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大そうじへの備え
fish-b.hatenablog.com
某県の教育委員会での障害に関する発言がいろいろとニュースになっていますが、その教育委員の方が71歳ということに驚きというよりも、むしろその年齢だからこそなのかもしれないと思いました。 いえ、あくまでも推測ですけれど。 「主観年齢」ということばが学術的にどうなのかといった詳しい知識は全くないのですが、この言葉を知ったのは数年前でした。 両親が年老いていく現実のなかで、認知症の父に対しては淡々と受容することができましたが、母に関しては過去からの親子間の葛藤や母自身が自分の老いや障害に備えていないことなど、さまざまな感情の渦にこちらが陥りそうになりました。 なんて老人は身勝手なのかと。 そんな何かに突き当たった時は、まず書店や図書館へGOという私なのですが、そこで「ご老人は謎だらけ 老年行動学が解き明かす」(佐藤眞一氏、光文社新書、2011年12月)という新書を見つけました。 帯には「なぜキレや
赤ちゃんがお母さんの体から生まれ出たら、すぐに体についた羊水や血液を拭き取りながら、しっかり自力で呼吸しているか確認します。 この呼吸開始を確認しつつ、コッヘルという器具で臍帯をはさみます。 これで、臍帯内の血流が停止されます。 そのあと臍帯クリップを止め、間を臍帯剪刀(せんとう)という特殊なはさみで臍帯を切断します。 ずっとこのへその緒を通してこの赤ちゃんが育てられてきたのだという、畏敬のような気持ちがいつもあって、「赤ちゃんを育ててくれたへその緒を切りますね」と誰に言うともなく声に出てしまいます。 この臍帯あるいは胎盤に対して特別な感情を持ったり、儀式的な扱い方をうみだしやすいのはよくわかるような気がします。 <「臍帯拍動が止まってから」に意味を持たせる> 上記のように早期切断の方法であれば、児が出生してから早ければ十秒程度ですでにコッヘルで臍帯内の血流を遮断させることになります。 「
「臨床助産婦必携 生命と文化をふまえた支援」(医学書院、1999年)の産褥期の栄養について、以下のように書かれていることを前々回の記事で紹介しました。 またレトルト食品などをとらないよう、授乳中は自然食品を多くとるように心がけさせる。 「安全な食べ物」という意味からこういう書き方になったのかもしれません。 では、安全な食べ物とは何なのでしょうか? <レトルト食品のリスクは?> wikipediaにはレトルト食品とは「気密性及び遮光性を有する容器を密封し、加圧加熱殺菌した食品である」と書かれています。 もう少しレトルト食品とは何か、公益社団法人日本缶詰協会の「缶詰、びん詰め、レトルト食品Q&A」を参考にしてみましょう。 缶詰、びん詰め、レトルト食品の特性として、「経済的かつ省エネルギーである」「利用価値が高い」「保存性が高い」とともに「安全で衛生的、栄養価が高い」として以下のような説明があり
1990年代に入ると世界中の母乳推進運動の影響を日本も受けて、産科病棟も母子同室・自律授乳へと大きくシフトしていきました。 そのような流れの中で、日本母乳の会が設立されました。 日本母乳の会は、「赤ちゃんにやさしい病院(BFH)」の認定機関でもあります。 その中心となっていた山内逸郎氏(元国立岡山病院名誉委員長、元国際母乳連盟医学顧問)が監修した本が出版されました。 1993年に「はじめての母乳育児と心配ごと解決集」、1994年に「母乳育児なんでもQ&A」が婦人生活社から出版され、2000年代に入っても版を重ねて出版され続けています。 特に、後者はその後「日本母乳の会」として出版されています。 1990年代初めまでは、母乳に関する書籍は桶谷そとみ氏や山西みな子氏のように助産師単独の執筆であったものが、医師が監修するものが出始めた時代になりました。 私の勤務先にも誰かが購入して寄贈したのか、
25歳はお肌の曲がり角。 女性にしたらうれしくない宣告ですね。 私も20代の頃は、それまでぐんぐん女性として成長してきた矢先に、もう老いが忍び寄っていることを言われているようでいやーな気持ちにさせる一言でした。 そうだ、化粧品会社の陰謀だ!と(笑)。 検索してみたら、本当に化粧品会社の宣伝から広がったようですね。 「ジュジュ化粧品の歩み」の中に、「昭和43年 マダムジュジュEのキャッチフレーズ」として話題になったことが書かれています。 ところが、やはり25歳ぐらいを境に私自身も肌の張りがなくなってきたり、シミやそばかすが残りやすくなったことを感じました。 25歳、ちょうど私は東南アジアで生活をしてた頃で、化粧もやめて日焼けを満喫していたので、それは年齢のせいではなく環境のせいだとして老いへの変化を認めようとしていませんでしたが。 さらに検索してみると、25歳どころか18歳頃から皮膚の老化が
医療用物品というのは、安全性、感染予防、そして使いやすさという点でどんどんとよい製品に改良されています。 その中で、30年前に比べてもほとんど変わっていないのが、粉ミルクと哺乳ビン、そして哺乳ビンの消毒方法です。 電子レンジで消毒できるようになったことが、少し前進したぐらいでしょうか。 相変わらずポットにお湯を準備し、粉末あるいはキューブ状のミルクをお湯で溶いてそのつど調乳しなければなりません。 使い終わった哺乳ビンや乳首は洗剤と十分な水で洗浄し、薬液での消毒をする必要があります。 なぜ、乳児用ミルクと調乳や哺乳に必要な物品は旧態依然のままなのでしょうか? <震災時の授乳の想定外のこと> 前回の記事で、「母親が亡くなったり、けがなどで人工乳が必要なことがある」というまさに想定外の経験が、「ペリネイタルケア」2013年3月号(メディカ出版)に書かれていることをを紹介しました。 それ以外に、「
助産師学生の頃、初めて分娩実習に出る前の緊張感というのは人生の中でもそうそうないほどの緊張だったように思います。 特に臍帯を切断する手順は、学生同士でも何度もゴムチューブを使いながら練習した記憶があります。 <臍帯の血流を止める> 当時の教科書「母子保健ノート2 助産学」(日本看護協会出版会、1987年)に、書かれている臍帯切断の部分を引用します。 結紮は、綿テープや臍帯クリップ、ゴムバンドを使用する場合が多いが、いずれも臍帯血管の血流を止める目的で使用する。 綿テープの場合は、臍輪部より2〜3cmの所を、まずコッヘル鉗子で圧挫した後に外科結びをし、さらに1cmを残して切断する。 臍帯クリップの場合も同様に圧挫した後、装着し、24時間後に除去する。 (中略) 臍帯を切断する前に、確実に臍帯内の血流を止める必要があります。 私が助産師になった頃はすでに臍帯クリップで止める方法になっていました
自分自身を振り返ってみると、科学的な思考とは程遠い世界で生きてきたと思います。 むしろニセ科学的なものに積極的に近づいていたといってよいほどでした。 小さい頃から、宗教的な家庭で育ちました。 生きるということはどういうことか、死ぬとはどういうことか、神とは何かなど、たくさんのことを小さい頃から考える機会を与えてくれた意味では感謝しています。 ところが、「神棚と仏壇のない家庭に育った子はよい子ではない」という不合理さも教える親でした。 受験勉強の合間に、お祓いと占いにも連れて行かれました。 病気や怪我をすると、病院よりは民間療法的なものを先に施されました。 ひどいかぶれをおこしても、庭の木の葉を煎じたものをまず試されました。病院も薬局もあるのに。 あきらかな骨折でも、まずは接骨院へ連れて行かれました。 「これをすれば健康になる」たぐいの本がたくさんある家でした。 極めつけといってよいのが、看
前回の記事で食品安全情報blogの畝山智香子先生から、「北米から日本が導入してほしいもののひとつがすぐに飲ませられる、調乳済み液状ミルクです」というコメントをいただきました。 私も昨年の震災時に、産科施設での防災物資として液状乳児用ミルクと使い捨て哺乳瓶の必要性を痛感しました。 またあの未曾有の広範囲の地域の被災状況に心を痛めた海外在住の方たちからなんとか液状乳児用ミルクを送ろうとされていたことも、当時はネット上で関心を持って情報を追っていました。 阪神大震災の後から何度も国内の災害時に液状ミルクの市販を求める声があったにも関わらず、日本ではまだ販売の可能性もないようです。 日本乳業協会では規格を作るよう、2009年に厚生労働省に要望した。ただ安全性を評価するためのデーターなどを業界側が提示する必要があり、「需要があるかどうかわからない」(同協会)として準備は進んでいないという。 (YOM
昨日に続いて人生を語るには経験不足で早すぎる私ですが、それでも、うまくいくことだけが充実した人生ではなく、困難な時やどん底の時にこそ何か大事な意味がありそこにじわーっと湧き出すものがあることぐらいはわかります。 さらに人の病や死に多く関わる機会のある看護職は、人生の不条理に向き合うのが日常生活の一部になっているともいえる仕事です。 病気や死の恐怖に直面し落ち込み、あるいはかわいい赤ちゃんを抱くことを楽しみにしていたのに一転喜びから悲しみへのどん底に突き落とされていく、本当に「かける言葉もない」状況に一緒にいなければいけない仕事でもあります。 だからこそ、「こうすれば人生ハッピー」「こうすれば人生うまくいく」ような話に対して、そんなものではないよといえるはずなのですが。 <ニセ科学的な研修会その1> 親学の話題よりだいぶ前に見つけていたのですが、大阪府助産師会の研修会の内容には驚きました。
最近タイトルに「助産師」が入っている記事が続いているので、ちょっと食傷気味の方もいらっしゃるかもしれません。 自分自身の仕事が好きだから将来の助産師の行方を心配して記事にしているという部分もありますが、最近では助産師の業界は変だと思うことがあまりに多すぎて、正直なところあまり助産師とは名乗りたくない気持ちが強くなってきています。 助産師の中にある民間療法的なことへの偏りについてはだいぶ前からおかしいと考え続けていましたが、何分、当時はまだまだ反論できるほどの知識も経験もありませんでした。 数年前の産科崩壊の危機という時期に、助産師の一部から「助産師を活用するチャンス」と盛り上がっているのを知って、助産師の業界に対する私の不信感は決定的になりました。 産科崩壊の少し前から「院内助産」システムという言葉を公に、まじめに使い始めたのにも驚きました。 そして看護師内診問題での助産師側の対応は、産科
私が助産師になった二十数年前に比べて、周産期医療あるいは出産育児の話題の中で使われる用語がとても多くなりました。 医療の進歩に伴ってあるいは社会の変化に伴って、概念が変わったり新たな表現を必要とする場合もあると思います。 あるいは状態や処置内容を説明する医療用語で表現としては本来中立的であった言葉が、いつのまにか「何かに反対する」とか「こちらの方がよい」という価値観を伴って強いメッセージを持つものに変えられてしまったものもあります。 完全母乳、いいお産、自然なお産、自然分娩、人間的なお産、家庭的なお産、温かいお産、院内助産、自律(あるいは自立)した助産師、フリースタイル分娩、アクティブバース、水中分娩、畳の上でのお産、私らしいお産、主体的なお産、バースプラン、母と子の絆、カンガルーケア、産む力、生まれる力、寄り添う、体つくり、冷え、骨盤のゆがみ、自然療法、代替療法、ドゥーラ、分娩台、会陰切
doramaoさんのとらねこ日誌のNo.57の謎 - とラねこ日誌と英国独立助産師事情と助産師教育に心配すること - とラねこ日誌で「助産師教育ニュースレター」が話題になっていました。 「幻の」No.57の全文をdoramaoさんが送ってくださったので目を通しましたが、帝王切開後の経膣分娩を自宅で介助した英国の独立助産師の話以外は特に問題になりそうな話題はなかったので、うさぎ林檎さんがコメント欄で書かれているように助産所ガイドラインとの兼ね合いで削除された可能性が高いのかと考えていました。 この「助産師教育ニュースレター」は、助産院・自宅分娩について検索をしていると時々引っかかってくるので、以前も多少目を通したことがありました。 今回ちょうどよい機会なので助産師教育を担っている方々の意見を読んでみようと、No.52から最新号まで読んでみました。 驚いたのは削除された可能性が高いNo.57よ
うさぎ林檎さんのtwitter経由で知りました。 食品安全情報blog 2012−1−31の記事です。 http://d.hatena.ne.jp/uneyama/20120131#p7 A sporkeswoman for Midwives in Private Practices said it was the first time she has heard of a maternal death following a home birth in her 15 years' experiences working as a midwife. "It very very rare and it's just impossible to imagine what might happened," she said. 開業助産師の報道担当者は、彼女自身の15年間の助産師活動の中で、自宅分
カンガルーケアの危険性を呼びかけている久保田医師のサイトで見つけたカンガルーケアに関する調査報告の内容を参考に、今日はいきなりですが核心部分の安全性について考えてみようと思います。 <カンガルーケアの安全性に関する調査報告> 平成20年度こども未来財団調査研究事業「妊娠・出産の安全性と快適性確保に関する調査研究」の中で、カンガルーケアの実態調査が行われたようです。 研究課題「赤ちゃんに優しい病院における分娩直後に行う母子の皮膚接触(early skin to skin contact)の実態調査 http://www.s-kubota.net/kanri/10040401.html この調査によると、赤ちゃんにやさしい病院(BFH)42施設のうち23施設で、原因不明のチアノーゼや心肺停止、呼吸障害、体勢が崩れて転落しそうになったといった57ケースが報告されたとのことです。 実際の事例として
9月下旬、6時53分大宮発のはくたか55号に乗りました。 大宮を出て東北新幹線と分かれると、じきに小針から郷地あたりの美しい黄金色の世界が広がりました。これから収穫のようです。大宮周辺の高低差のある地形、そして高崎あたりまでの利根川や新川、見沼代用水の歴史も風景と重なって見えるようになりましたが、やり残した宿題をあれこれ思い出しました。 散歩への気力がなくなったのは暑さによる一時的なものだったようです。 軽井沢は17度だそうで、ひんやりしているのでしょうか。浅間山には雲がかかっていましたが、西へ回ると山頂まで見えました。佐久平のあたりも黄金色です。上田から長いトンネルに入りちょっと睡魔に襲われているうちに8時3分、長野駅に到着しました。20度ですが半袖でちょうど良い気候でした。 *車窓から立ヶ花狭窄部を眺める* 列車の本数の関係から、立ヶ花駅で途中下車して立ヶ花狭窄部を歩くか、蓮(はちす)
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