知られざる尾竹三兄弟 明治時代、芸術も国家主導で近代化が図られる。文部省美術展覧会(文展)をはじめ、様々な展覧会が開催されるなか、日本画壇で活躍したのが、越堂(えつどう、1868~1931)、竹坡(ちくは、1878~1936)、国観(こっかん、1880~1945)の「尾竹三兄弟」だ。仲の良かった3人は切磋琢磨するライバルとして、各々の絵を追求し、展覧会で入選を重ねていく。1912年(大正元年)の文展では三兄弟揃っての入選を果たし、「尾竹三兄弟」として名声を博した。 しかし1908年(明治41年)に、国画玉成会の審査員をめぐり竹坡が岡倉覚三(天心)と衝突、1913(大正2年)の文展では三兄弟同時落選を経験する。竹坡は美術行政制度の改革を謳い衆議院議員の総選挙に立候補するも落選し、「先に文展に祝福され、後に文展に呪詛されて居る気の毒なる作家」と称された。その後は門下生たちと画塾展などを開催し、