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パラパラ、マカレナ、ツーステップ、ランバダ、ユーロビートといった面々は安楽椅子に座ったまま、静かにまどろんでいた。 そこは天井に近い窓からわずかに光が入るくらいの薄暗い部屋で、椅子は一列に並べられている。彼らはほんのたまにおしゃべりをするくらいで、あとはおのおのの椅子の上でじっとしている。ときおり、マカレナが小さく咳き込む音や、ツーステップのしゃっくりが聞こえてくる。 ダンスフロアからお呼びがかからなくなって、どれくらいの時間が経ったのだろう。 ダンスミュージックたちは眠りを知らない。ダンスミュージックたちは吸血鬼のように、夜の間中ずっと起きている。吸血鬼は人の血を吸って生き永らえるが、ダンスミュージックたちは若い人間の汗や熱気を吸い込んで生きていた。 あの子たちはどうしているのだろう。ダンスミュージックたちは懐かしい思い出に浸っていた。どのダンスミュージックも記憶の中にある若い子たちが大
「あなた様を真正の文士とお見受けし、わが村に移住していただきたく候。住居・生活一般の用意もございます」 月曜日、かりそめの姿である会社員として、とりとめのない業務でよれよれになってアパートへと帰った私は一通の手紙を受け取った。火曜日、急いで荷造りをし、仕事も社員食堂の味も、同僚たちの顔も、なにもかもが平坦な勤め先をあっさりと捨てて、誰にも何の連絡もせず、逃げるようにして遠く遠くのこの村へとやってきた。 それから幾日が過ぎただろう。朝はすがすがしい空気と小鳥の声で目覚める。心地よく調えられた部屋。趣味のいい数枚のレコード。ベッドに近い窓から、遠い山の稜線が朝日を浴びて浮かび上がるのが見える。なにげない風景の一片が詩になる。 そう、ここは都会の喧騒から遠く離れた文士村。文化の薫りたゆたうまほろば。日経平均株価にしか興味のない経済ゴロやIT錬金術の軽薄なウェッブ屋、業界に憧れるだけで文字も読めな
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『風立ちぬ』を観て一晩たっても、なんだか地に足が着かないような感じでふわふわしている。とんでもないものを観てしまった。 飛行機のエンジン音にはお経の唸り声のような人間の声が使われていて、ぞっとした。二郎という主人公は、人間には許されざる怪物造りに手を染めていると思った。 墜落した飛行機の機体の前に二郎が立ち尽くす場面は、天から落ちてきたロボットの前に立つムスカの姿と重なる。飛行機とラピュタ、人間には許されない夢を見た男のバリエーションである。二郎の幻影や現実の中で何度も何度も墜落を繰り返す飛行機は、ドロドロになって腐り果てる巨神兵だ。 恋愛の場面にはすごく驚いた。 これまでの宮崎映画だと、異性から好意を寄せられても気づきもしないであっさりスルーするとか、少年か少女にほっぺをチュッとされてボッとなるとか、そういうのを描いてお茶を濁して、恋愛面でのロマンチックな部分はひたすら隠し通してきた。そ
以前は外国の小説ばかりを読んでましたが、昨年は日本の本もけっこう読んだように思います。そんなわけで面白かった本中編です。 木下古栗『ポジティヴシンキングの末裔』『いい女vs.いい女』 昨年はじめて木下古栗体験をし、度肝を抜かれました。「古栗は激アツ」という話は聞いてましたが、本当に激アツでした。通勤電車で読みながら悶絶。なんとなくソローキンや中原昌也を思わせる作風だけど、ソローキン作品にはコンセプトが、中原昌也作品には怒りが潜んでいるのに対して、木下古栗作品には偏執的な中学生がいるような気がします(マッチョ、全裸、下ネタ、毛といったモチーフへの執拗なこだわり等)。「デーモン日暮」、「清潔感のある猥談」、「この冬…ひとりじゃない」、「自分 ―抱いてやりたい―」「本屋大将」といった短編のタイトル群がすでに芸術。いつか芥川賞を獲ってほしいです。 エリック・マコーマック『隠し部屋を査察して』 不穏
あけましておめでとうございます。お久しぶりです。 久しぶりすぎて、はてなダイアリーの書き方をちょっと忘れてしまっています。なんということでしょう……。 数少ない趣味のひとつが読書で、昨年も楽しい本をそこそこいろいろ読むことができました。せっかくなのでまとめてみます。 マリオ・バルガス=リョサ『悪い娘の悪戯』 マリオ・バルガス=リョサ(通称リョサさま)の恋愛小説。 一人の男が40年にもわたって一人の「悪女」を愛し続けるというストーリーで、バルガス=リョサの作風としてもちょっと異色のものという感じです(といってもいろんな作風に挑戦する人だけど)。世界各地に神出鬼没に現れ、男たちを翻弄するミステリアスな「悪女」よりも、彼女ひとりを一途に想い続ける温厚で野心とは無縁な主人公のほうに、人間の底知れなさとワンダーを感じさせられます。 チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』 物理的に同じ場所に重なり合う二つ
40代になっても50代になっても、20代の見た目のまま美しくいたい! 50代になっても60代になっても10代や20代の女の子とつきあいたい! こういう願望を世間は馬鹿馬鹿しいと思うのか、それとも率直で自然なものだと思うのか。20年前は「年甲斐もない」と笑われたのかもしれないけど、今はどうだろう? 20代にしか見えない40代の女性が「奇跡」ともてはやされて、歳相応の変化は「劣化」と言われてしまう。親子ほどの歳の差の結婚がメディアを賑わしている。この調子でいくと、10年後、20年後は? のっけからにべもない話をしてしまったけれども、ミシェル・ウエルベックの『ある島の可能性』を読むと、こういう身も蓋もない願望をくだらないと笑えたらどんなにいいか、そんな風に思って暗い気持ちになってしまいます。しかし暗い気持ちになりながら、おもしろくてしょうがない!と興奮して、ページを繰る手が止まらなかった本でもあ
ブログでまとまった文章を書くのがかなり億劫になってきて、気づけば今年初めての更新です。twitter脳の恐怖… ロシアの現代作家、ヴィクトル・ペレーヴィンの小説。 宇宙飛行士の体に、エジプトのラー神の頭がついている表紙がかわいい。 孤独な少年時代を過ごした主人公オモンがやがて宇宙飛行士となり、月への特攻飛行を目指すという物語。ノスタルジックで牧歌的な世界の中に、ソ連体制下のグロテスクでナンセンスなイメージがひょいひょい顔を覗かせ、不思議な魅力があります。例えるなら、子どもがダンボールを家や乗り物に見立てて遊ぶ「ごっこ遊び」のような魅力を物語から感じました。想像力は宇宙旅行よりも奇異な旅を授けるのだよ。帰省から東京に戻るバスの中でこれを読んだので、高層道路を走る夜のバスのちょっとうらびれたイメージとマッチしていてよかったです。 すごくおもしろかった! 語り手〈私〉が聞いた、フランス人老公爵ブ
フィフス・エレメント(その人に影響を与え、価値観を構成する要素となった5つの表現)- 空中キャンプ 「その人に影響を与え、価値観を構成する要素となった5つの表現」を挙げていくという遊びである。(中略)「影響を受けやすい中学・高校時代のエレメントほど可」「ありふれたエレメント、恥ずかしいエレメントほど可」 空中キャンプさんのこちらのエントリがおもしろかったので、私も真似してみました。 天空の城ラピュタ 公文式 スガシカオ Xファイル アンネの日記 『天空の城ラピュタ』は、子ども時代、遊びに来た友達のおもてなしビデオとして何十回も観ました。おしゃべりにもお絵かきにも飽きてきた午後4時の気だるい空気が、これを流すと打破されるのです。なんのかんの言って宮崎駿にかなり情操教育されているのかもしれません。一番好きな場面は、ロボット兵が動き出して地獄絵図になるところ。『となりのトトロ』のビデオにもお世話
以下は預言者パウルの半生の数場面につづく物語である。
1.パウルの誕生と青年時代 小生の父となるタコは老獪で恐れを知らず、母となるタコは優美で美しかった。 諸兄は、タコの交尾というものをご存知であろうか。なんでも脊椎世界には「くんずほぐれつ」という言葉があると聞くが、たった4本ぽっちの手足しか持たない脊椎動物からそのような言葉が生まれるということ、そこに小生はいささか哀しみのようなものを覚えずにはいられない。 小生の父にあたるタコと、母にあたるタコは海底で出逢うとすぐさま、8本、8本、計16本の足を絡め、ちょうちょう結び、いかり結び、あやとりの東京タワーなどを即興で作り上げながら、性の営みに情熱の限りをつくした。まさに「くんずほぐれつ」である。その記憶はいまも海に漂っており、ふとした海水の流れから当時の彼らの熱狂をうかがい知ることができる。 母にあたるタコが産卵し、小生の人生の出発点となったのは、原発の排水によってあたためられた海であった。
冴えない田舎医師ボヴァリーと結婚した美しき女性エンマは、小説のような恋に憧れ、平凡な暮らしから逃れるために不倫を重ねる。甘美な欲望の充足と幻滅、木曜日ごとの出会い。本気の遊びはやがて莫大な借金となってエンマを苦しめていく。 たいへん身につまされる小説でした。深みにはまる不倫の恋や莫大な借金っておそろしいね、というのももちろんあるけど、それよりなにより、日ごろ好んで小説なんか読んでるような、夢見がちな人間の救いがたさが描かれているところが一番こわい。現実を物語との二重写しでしか見られず、そこここに運命の恋を見出そうとするエンマは、風車を巨人に見立てて突撃する女版ドン・キホーテのようです。 作者のフローベールが「ボヴァリー夫人は私だ」と言ったの言わないのというのは有名な話ですが、それを言ったら、小説や映画、その他フィクションのたぐいが三度のご飯よりも好きなあなたや私は、みんなボヴァリー夫人にな
岩波新書から『ぼんやりの時間』という本が出ていると聞きました。親近感のわくタイトルなので、読んでみたいと思っています。 でも「ぼんやりの時間」って、そもそもどんな時間なのでしょうね。おそらく以下のような時間なのではないかと私は考えました。 『私家版・ぼんやりの時間』 ぼんやりの朝は早い。意外と早い。 ぼんやり(以下BY)は朝の五時半にはぱちりと目が覚めて、ひとりでに自分の部屋から起き出してくる。起き出して何をしているのかというと、リビングのテレビでぼんやりと、早朝から再放送している『一休さん』を見るのだった。ぼんやりするためなら早起きも辞さない、それがBYだ。『一休さん』を観るBYは(桔梗屋の弥生さんと新右衛門さんが出てくる回はたのしいな)と思った。 早起きしているにもかかわらず、BYはいつも遅刻ぎりぎりに登校する。自分でも不思議だった。 歴史の授業は遣唐使のところだった。けれどもBYは授
両親がお見合いなら、親戚もあらかたお見合いでした。そうですわたしは、らららお見合いの子。由緒正しきお見合い一族の末裔。 子どもの頃に「なんでお父さんと結婚したの?」と母にたずねたところ「お見合いしたときに、まあこの人ならいいかなって思って」という、非常に率直でかざり気のない回答が返ってきた。その前には東大出の高給取りとお見合いをしたことがあったそうだけど、二言目には「お母さん」とのたまうマザコンぽい人だったので、速攻断わったという。どこのどなた様かは存じませんが、マザコンぽくていらしてくださり大変助かりました。おかげで私はこの世に生を受けることができ、中田カフェのまねをして家で卵かけごはんを食べることもできるのです。 そんなわけで、お見合い結婚がストリートのリアル、恋愛結婚はどこか遠くの世界の物語、それは、夕方再放送の東京ラブストーリーでリカとカンチが見た夢……と思っていたものだから、クラ
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