2016 - 05 - 04 『ガルパン』 からみた 『はいふり』 のハンデと誤算 アニメ感想・アニメ関連の話 「はいふり」を見ながら「ガルパン」に似てるって連想しますか? 私は連想しちゃいます。視聴しながら無意識のうちにもどこかで両者を比較しているように思います。 ということで両者を比較しつつ共通点や相違点、「はいふり」のハンデに感じる点などについて書いてみます。 「はいふり」の正式名称は 「ハイスクール・フリート」 (High School Fleet)ですが、ここでは「はいふり」で統一します。いっぽう「ガルパン」の正式名称は 「ガールズ&パンツァー」 この記事は「はいふり」を第4話まで見た段階での話です。 「はいふり」と「ガルパン」の共通点 まずは両者の共通点から。おもなメインスタッフで共通しているのは、 吉田玲子 さんと 鈴木貴昭 さん。 吉田玲子さんは両作ともにシリーズ構
先日、社会人が大学院に進学する記事を拝読しました。 社会人でお子様もいらっしゃいながら、休職し、大学院に通われる決心をされ、実行されているのは非常に尊敬のできる事です。 また最近は中途採用では修士号を持っている人が増えたと感じますし、他大学の職員の方も修士号や履修証明プログラムに通っている人もちらほらいらっしゃいます。 ふと思い返せば自分も次のような記事を書いたことがありますが、ちょっと別の視点から大学院(修士・博士課程前期)進学について体験的大学職員(社会人)の大学院進学前に考えておきたい事としてまとめてみました。 www.daigaku23.com 大学院に通うには、自分のライフプランを考える マネープランは大丈夫か 勉強・研究時間はどのように確保するか 出願時に出す研究計画書はとにかく読んでもらう 職場の理解 自分の研究分野はどこで発表できるかを調べる 大学院に通うには、自分のライフ
柳父(やなぶ)章氏の『翻訳語成立事情』は小著ながら圧巻である。そこには、個人、社会、近代、自由等々の西洋起源の観念をいかにして日本語に移し替えるかに試行錯誤を重ねた福澤諭吉や中村正直など、往時の知識人の苦闘が鮮やかに描き出されている。 日本には存在しなかった観念 インディビデュアル(individual)は現在ではごく普通に「個人」として使われているが、この言葉が導入された頃の日本にはそういう観念は存在しなかった。神や社会に対する究極的な単位として、それ以上は細分化できない唯一の存在といった意味での個人が、かつての日本になかったことは柳父氏のいう通りであろう。当時、日本人は社会の「身分」として存在はしていても、個人としてではなかった。
一昨日あたりツイッター(そして、そのまとめ)で話題になったのが、これです。 「なぜクラシック音楽の人口が減り続け、今も激減しているのか」をとてもわかりやすく説明→分かり易すぎると話題に この発言の内容(というか比喩)にわかりやすい、という人がある程度いる、ということについて、少し考えてみたいと思います。 要点としては3つにわかれます 1 クラシック音楽はそんなに敷居が高いのか 2 クラシック音楽を敷居高いイメージにしてるのは誰か 3 実際のところクラシック音楽のファンは激減してるのか ってことで、最終的には具体的な数値の一つとして「日本プロフェッショナル・オーケストラ年鑑」のこの10年ほどのデータを参考にしてみたいと思います。 1 クラシック音楽はそんなに敷居高いの?まずは、冒頭のツイートの比喩の私の解釈は、 「クラシック音楽に全く無縁だった人が興味を持とうとした時に、気軽に入れるものをア
・『ひとはけの虹』1巻。Cuvieが西洋美術史をテーマに描いている漫画で,とりあえず美術史だから買ってみたという。 → 物語の筋としては,時空を超えて旅をする謎の青年が,「ひとはけ」塗れば「虹色」に輝く顔料となる伝説の鉱石オリハルコンを持って,各時代・地域に散らばる画家たちに渡し歩く―――その先々で名画にまつわる不思議な事件が起きる,というもの。一応の主人公は立っているが,実質的には西洋美術史にまつわる短編集である。 → なお,1・2話は逸名の画家を登場させているが,3話で方針転換してカラヴァッジョを出しており,以後は有名な画家たち(ベラスケス,ミレイ,ウォルター・シッカート)の名前をはっきり出している。また,カラヴァッジョの章の主人公は同時代のローマの逸名画家であり,4話の主人公は終始「ディエゴ」と呼ばれていて,直接ベラスケスと呼称するのを避けている。そういえば,作中で登場するジャン・エ
柳父(やなぶ)章氏の『翻訳語成立事情』は小著ながら圧巻である。そこには、個人、社会、近代、自由等々の西洋起源の観念をいかにして日本語に移し替えるかに試行錯誤を重ねた福澤諭吉や中村正直など、往時の知識人の苦闘が鮮やかに描き出されている。 日本には存在しなかった観念 インディビデュアル(individual)は現在ではごく普通に「個人」として使われているが、この言葉が導入された頃の日本にはそういう観念は存在しなかった。神や社会に対する究極的な単位として、それ以上は細分化できない唯一の存在といった意味での個人が、かつての日本になかったことは柳父氏のいう通りであろう。当時、日本人は社会の「身分」として存在はしていても、個人としてではなかった。
28日、東京大学で開かれた朴裕河教授の著書「帝国の慰安婦」に対する日本の知識人の討論会で参加者たちが意見を交わしている=東京/3・28集会実行委員会提供//ハンギョレ新聞社 擁護側 「韓日関係の打開策を模索している」 批判側「日本の責任は極度に最小化」 リベラルの知識人の間で緊張した空気 「結局、この本は、日本軍『慰安婦』問題に対する日本の責任を極度に最小化し、戦後日本が行ってきた努力を過大評価している。このようなイメージを求める日本のマスコミの欲望に問題がある」(チョン・ヨンファン明治学院大学教授) 28日午後1時30分、東京大学駒場キャンパスの国際交流ホールに張りつめた空気が漂った。この日、朴裕河(パクユハ)世宗大教授の“問題”著書「帝国の慰安婦」をめぐり、日本のリベラル勢力の中でも、同書の擁護論者と反対論者たちの間で討論会が開かれた。 韓国でも論争になったが、日本でも朴教授の著作をど
「「慰安婦」問題に関する日本の歴史学会・歴史教育者団体の声明」が出たこと - 法華狼の日記に対して、著名人や歴史家にも、いくつか理解できない反応がみられる。 一例として、日本中世史が専門の呉座勇一氏*1が下記のようにツイートしている理由がよくわからない。 あまり私個人もつかわないが、そう表現しなければならない状況はある。「支持する声明」*2でつかわれなかっただけで意見が後退したかのように報道されたばかりだ*3。 もちろん呉座氏は専門家として倭寇の奴隷貿易なども知っているのだから*4、人身売買された従軍慰安婦が「奴隷」にふくまれることは否定できないはず。 さらに呉座氏は、いくつか非公開ツイートを「鍵RT」として否定せず転載しているが、さらに首をかしげるものが多い*5。 最初に「強制連行」や「性奴隷」といった学術的な見解に反発するのであれば、それがクリアされることはないだろうから、「右派」が反
勤務先の大学図書館の台所事情を晒すことになってしまい心苦しいのですが、全国的な問題ともなりつつあることを考え、このようなまとめを作ることに踏み切りました。ご賢察を賜れば幸いです。 発端は、うちの学生からの苦情呟きです。。。
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