赴くという話が唐突に、そしてなんとなくまとまった。これまでひとりで幾度となく挑戦し、果たせず、そうして挫折してきた記憶に、おなじ経験を追記することは、今度ばかりは起こらなかった。そのために、ぼくは今、いわゆるホームレス自立支援施設にいる。 このブログはすでに終了しているが、先日も「年越し派遣村」などがメディアをにぎわし、貧困が社会問題化している
「The Long Goodbye」とは邦題を『長いお別れ』という、レイモンド・チャンドラーの手になる探偵小説のタイトルである。ブログの終了に伴いその名にかこつけて、書き残したことをいつもの減らず口で最後に。 *** なぜ、いまだにホームレスのままなんだ? というご質問が多かった。支援団体もあるし相談窓口も増えた。生活保護もある。なぜ使わないのか? 結局、好きでホームレスやってるんだろ、というわけで、一般的には「プライドが高い」と理解されているようだ。 しかし、これはなんともあまりに簡単で安直、なにも考えませんでした、ちょっと思いついただけですという思考停止した発想で、それじゃぁまるで中身が空っぽのカボチャ頭である。もっとも、カボチャ頭もハロウィンでは役立つが、ハロウィンの季節は終わったのだ。 ぼくは健康上の理由、たとえば行政の窓口や支援施設に向かう途中、めまいや腹痛を起こしたりゲ
リプラス破綻で資金援助を受けていた「自立生活サポートセンター・もやい」が窮地に立った話だが、1ヶ月あまりで総額3,400万円以上(!)の寄付が集まったそうで、来年度までの活動には支障をきたさなくなったようだ。よかったね。 たかが1ヶ月でこれだけの資金を集めたとなると、この団体がいかに大きな力を持ちはじめているかがわかる。今後のホームレス支援活動の中心を担ってゆく団体なのだろう。元々は「新宿連絡会」の活動家が立ち上げたもので、ここは有名な西新宿地下街のダンボール村を支援した組織だから、ホームレスのコミュニティを大切にするコンセプトを引き継ぐ。コミュニティを通じてのつながりを重視することから「もやい」の名がついていると記憶している。 ホームレスのコミュニティというものは一般社会と一線を画した存在であるため、別のいい方をすると、外には眼を向けずコミュニティの内部で完結し、ときには外部と対立を
逮捕されたのは、東京都板橋区に住む東洋大4年安藤容疑者のほか、埼玉県坂戸市、専門学校生伊藤貴紘容疑者(20)埼玉県狭山市、東洋大2年の男子学生(19)埼玉県新座市、成城大2年の男子学生(19)の学生グループ4人。 調べでは、4人は5日午前4時半ごろ、朝霞市の黒目川にかかる浜崎黒目橋のたもとの河川敷でホームレスの男性(43)が寝ていた「段ボールハウス」にサラダ油約500ミリリットルをかけ、ライターで火を付けようとした疑い。 朝霞署や被害男性によると、4人はこの日午前0時すぎから河川敷でバーベキューを始め、ビールなどを飲み盛り上がった。そのうち、だれかが「このサラダオイル余ったけどどうしよう」と言った後、口々に「あの段ボールは燃えやすい。かけろ!」「燃やそう」と騒ぎ出したという。 酔って盛り上がった末の勢い、ということらしい。バカな学生どもである。人を殺そうとしておいて酔っていたもなにも
ホームレスにしろネットカフェ難民にしろワーキングプアにしろ、社会の最下層を生きていると、いろいろと風当たりも強い。中にはひたすら非難の姿勢を取る人たちもいて、これはもう振り払っても振り払ってもあとからあとからわいてくるので手に負えないが、この手の人たちは大半が下層の人間である。 これね、長いこと話を聞いていると、彼らの言い分は常に一緒なんだってことがわかるんだよね。つまりさ、 「俺たちはたいへんな中をなんとかやっているのに、こいつらは……」 っていう、もうこの思いだけ。ぼくも今までいろいろな非難を浴びてきたけれど、彼らの根底には、いつもこの思いだけが流れているんですね。これがさまざまないいまわしの責めことば、たとえば「甘え」だとか「自己責任」だとかになって表現されているだけで、根っこはみんな一緒なんですよ。 この気持ちの中身を分析すると、 「たいへんなのは自分だけ」 と
多くのホームレス支援活動は、そのほとんどが第1領域と第3領域に集中している。ボランティアのコンセプトやポリシー、活動記録を見れば、とりわけ第1領域の占める割合が高いことがわかる。緊急性の軸に沿って活動しているために、眼の前の問題に忙殺されているわけである。したがって、もっとも大切な第2領域の作業は、いきおいおろそかにならざるを得ない。たとえば、近年になって第2領域に属する「人と人とのつながり」を重要視する傾向が強まってはいるが、実際には目立った活動はおこなわれていない。 ぼくがなぜ既存のホームレス支援活動を批判することが多いのか、この表でおわかりいただけるだろう。現在のボランティア活動の多くは緊急性の軸に沿った活動であるために、「実際的」ないし「現実的」と称する即物的な第1領域を最優先させており、重要で長期的な効果性を持つ第2領域の活動を、実質ほとんどおこなっていない。その場限りの「点」
「脱ホームレスをCMで応援 仙台のNPO制作、FMでオンエア」(2008年3月7日・河北新報ニュース)から。 「私はホームレスでした。今はホームレス、ネットカフェ難民、生活困窮者などの悩みを聞き、自立の手伝いをする仕事をしています。現実から目を背けても何も変わりません。皆さん、まずは相談の電話を」 ホームレスの自立支援に取り組むNPO法人「ワンファミリー仙台」が、電話相談を呼び掛けるCMを制作し、仙台市太白区のコミュニティーFM局「エフエムたいはく」で毎日オンエアされている。「経験者の声で、自立への一歩を踏み出す勇気を持ってもらいたい」。電波に願いを託した元ホームレスのメンバーは、電話が鳴る時をじっと待ち続けている。 〜中略〜 CMの声の主は、事務長の新沼鉄也さん(49)。リストラに遭ったのをきっかけに宮城野区の榴岡公園などで暮らしたが、市中心街のごみ拾いに参加したホームレスに朝
このブログをはじめて3年半が経つが、ぼくがホームレス支援者を偽善者だといったことは一度もないはずである。相手の心情に深い理解が及ばず、結果として支援が自己満足に終わることがあるにしても、それを偽善者呼ばわりできるほど、ぼくは善人ではないからだ。 ぼくはホームレス支援者たちに対して厳しいけれど、それは彼らが身近な人間だからである。身近にいながら、しかしホームレスをさほど深くは理解していない。そこが歯がゆい。伝えることに、もどかしさを覚える。いきおい口も悪くなる。 ぼくはホームレスのことなどほとんど知らない人には、わりとやさしいつもりである。初心者には頭をナデナデして、やさしく教えるようにしている。なにも知らない坊や、お嬢ちゃんたちにはニコニコ顔で接する。のちのちトンマなことをいい出したらガツンと叱ればよいのだ。 しかし、支援者はその道の専門家である。いつまでもマヌケなことばかりいってい
物理的な側面でいえば、ホームレスにはまず住居が必要だ。6畳程度の個室でちいさくても台所のついたもの、プライバシーの確保できる空間が必要である。 また、その後に作られた仮設住宅でも、震災から2年半ほど経った時点で、神戸市だけでなんと169人もの人が亡くなっている。多くが孤独死であるという。仮設住宅は都市部から離れた場所に作られたものが多く、そのうえ入居は高齢者から抽選で決められたというのだが、こうなれば隣近所は見ず知らずの人ばかりとなる。震災で家を失い、家族を失い、希望を失ってしまった人たちにとって、慰めあい励ましあえるはずである旧知の隣人がいない。そうしたかつてのコミュニティが崩壊した中での生活が、仮設住宅の入居者、とりわけお年寄りを直撃した。栄養失調、衰弱死……。消え入るように亡くなっている。 これだけのことから考えても、劣悪な居住環境、そして住居が定まらないことの、人間に与える影響
「NC-15 - 他者に対する想像力がなきゃ、いざというときに助けてくれる奴っていねえと思うけどな。」では、元ネタである「日々、とんは語る。 - 新しいホームレス。」に対する見解を述べている。6月12日放送分の「クローズアップ現代」(NHK)で触れられたネットカフェ難民について、元ネタは、 今、クローズアップ現代でやっている、満喫に寝泊まりして過ごす日雇い中心の若者の話だけど、住所がないから良い仕事に就けないとか、お金が貯まっていないから日雇いを続けるしかないとか言ってるけど、結局は自業自得でしょ。 と「よくあるご意見」を書くのだが、それについて「NC-15」は、 いい年こいてえらく想像力に欠けた考えというか。83年生まれだから24歳か。24歳でこんな考えっつーことは、よっぽど世間知らずか挫折知らないか、逆に修羅場潜りすぎて痛みに鈍感になってるかのどれかかなと。 背景に対する想像
ネットカフェ難民の定義とは、Wikipediaによれば、 ネットカフェ難民(ネットカフェなんみん)は、定住する住居を所有せず寝泊りする場としてインターネットカフェを利用する人々を指した造語。 とされている。これ自体は住まいの視点から定義しているので的確に思えるが、しかし問題がないわけではない。 つづいて上記のように解説されている文章の、「働く意思・意欲が無くホームレスになった人々とは対照的に」という部分が問題だ。ネットカフェ難民への認識が広まり、定義されるにつれ、連想されるホームレスもまた定義し直されているが、しかし、「livedoor ニュース - 【気になるトレンド用語】夜をさまよう"ネットカフェ難民"、彼らを"追いつめるもの"は何だ?」でも書かれているように、 彼らが働く意思を持っていることから"ホームレス"という言葉と区別して使われています。 というその区別は、働く意思の
「何か困ったことはありませんか」 パソコンがある個室などで、飲食をしながらインターネットをしたり、漫画や雑誌を読んだりできるネットカフェ。ソファで寝ているのは、遊び疲れて始発電車を待つ若者だけでなく、生活の拠点を失った30代以上の中高年も多い。グループは、そうした人たちの困りごと相談に乗る弁護士や司法書士たちだ。 「ここで寝泊まりする人も広い意味でのホームレスなんです」。ホームレス総合相談ネットワークのメンバーで司法書士の後閑(ごかん)一博さん(45)は言った。 こんなことは「ネットカフェ難民・ワーキングプア・ホームレス」で、俺がもう大むかしからいってきたじゃねぇか。ネットカフェに泊まっていようと日雇い派遣だろうと、広い意味もなにも帰る家がないんだから、それはホームレスそのものなのッ! 40代の女性が夜食の買い出しにネットカフェから出てきた。「今、仕事は探してないの。きっとでき
24日深夜(25日未明)あたりからアクセス数が異常に上がっていたので「さては……」と調べたところ、案の定、ネットカフェ難民関連のテレビ番組が放映されていた。それも2本である。1本目は日本テレビの「NNNドキュメント'07 ネットカフェ難民2」。もうひとつはフジテレビの「ネットカフェ漂流」だ。 動画サイトを探すと、日テレのほうは非公開とされていて前半しか見られず、フジのものは見つからなかった。もしも動画がアップされることがあれば、詳しいことはそのときにまた書くけれど、今は日テレのものの前半部分を見た感想など。 ストーリー自体はありがちといってよい。5年前に出稼ぎで上京したカズオさんはその後、日雇いというだけでアパートを追い出され仕送りもできなくなり、妻と子供とも音信不通となった。現在は日雇い派遣で糊口を凌ぎ、ネットカフェに寝泊りする日々を送る。40を過ぎると仕事も少なく、せっかく得てもド
404 Blog Not Found:書評 - 貧困の光景」で紹介されている。未読なので深く言及できないが、帯に書かれているという、 日本は社会の格差の増大に苦しむという(略)、そういう人は、電気のない干ばつのアフリカ、砂漠の続く酷暑のアラビアで、まずほんの短時間にせよ、生きてみたらどうか。そして飢えに苦しむ人々に自分の食べるパンの半分を割いて与えるという人道の基本を体験したらどうか、ということだ。(「404 Blog Not Found:書評 - 貧困の光景」より) なる文言の前半部分は、やはりいただけない。Amazonのカスタマーレビューで唐松さんという人が、曽野さんの貧困の定義を「貧困とは、その日、食べるものがない状態」と紹介しているけれど、だとすれば曽野さんは「日本の格差社会なんて貧困のうちに入らない。甘っちょろい」とでもいっているようで、なおのこと首をかしげざるを得ない。
原因帰属と基本的帰属錯誤 さて、だれかになにかが起きた。その原因は彼自身にあるのか、あるいは外部の要因なのか? これを原因帰属というが、前者を内的原因、後者を外的原因と呼ぶ。 たとえば、わたしが石につまずいてころんだ。これはわたしのせいか、それとも石のせいなのか? ここでわたしはその石ころを蹴飛ばして、「こんちくしょうっ!」ぐらいいうだろう。こんなところに石などあるのがいけない、というわけだ。ところが、それを見ていた知り合いが「ドジな野郎だなぁ」とゲラゲラ笑う。これは、石につまずくわたしが悪いということである。なぜこんな見方のちがいが起こるのか。それを考えてみる。 次に、人間には自己奉仕バイアスというものがある。これは自分を好ましく思おうとする心の働きだ。これはさらに自己高揚バイアスと自己防衛バイアスのふたつに分類される。前者はよいことがあったときにその原因を自分に求める、つまり内的
「ネットカフェ難民ブログ」というのがあって、これはなんらかの事情でアパートを追い出された元ニートの女性が、ネットカフェ難民としての日々をリアルタイムでつづるという、まさに時流に乗ったブログである。 管理人さんは幸いにして難民生活1ヶ月に満たないうちに友人宅に世話になることができ、現在はネットカフェ難民を脱した模様で、管理人さんがネットカフェ難民であるというプロフィールを含めこのブログの内容が事実であれば、まずは当面はひと安心といえるかも知れない。もちろんこの種の事情に詳しい人は、これが決して安心できる状況でないことはご承知だとは思うけれども。 しかし、そうした人たちにも複雑な思いがある。典型的なコメントをひとつ、引用する。 ずっと見てるけど、こんなにアドバイス受けても難民さん本人がやる気なきゃ意味ないよ。リゾート地のバイトだって、どれだけある?派遣もいくらでもあるさ。選んでる余裕があ
「僕はまいにち、「なにか」をさがして・・・」の松岡秀明さんが、ネットカフェに寝泊りしながら仕事をしているいわゆる「ネットカフェ難民」(ネットカフェワーカー、ネットカフェホームレス)のためのサロンをmixi内に開設している。 ほかにもいくつかコミュニティはあるようだが、ここでは「この生活の「最大の敵」は「孤独」だ」という見解に基づいて、このコミュニティを通じて友人を作るなり情報交換をするなりして、ネットカフェの生活から脱してもらいたい意向のようだ。支援しようと同調する人たちも現れてはきていて、しかし当事者の様子がわからないために四苦八苦している様子がうかがえる。 孤独が最大の敵かどうかは議論の余地があるだろうし、また問題の当事者が参加している様子が見当たらないのは残念だが、試みとしてはたいへんにおもしろい。 ネットカフェ難民については、3月7日放映の日本テレビ「NEWS ZERO」が報
この先、なにかのボランティアをやろうとしている人、あるいはなにかの社会活動、奉仕活動、市民運動などをしようとしている人にお願いがあります。今、現になにかの活動をしている人でもいい。どうしてもお願いしておきたいことがあります。 どうか、まず自分が幸せになってください。周囲の人や、ましてや自分自身を不幸にしないでください。 どうか、まずごくふつうの生活を大切にして、その基盤の上に成り立つ活動をしてください。すべてを根こそぎつぎ込んだり、活動のためにすべてを犠牲にしてしまわないでください。 どうかどうか、自分をマイナスにして相手をプラスにするような「ゼロサム・ゲーム」だけは演じないでください。 あなたが不幸になることを望む者は誰もいません。あなたが不幸になる代わりに誰かが幸せになることを喜ぶ者は誰もいません。あなたが不幸になることをぼくは赦さないし、まずあなたが幸せであることをぼくは望み
ホームレス支援のボランティアさんを批判する人たちは、むかしよくこんないい方をしていたっけ。 「そんなに支援したきゃ自分の家に住まわせればいい」 「全財産をなげうって援助すればいい」 たださ、あまり犠牲を出しちゃうのもやっぱりマズいと思うのよ。ふつう、犠牲ってのはマイナスじゃん。自分がマイナスになって相手をプラスにしても、プラスマイナスゼロじゃんか。そんなの意味ある? だってゼロサム・ゲームだぜ? なにも生み出してないもんね。 犠牲っていってもさ、自分もプラスになったほうがいいよね。相手をプラスにして自分もプラスになる。危急のときならともかくも、それが日常的な意味での犠牲だと思うんだよね。誰かを幸せにした代わりに自分が不幸になっちゃ、相手だって結局は不幸になっちゃわない? 自分を不幸にしちゃう自己犠牲って崇高のようにいわれているけど、俺はぜんぜんそう思わない。よほどの場合でなけ
厚生労働省がニートの支援策を見直すそうだ。調査の結果、発達障害を持つ人が一部に含まれていることがわかったため、支援機関に心理専門職を配置するらしい。 数あるニートの中には、高機能自閉症やアスペルガー症候群などの高機能広汎性発達障害、学習障害(LD)や注意欠陥/多動性障害(ADHD)だけでなく、うつ病や人格障害などさえ含まれているであろうことを、なぜ想定していないのか? この種の支援機関に心理専門職がいるのはあたりまえである。いないほうがどうかしているのだ。 なにかこの、専門知識も持たない一般人がむかしながらの精神論で手助けすれば事足りると、そんなふうに軽く考えていたのではないか? まったくバカバカしいぐらいに解せないニュースだ。
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