日系人初の米下院議員ダニエル・イノウエが来日した折、岸信介首相が侮辱的なことをいったという話を見かけ、さすがに一国の首相がそこまでいわんだろと疑っていたが、本当にいっていたっぽくてビビってる(貴堂嘉之『移民国家アメリカの歴史』岩波… https://t.co/fHWWlO7wGS
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ボヘミアにやってきた日系一家 1896年の夏、ボヘミア西部の町ロンスペルクに、この町の城の新しい女主人がやって来た。彼女は、芸事の稽古を積んだ若い日本人女性で、1年前にオーストリア・ハンガリー帝国の進歩的な外交官と結婚し、クーデンホーフ=カレルギー光子「伯爵夫人」となっていた。 夫は東京での仕事を辞め、息子たちの教育のために故郷に戻ることに決めた。蒸気船と鉄道を使い、光子は夫のハインリッヒとともに日本からやってきた。2人の息子たちはハインリッヒのアルメニア人従者や乳母に連れられ、先にロンスペルクに到着した このとき2歳だった長男のハンスは、後にこの城を相続するが、ナチス政権の協力者として投獄された。一方、1歳半だった次男のリヒャルトは後に“欧州連合(EU)の父”とされる人物になる。 14世紀の古文書ではロンスペルクはチェコの村として記されているが、1890年代にはドイツ語圏に属しており、イ
日系人強制収容「恥ずべき歴史」 バイデン氏が声明―米 2021年02月20日16時26分 日系人強制収容所入りを前にした、当時2歳のユキ・オキナガ・ハヤカワ・ルウェリンさん=1942年4月、ロサンゼルス(米国立公文書館提供)(AFP時事) 【ワシントン時事】バイデン米大統領は、第2次大戦中に日系人の強制収容につながる大統領令が署名されて79年になる19日、「米国の歴史の最も恥ずべき時代の一つ」として、連邦政府の謝罪を「再確認」する声明を発表した。 【地球コラム】議会突入と「嘆かわしい集団」 癒やしがたい米国の分断 声明は「日系米国人は彼らの生まれだけを理由に標的にされ、投獄され、非人道的な強制収容所で生きることを余儀なくされた」と指摘。「米国は、すべての人の自由と正義という建国以来の理想を実現することはできなかった」と表明した。 真珠湾攻撃翌年の1942年2月、当時のルーズベルト大統領は大
ユダヤ人(Jew)と日本人(Japanese)の子孫は「ジューパニーズ(ユダヤ日系人)」と呼ばれる。そのアイデンティティを持つ人たちが語る歴史を記録するカーメル・タナカに、イスラエル紙「ハアレツ」が聞く。 カーメル・タナカは、ホロコーストを生き延びた東欧ユダヤ人の孫だ。第二次世界大戦中の大半を、カナダのブリティッシュ・コロンビア州にあった強制収容所で過ごした日系カナダ人の孫でもある。 イスラエルの沿岸都市ハイファで生まれ育ったタナカの母は、街を見下ろすカルメル山脈にちなみ、次女をカーメルと名づけた。 タナカの両親はふたりとも建築家で、1970年代にエルサレムにあるベツァルエル美術デザイン学院で出会った。父は交換留学生としてこの学院に通っており、母はそこの学生だった。タナカは言う。 「母が初めて目にしたアジア人が父でした。その当時、国際恋愛は非常にタブー視されていたので、両親はカナダで家庭を
Published 2024/02/19 23:32 (JST) Updated 2024/02/19 23:47 (JST) 【ワシントン共同】太平洋戦争中に米政府が日系人約12万人を強制収容した根拠になった大統領令署名から82年の19日、バイデン大統領は声明を発表した。「恥ずべきことだ。家族を離れ離れにし、尊厳を奪った」と国家の過ちを改めて謝罪し、ローマ字で「Nidoto Nai Yoni(二度とないように)」と誓った。 日米は1941年12月の真珠湾攻撃を機に開戦した。ルーズベルト大統領は翌年2月19日に「大統領令9066号」に署名。日系人は「敵性外国人」とされ、家を追われて各地の強制収容所に入れられた。
太平洋戦争中の米国では、敵国・日本の支持者と疑われた12万人以上の日系人が強制収容された。そのなかには、ハワイ在住の日系人も含まれていたが、戦後になるとその事実は長く忘れ去られた。 ハワイの悲しい歴史が見過ごされてきた背景には、国家の意図的な「黙殺」があったという。 1941年12月7日(日本時間12月8日)、日本軍がハワイの真珠湾を攻撃すると、米国政府は数年にわたって本土に住む日系人を強制収容した。 だが、ハワイ在住の日系米国人も家を追われ、強制収容所に入れられた事実はこれまで無視されてきた。 「地獄谷」と呼ばれた収容所 1942年2月、ルーズベルト米大統領は特定の地域を軍管理地域に指定し、そこからの強制退去を承認する「大統領令9066号」に署名した。 強制退去の対象となる民族は特定されていなかったが、標的にされたのは日系米国人だった。「日系人はスパイで、日本軍のために破壊工作をしている
アメリカで、太平洋戦争中、日系人が「敵国からの移民」と見なされ、強制収容所に連行されたことについて、カリフォルニア州議会は、謝罪の決議を採択しました。 これについて、カリフォルニア州議会では、20日、謝罪の決議が全会一致で採択されました。 決議では、1942年、当時のルーズベルト大統領が出した大統領令で12万人を超える日系人の強制収容が行われ、住まいや仕事、家族の離別などの犠牲が生じたとしています。 そのうえで、過去の教訓から学ぶことが重要だとして、戦争中の強制収容についてすべての日系人に謝罪するとしています。 日系人の強制収容については、1988年、当時のレーガン大統領が公式に謝罪し、賠償金の支払いを命じています。 今回の決議案を提出したアル・ムラツチ州議会議員は、「謝罪の決議がトランプ政権下の今採択されたことに意味がある。日系人は、アメリカの国境でいま起きていることに心を痛めているから
きたの・よしのり/1970年長野県生まれ。モスクワ在住24年の国際関係アナリスト、作家。その独特の分析手法により、数々の予測を的中させている。1996年、日本人で初めて、ソ連時代「外交官・KGBエージェント養成所」と呼ばれたロシア外務省付属「モスクワ国際関係大学」(MGIMO)を卒業(政治学修士)。1999年創刊のメールマガジン「ロシア政治経済ジャーナル」は現在読者数3万6000人。ロシア関係で日本一の配信部数を誇る。主な著書に「隷属国家日本の岐路」(ダイヤモンド社)、「プーチン最後の聖戦」、「日本自立のためのプーチン最強講義」(共に集英社インターナショナル)など。 ロシアから見た「正義」 “反逆者”プーチンの挑戦 ウクライナ問題などで欧米に楯突き、“反逆者”となったプーチン・ロシア大統領。しかし、ロシア側から物事を眺めれば、ウクライナ問題で暗躍する欧米側の思惑など、日本で報道されている“
南米アルゼンチンで軍事独裁政権が敷かれた1976~83年、左翼狩りを名目に活動家らへの弾圧が激化した。米国の支援を受けた軍による拉致や拷問が横行。ある日突然姿を消し、遺体すら発見されていない市民は数万人に上るとされ、中には日系人もいた。軍政の終結から今年で40年。失踪者の家族や拷問の経験者は「苦悩は終わらない」と語った。(共同通信サンパウロ支局 中川千歳) ▽就寝時に拉致 1976年11月の深夜、何者かが首都ブエノスアイレス郊外の日系人家族、オオシロ家のベルを鳴らした。「けが人を連れてきた」の声。直前に訪れていた親族のことかと思いドアを開けると、数人の男が押し入り、眠っていたホルヘさん=当時(18)=を連れ去った。男達は私服に軍靴を履いていた。 両親ら家族の目の前で起きた突然のできごと。姉のエルサさん(69)は「すぐに戻るだろうと考えていた」。だがそれが、家族がホルヘさんを見た最後となった
Published 2024/10/19 08:50 (JST) Updated 2024/10/19 09:22 (JST) 【ワシントン共同】米大統領選の共和党候補トランプ前大統領は18日、2020年大統領選の敗北を覆そうと支持者らが21年に議会を襲撃した事件の受刑者ほど不当に拘束されている例はないと主張し、同様の扱いを受けたのは「第2次大戦中に強制収容された日系米国人ぐらいだろう」と述べた。ポッドキャスト番組で語った。 議会への乱入や警察官への暴力に関与したとして有罪判決を受けた受刑者と、無実にもかかわらず国策で強制収容された日系人を同等に扱うのは不適切だとして批判する声が上がっている。 トランプ氏は受刑者が議会前に集まった際、銃で武装していなかったとして「なぜ今も拘束されているのか。だれもこんな扱いを受けた人はいない」と不満を示した上で、日系人の強制収容を引き合いに出した。 日米は
フィリピン南部ミンダナオ島ディゴスの自宅で、日系人支援団体の代表(左)から説明を受ける小山マルガリタヒロコさん=7月25日(共同) フィリピン法務省は、太平洋戦争後に同国に残され、ようやく日本国籍を回復した日系人に対し、不法滞在として出国時に科される多額の罰金を事実上免除すると決めた。日本を訪れたいと切望してきた日系人にとって深刻な人道問題だったが、戦後78年を経て終止符が打たれた。フィリピン側に配慮を要請した日本大使館が15日までに発表した。 フィリピン入国管理局は日本国籍を回復した日系人に対し、出生時にさかのぼってフィリピンに不法滞在してきたと見なし、日本円換算で300万円に上る罰金を請求した例もあった。
紹介したい作品が多くてかえって迷ってしまい(言い訳)更新が滞っていたが、今回はTwitterでも紹介したジョージ・タケイのコミック「THEY CALLED US ENEMY」(彼らは私達を敵と呼んだ)を取り上げようと思う。 スタートレックのファンという訳ではないが、ジョージ・タケイの自伝コミック「they called us enemy」を読んでる。突然収容所に入れられる事になった日系二世・三世のタケイ一家を通じて、戦時中に日系人が味わった苦難、ジョージ・タケイの目を通した収容所での暮らしを描いている。面白いぞ pic.twitter.com/nOMKcN6x1U — BWTT (@BoyWithTheThorn) June 27, 2020 ここでも書いたが、ぼくはスタートレックをよく知らず、パロディやオマージュ作品の方を目にする事の方が多い。よって、出演俳優のジョージ・タケイついても、
カリフォルニア州マンザナーの強制収容所で米国旗がひるがえる様子=1942年7月/Hulton Archive/Getty Images (CNN) 第2次世界大戦中の1942年2月19日、当時のルーズベルト米大統領は、国家の安全を脅かすとみなした人物を指定軍事区域から立ち退かせる権限を陸軍省に与えた。 以後の4年間で10万人以上の日系人(大部分は米国籍の保有者)が自宅から強制的に退去させられ、全米の強制収容所に送られた。 それからおよそ80年。米国史上、最大規模の強制立ち退きにかかわったカリフォルニア州が、日系米国人に公式謝罪することになった。 謝罪の決議案は、カリフォルニア州議会で今週中に採択される見通し。「第2次世界大戦中に日系米国人の不当な排除、立ち退き、強制収容」を支持したこと、さらには「日系米国人の公民権と市民の自由を守ることができなかった」ことについて謝罪するとしている。 さら
1980~90年代にかけてブラジル国内で放送された日本の特撮ヒーロードラマ人気が今も続いている。そのブームの火付け役となったのは、2人の日系人だった。サンパウロ在住フォトグラファー兼ライターの仁尾帯刀さんが取材した――。(後編/全2回) 1日17本の特撮ドラマが放送されたことも ブラジルでは1980、90年代に日本製特撮ヒーローのテレビドラマが何度も放送され、子供たちを夢中にさせた。放送回数は増え続け、複数のテレビ局により1日に計17本の特撮ドラマが放送されたこともあった。 特に人気の高かった『巨獣特捜ジャスピオン』では、関連グッズはおもちゃやお面にとどまらず、コミック、LPレコード、文房具など多岐に及んだ。 始まりは日本から持ち帰った「18本のビデオ」 1980年に佐賀大学に県費留学し、翌年ベスト電器佐賀本店で研修した日系1世の江頭俊彦さん(67)はブラジルに帰国する際、自らと父のために
第二次世界大戦中に撮影されたオアフ島のホノウリウリ強制収容所。 (PHOTOGRAPH BY R. H. LODGE. COURTESY OF JAPANESE CULTURAL CENTER OF HAWAI‘I (JCCH)) 米国ハワイ州、オアフ島の西部に、手付かずに見える森がある。だが近寄ると、その中にコンクリートの基礎や崩れかけた石の壁、金網の一部が残されている場所があることに気付く。ここは、第二次世界大戦中、ハワイ最大の強制収容所だったホノウリウリ収容所があった場所だ。 当時、この場所にはプレハブの建物やテントが並び、4000人の戦争捕虜と400人の罪のない民間人が収容されていた。実はそのほとんどが日系米国人だった。1946年に最後の収容者が解放されると、収容所はそのまま放置され、やがて自然にのみ込まれ、米国史の汚点は闇に葬り去られた。 (参考記事:「「転住」だと思われた米国日
彼らの強さの理由は…読むほどに切なくなるのだが、 『祖国であるアメリカに忠誠の証明をしたい。俺たちはアメリカ人だ』という気持ちと、 それを国家に許してもらえない 日系二世の当時の境遇に対する相反した状態が生み出したものかもしれない。 「私は何人であるか?」なんて、 祖父も曾祖父も、あるいはずーーーーっと前の代でも日本人である私であればさほど気にもならないだろう。 しかし、アメリカで生を受け育った『日系二世』にとっては、 外見が日本人でも、自分はアメリカ人であるという気持ちを持っていました。 しかし、アメリカと日本という、母国とルーツに当たる二国が戦端を開き、 かつ黄色人種にたいする偏見と差別から、彼らは『敵性国の人間』とレッテルを貼られていました。(ちなみに、同じ枢軸国のドイツ系、イタリア系はこういったお咎めはありませんでした) のみならず、自由をはく奪されて、収容所に入れられる…この気持
太平洋戦争中のアメリカで日系人が「敵性外国人」として強制収容された歴史を伝えようと、収容された12万5000人余りの氏名を一つにまとめた名簿が完成し、記念の式典がロサンゼルスで行われました。 ロサンゼルスの全米日系人博物館では24日、強制収容された人たちの氏名をまとめた名簿を納める式典が行われ、収容所にいた日系人やその家族などおよそ500人が参加しました。 式典で参加者たちは、日本語と英語で収容所の名前が書かれた細長い木の札を持って会場に入りました。 名簿は、「慰霊帳」と名付けられ、全米75か所の施設に収容された12万5000人以上の氏名が一つにまとめられていて、機密解除されたアメリカ政府の文書を基に家族への確認を行うなどして完成したということです。 収容所で生まれたという79歳の男性は、「収容された人々の名前が一つになったことに感銘を受けています」と話していました。 名簿作りで中心的な役
頭に来たドナルド・トランプ大統領はカリフォルニア州知事やニューヨーク州知事(ともに民主党)と非常事態宣言解除をめぐる権限で大げんか。 返す刀で今度は「中国寄り」に終始してきた(?)エチオピア人のテドロス・アダノム世界保健機関(WHO)事務局長に矛先を向け、同機関への拠出の一時停止を決定した。 その災危は筆者にもひたひたと迫っている。 スーパーに行っても郵便局に行っても周りの冷たい目を肌で感じる。こちらを避けようとする素振りが見え見えなのだ。 読者諸兄姉は、「第2次大戦中ならいざ知らず、これだけ強固な同盟関係を結んでいる米国でなんで嫌われるんだい」と言われるかもしれない。 さらに「それに責任は中国人にあるのであって日本人は日本人で中国人とは関係ない話だ。断固抗議せよ」と言われるだろう。 あるいは、「白人優先の一部白人のアジア人蔑視、人種差別だろう」と問題視されないかもしれない。 ひとたび日本
19日、米ワシントンで、スミソニアン米国歴史博物館のイベントに出席したエリカ・モリツグ大統領副補佐官(共同) 【ワシントン共同】太平洋戦争中に米政府が日系人約12万人を強制収容した根拠になった大統領令署名から81年の19日、バイデン大統領は声明を発表し「誤った収容により日系人の家族を引き裂いた」と述べ、米政府として改めて謝罪した。ローマ字で「Nidoto Nai Yoni(二度とないように)」と誓った。 ワシントンのスミソニアン米国歴史博物館は19日、イベントを開催。元収容者で日系人の名誉回復に尽力し、昨年5月に死去したノーマン・ミネタ元運輸長官を追悼した。出席した日系4世のエリカ・モリツグ大統領副補佐官は「あなたがいてこその私です」とミネタ氏に語りかけた。
マンザナー強制収容所跡地に復元された監視塔。収容所は自然環境の厳しい荒野に設けられた=米西部カリフォルニア州マンザナーで2019年4月27日、福永方人撮影 太平洋戦争中、米国で「敵性外国人」として強制収容された日系人全員の名簿が今年6月にも完成する。これまで曖昧だった被害者数が初めて確定する。主導するのは、日本生まれで曹洞宗の僧侶でもある米国人研究者だ。米本土で強制収容が始まって今年で80年。米国史に残る人権侵害を正確に記録する意義とは。【ロサンゼルス福永方人】 名簿の作成を進めているのは、南カリフォルニア大宗教学部長のダンカン・ウィリアムズ教授(52)が率いる12人のチームだ。強制収容開始から80年の節目に名簿を発表しようと、3年がかりで確認作業などを続けてきたという。 収容所に送られた日系人のリストは米政府も残している。だが、氏名のスペルが間違っていたり、文字が不鮮明で判別できなかった
太平洋戦争中の1942年、米国のルーズベルト大統領(当時)が米国内の日系人強制収容の根拠となった大統領令9066号に署名してから19日で80年となった。新型コロナウイルス禍でアジア系住民に対するヘイトクライム(憎悪犯罪)が急増する中、政府による人種差別政策の悲劇を思い起こし、差別根絶につなげようという機運が高まっている。 バイデン大統領は18日に声明を出し、「(大統領令と強制収容は)米国史の最も恥ずべき出来事の一つ。人種差別や外国人恐怖症の悲惨な帰結を想起させる」と強調した上で、「取り返しのつかない被害を受けた日系人に対する連邦政府の公式謝罪を再確認する」と表明。「Nidoto Nai Yoni(二度とないように)」と日本語でも訴えた。
米カリフォルニア州議会が20日、戦時中の日系人強制収容を謝罪する決議案を可決した。実は、日系米国人が不当な差別から名誉と自尊心を回復した過程は、実名告発や実名報道をめぐる昨今の日本国内での議論と重要な共通点がある。日系人が名誉回復を実現できた一番の理由は、長年の沈黙を破り、実名で社会に向け語り始めたことだった。日本の実名問題を論じる上で参考となりそうな日系米国人の歴史を簡単に振り返ってみたい。 12万人の日系人が強制収容戦前、多くの貧しい日本人が、生きるために日本を離れ米国に渡った。遠く離れてもなお祖国への思いが強かったことは、家々に天皇の写真が飾られていたことからもわかる。 太平洋戦争が勃発すると、米政府は、天皇に忠誠を誓う日系人が謀反を企てているという根拠のない理由で、主に西海岸に住んでいた約12万人の日系人を、着の身着のまま同然の状態で、荒野に建てた収容所に強制移送した。終戦と同時に
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日本でも話題のドラマ『SHOGUN 将軍』で主役のひとりである戸田鞠子を演じた、ニュージーランド出身の日系人俳優アンナ・サワイ(澤井杏奈)が、米紙「ロサンゼルス・タイムズ」の独占インタビューで作品への思いを語った。 アンナ・サワイは、ドラマ『SHOGUN 将軍』の制作総指揮者ジャスティン・マークスと初めて面談したとき、まず聞きたいことがいくつかあった。そのひとつが、「なぜこれをリメイクするのか」だった。 原作のジェームズ・クラベルのベストセラー小説『将軍』を基に、マークスとレイチェル・コンドウが「ディズニー」の制作スタジオ「FX」と組んで共同制作したこのドラマは、長年温められてきた企画だった。 だがその時点でのサワイは、このドラマに対する評価をオーディションの資料からわかる限りで下すしかなかった。その資料に含まれていたのは、人物描写とあらすじ、そして、全貌などまったく見えない入浴シーンの台
太平洋戦争中、アメリカで日系人が強制収容されることになった大統領令の発令から今月19日で80年となったのに合わせて、大規模な収容所があった西部アイダホ州では、知事がこの日を「追憶の日」とすることを宣言しました。 旧日本軍による真珠湾攻撃からおよそ2か月後の1942年2月19日、当時のアメリカのルーズベルト大統領が署名した大統領令によって、およそ12万人の日系人などが「敵性外国人」とみなされ各地の収容所に送られました。 21日、大規模な収容所があった西部アイダホ州の州都ボイシでは、ブラッド・リトル知事や日系人団体の関係者などが出席して式典が行われました。 この中で、リトル知事は「戦時中、アイダホ州の収容所にはおよそ1万人が収容された。しかし、そこからおよそ1000人の日系人がアメリカ軍に従軍し、その後も日系人による社会への貢献は続いている」と述べました。 そして、大統領令の発令から今月19日
これを初めて日本政府に提案したのは、今は亡き井上建議員(ダニエル・イノウエ)でした。日系人が駐日大使という地位に就くことで、アメリカと日本の双方の国益に結びつくことのみならず、アメリカ社会における日系人の地位向上にもつながると井上議員は考えました。時は1959年、日系人社会は、戦後の復興期からリドレス活動への過渡期にありました。 駐日大使を選ぶ権限はアメリカ政府が握っていますが、日本政府の意向を無視することはできません。そこで井上議員は、当時の日本の政局における最有力者のひとりであり首相でもあった岸信介に面会し、日系人を駐日大使として東京に送ることを提案しました。 井上議員は、日本政府がこの提案に反対することはないと考えていました。ところが、岸は彼の提案を一蹴したのです。さらには、岸は日系人にたいする侮辱ともとられる予想外の発言を、井上議員の前でしたのです。 日本には、由緒ある武家の末裔、
「多くの人々は唯一のヨーロッパを望んでいる」 1923年。今から1世紀近くも前に「パン・ヨーロッパ(汎=はん=欧州)」と題した著作を発表し、欧州を一つに統合すべきだと訴えた思想家がいた。リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー。父は現在のオーストリアを拠点とするハプスブルク帝国から駐日代理公使として派遣された貴族のハインリヒ。母は東京・牛込の骨董(こっとう)商の娘だった青山光子。日本人の血が流れる欧州人で、青山栄次郎という日本名もある。その欧州統合論は当時国際的な反響を呼び、独仏など各国の政治指導者が現実の国際政治の場で議論するまでになった。 関税同盟や共通通貨による単一市場、仲裁裁判所の設置、共通の外交・安全保障政策――。「パン・ヨーロッパ」で示された構想は、いまの欧州連合(EU)の姿と多くが重なっている。 だが、ここ数年、クーデンホーフ・カレルギーは奇妙な形で注目されている。インターネッ
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