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表題をいいかえれば、藪から蛇を出したがる人達とでもなるのだろうか。 暫くこのブログから遠ざかっていたので、長文が書けるのかどうか不安で、今回はリハビリのようなものである。 たんに、気付いたんだけれど似たような人がいますね、というだけの話。 リハビリだからというわけではないが、別にそれらを分析してどうしようというつもりはない。たぶんそんな能力もない。(ついでに言うと、リハビリとはいえ、これから再びしばしばブログを書くようになるかというと、そんなつもりも余り無かったりする。) 最近でははてなブックマーク - 「男子臭いバス乗れない」女子悲鳴でにおい対策 : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)でのコメントに多くの、<そういうタイプの人>が観察される。 百歩譲って、臭いに対して女性はもっと寛容であっていいんじゃないの、そういう批判ならまだ分からなくない。しかし、女性の化粧・香水臭さ
とりあえず、何か別のことを最新エントリページにしたいので、書くだけ。 読み返しはするかもしれないが、今回はあまり校正しないつもり。 ・・・・・・・・ 内心の自由は保証されていない云々のエントリを読んだ当初は頓珍漢な感想しか浮かばなかったが、いろいろフォローエントリーなどを読んで、これはかつて交わされた「表現の自由にヒモ」論議に近いところにあるのだな、と思った。 その流れでいけば、内心の自由を声高に主張するという「行為」は、あくまで行為として、批判対象となるだろう。 だがしかし、かつては少なくとも、「儀礼的無関心」は容認されていたのではないか。 今もそれは容認されているのか。 恐らく容認されてはいるのだろうが、そう取らない人がいないかどうかというのは気になるところ。 私の勝手な用語法では、儀礼的無関心を容認するということは、内心の自由を容認するということだ。容認というか、容認するも何もひとつ
テキトーなブコメをしてしまったのではないかと、今一度はてこはだいたい家にいるを読み返してみた。 コメント残そうか迷ったが、そこまでの内容なのかという逡巡があり、また返答いただいても、議論が深まるのかどうかも分からない。だから、ただ目を通していただければ、という気持ちで以下記す。 まず、「ファンタジー」という言葉が、やや曖昧で、それが上記ブログの不幸な結果につながっている。多くの人は、それを表現物として解釈してしまったきらいがある。夢物語は夢物語でも、おそらくもちのすけさんが当初言及したときの「ファンタジー」は、表出以前のもので表現物としては想定されておらず、近い言葉で言えば「妄想」なのだろう。 という前提にたって読み返してみると、少なくともはてこさんの苛立ちというか不安というか危惧というか、はよく分かる。 多分、ここに書かれているエピソードが重要なのだ。 つまり年上の内気な独身男性から雰囲
id:NaokiTakahashiさんに名指されていたので何か書くべきかと思っていたら、Apemanさんが圧倒的に詳しく書いていて、もう話としては殆ど終わっているような。 ともあれ私はNaokiTakahashiさんの次のような発言に反応したのです。(すいません。具体的にどのエントリかは略します。) じゃあ脅しみたいに表現の自由に言及するのやめたら? それやってる限りこちらの態度は軟化できん。 表現の自由に手を出さず倫理の範囲でやるなら反対なんかしないさ。 倫理とかの話をするなら俺もこうは言わないよ。 ああ、これなら話が早いなあ、と。 で、それを念頭において 改めて最近のApemanさんのエントリから抜き出してみると、 「表現行為に対する現状以上の法規制を主張したことは一度もない。」 「「表現の自由キリッ」を批判するのは「表現に対する法規制はできる限り回避すべき」という前提があってこそ、と
id:NaokiTakahashiさんはもう終了気配で気が引けるので、手短に。(何度もブクマで絡んだ落とし前みたいなエントリなので、流すように読んでいただければ、と。) やはり私は、NaokiTakahashiさんの方が都合よく現実主義を持ち出している気がする。それは、たとえば、hokusyuさんに文句が言いたいがため? NaokiTakahashiさんが最初に文句を言ったときにこんなことを書いている。 男が獣でないことは自明ではない、……と考える人が割とまだまだたくさんこの社会にはいる。 この現実主義は「男はケモノだ」とパラレルですよね?「日本の民度は高くない」=「男はケモノ」 曽野氏ら復古主義者が、(おそらくは)若い女性に文句を言いたいがために都合よく持ち出された現実と。 そして結果、曽野氏が自衛を呼びかけるがごとく、NaokiTakahashiさんも「予防拘禁めいたことを書かないよう
■沈黙していることと「本気で思うことは出来ない」と公言すること 思う事と言う事が直結している、なんて馬鹿げた事は、たとえば幼児でなければ、そんな事はありえない。というか、思うことをそのまま言わない事によってしか、われわれは生きられない。 日常生活をちょっと想起すれば分かることで、お前さんは、思ったことを全て口にして生活しているのか、と問えばいい。そして、言うまでもなく、日常生活もまた政治である。 ほんとうに感謝していなければ「ありがとう」と言えないというのは、幼児が良く陥る陥穽で、親戚のおばさんなんかに欲しくもないおもちゃを買ってこられて、ありがたく無いからありがとうが言えずその事で叱られ号泣したりする。 それも大人になれば、朝も早くから会いましたねという気持ちがなくても「おはよう」と、疲れていませんか大変ですねという気持ちがなくても「お疲れ様です」と言うことになる。ときに、当然言うべきと
昨夜はある人のブログにとても感銘を受け思わず駄文を連ねてしまったのだが、そのあとある人のブログを読んで脱力してしまった。 村上春樹も、自分のスピーチに感銘を受けた人がこんな事を言っているのを知ったら頭を抱えてしまうのではないか。 確認しておきたいのは、正論原理主義の問題とは、文字どおり正論を原理としてしまう事であって、べつに正論を述べる事が問題だと言ってるわけではないという事。 また、言葉で述べられる正論を捨て、「言葉にならない正しさ」だとか「言語化され得ない概念としての正しさ」だとか、一見もっともらしいが何を示しているのか良く分からない「正しさ」に依拠せよなどという事でも、断じてない。 正しさをべつの正しさに置き換えたところで、正しさを原理としてしまうのであれば、そこでは何も変わっていないのだから。 正しさを語って容易に説得できないからといって、正しさを「見せた」ところで容易に同じように
(以下ただのつぶやきです。自分自身にとって以外はそれほど意味がないかもしれませんので一応) 未整理のまま。 さいきん、村上春樹のスピーチ以後、正論原理主義批判が多く見られるようになったが、一種の自浄作用としてアリだと思う。 けれどもそれが行き過ぎて、実感優先主義、生活優先主義にまで退行しないように、そして、「正論原理主義」からは距離をとっても「正論主義」ではありたいと思う。 思えばこのブログ、当初は、「日本人としての実感」に則した靖国参拝への疑義がきっかけだったし。 それにはてな界隈の外側では相変わらず、「当時の実感」に則した、大東亜戦争仕方がなかった論、が幅を利かせている事も事実なのだから。 「政治的に中立なんてありえない」という批判が正当であることと、自らにあるいは他者が中立性を仮託したプラグマティックな立場を認めることは両立するのではないか、とも考えたりする。 いやいや戦争に協力しあ
珍しく言及されてしまったので、NaokiTakahashiさんのその前後のエントリも含めて読んだ感想を書こうと思う。もしかしたら雲をつかむような事を書いてしまうかもしれないが、今のところそのようにしか書けないので、もし読まれる事があればなんとかご容赦いただきたいと思う。 まず私がmojimojiさんの一連のエントリに対してなぜ易々とこれを許容できるかといえば、あそこで文学と政治が切り離されて文学および文学者が不当に貶められている、とは全く思わないからです。 mojimojiさんは違うとおっしゃるかもしれないけれども、彼の言葉も、私からすればまぎれもなく文学の言葉です。たとえば「パレスチナに用がある」なんて表現に文学を感じないでいる事が私にはできません。あそこで起こっていることは文学対文学であり、文学にとってはそのようなものは当然ありうる、特別嬉しいことでも悲しいことでもありません。 そもそ
私は村上春樹の作品を読んだことがない訳ではない。というか一時は熱心な読者であったくらいだ。 だからといってファンとして我慢できなくなったわけでもないのだが、流石にここでのコメント欄でのid:fujipon氏のこの発言はないだろうと思う。 ちなみに、繰り返しますが、僕が問いたいことはこれだけです。 「mojimojiさん、あなたは、世界を少しでも良くしたいんですか? それとも、自分の正しさをアピールしたいだけなんですか?」 このような質問を投げかけられれば、誰もがもちろん前者の答えを選択せざるをえない。いわば、答えは予め決まっていて、そして強要されているのだ。 と、ここで思い出してみる。 村上春樹って、こういうやり方で他人に答えを強要するようなやり方を一番ヘイトしてるんじゃなかったけ? 学生運動が激しかった頃、授業を妨害したりしては予め答えが出ているような類の議論を強要し、誰もがそうと答えざ
しかしこのブログ、出だしから結構無理があるいちゃもんである。 水村氏が「今や、広く読まれる小説といえば、つまらないものばかりになっていると、人はいう。」 と書いたのに対して、 「と、人はいう」、その「人」とは誰だろう。ご自身がそう認識しているのか、具体的な誰かがそのように発言しているのか、どちらなのか。編集者や校閲者はいったい、なにをしているのかと思う。 この「人」は英語でいえばさしずめ"they"だろう。具体的に誰を指すわけでもなく広く一般に言われている(行われている)ときに仮に立てる主格のようなものではないか。だから、1.ご自身がそう認識しているのか 2.具体的な誰かがそのように発言しているのか、という二者選択なんてありえない。無理がありすぎる。いちゃもんである。 こういういちゃもんを意地悪でなく本気でやってるとすれば、もはや英語ができる人とそうでない人はこんなにも溝があるのだなあとい
「論法の同型性」論法の危うさ - 吾輩は馬鹿であるで行われてる議論についてブコメしたが、その後コメ欄でまた議論が進んだようなので、現時点でのそれへの補足。 Sokalian氏いわく、 ホロコーストとトリアージの共通点はどこにあるか?「資源の希少性」と「合理主義」しかないのである。 つまり、ホロコーストとトリアージには共通点があることは認めている。一歩進展。 その後、 企業内の人員配置計画も、我が家の家計も、すべて「ホロコースト」と同型の論理に支えられている、と言えてしまう。 と続くのだが、私はこの時点で、もしかしてSokalian氏もhokusyu氏と同じ地点に立ってるのでは、と思った。 だって、 「資源の希少性」と「合理主義」をもって、企業内の人員配置計画とホロコーストを同型とするのが× なら、当然同じ論理で、 「資源の希少性」と「合理主義」をもって、経営学とホロコーストを同型とするのも
『たばこの煙払い、鼻折られる=嫌った学生殴った男逮捕』っていうニュースがあったんだけど、これに対する反応が興味深かったのでちょっと書いておく。 ところで、こんなのが何でニュースになったんだろうか。 殴った殴られたなんてどこにでも転がってる話で、道路上で幅寄せされたとか、電車のなかでケータイを注意されたとか、そんなトラブルは日常茶飯事なのでニュースにならない。 恐らくというか間違いなく、今回ニュースとなったのは、一つに殴ったのが「喫煙」を巡ってであり、そしてまた、よくありがちな注意されてカッとなってケンカに発展ではなく、嫌ったそぶりをしただけで殴られるというきっかけとしては非常にレアな出来事だったからに違いない。 繰り返しておくと、これはレアなケースなのだ。 まあ上記のことは、あくまで、報じられている通りという解釈でいえばなんだけど、実際嫌ったそぶりで突然殴るなんてことはまず無さそうとしか思
この事件に関しては伝えられるアウトラインがあまりに単純な気がするという事もあって、かえって何かすぐ語るのも軽率な気がして、いつまでたっても「そろそろ語る」なんて気には、さらさらならない。 だから、これについてもできるだけ手短に。 (私はこの記事の題名が非常に嫌なので自ブログに表示すらさせたくないので「これ」にする) まず、人が何人も死んでいるのだ。それについて書くのにあたって、「言葉」に無頓着すぎる。ほんとうに悼む気持ちがあるのか疑いたくなってしまう。 犯罪が発生した背景を探るのが「本質的に意味がない」とはどういう事なのか? 本質的に意味がないのならば、「学問的な研究としては意味があるかもしれない」などという事はありえない。 表層から本質を探り議論するのが学問だろう。学問的に意味があるのならば、本質的に意味があるのだ。 学問的には意味があるかもなどと書き足したなら、きちんと推敲して「本質的
前回、匿名擁護者はそのメリットを強調するしかないという旨のことを書いたが、いよいよ匿名のメリットの話である。ちなみに別に今まで暖めていたわけではない。毎度のことだが、たいした事をこれから書くわけでもない。 で、匿名のメリットといえば、忌憚無く書けるという事に尽きるだろう。 私は以前こんな事を書いた。 ここで一般論めいた書き方をしているが、これを書いたきっかけは何よりネガコメ是非論でしかなかった。ネガコメに関しては文字数も限られており、問題のあるコメントはゼロではないが全体として問題にするには足らない、むしろネガコメを問題視してしまうその耐性、許容性の無さの方が問題だと考えた。賛意ばかりではなくむしろ批判をこそ言論は求めるべきだろう、と。そこにこそ、その先があるだろうと。 しかし、この理屈であれば、はてなのネガコメだけではなく匿名掲示板だって擁護できてしまうのである。 では私は態度変更をした
よく"実名だと電凸等のリスクが大きいのがデメリット"、と言われるけど、これは矛盾した言い方ではないか。 なぜなら、電凸等のリスクは匿名ネット社会が増幅させている部分が大きいと思われるからである。 今の匿名制のもとで実名にする事と、匿名規制後に実名にする事は違うだろう。前者は確かにデメリットだろう。そんな事は言われなくても最近の某私立大学の教員事件が示していて、誰もが分かってる事だ。 要するに、匿名規制後に実名にする事のデメリットを述べるのでなければ、実名・匿名論議においては、ほとんど意味が無い。 また実名制になると、政治的な話など正直な話が出来なくなる、言論の自由が制限される、とも言うけど、そもそもブログを使って発言することって言論の自由とそんなに大きく関係しているとは思えないのだが。 別に実名で発言することまで規制されたわけではないし、実名でネットが使い辛くなったからといって抑圧したのは
id:NOV1975氏へのブコメの続き。 「廃止ではないよね」と言われたが、3ない運動ではバイクを所有する事すら禁じられたのをご存知ではないらしい。そういう方針をとった高校、および高校生にとってはまさしく「バイク廃止」以外の何物でもない。 直近の例で言うと硫化水素自殺の問題で、ある家庭用品の販売が規制されてしまった。当然、その家庭用品を正しく使っていた大勢の人々は困っている。まさしく一部の悪者のせいである。 これでもまだ、一部が悪くても全てを規制すべきではない、となるのだろうか。 いやそれでも、もはや状況的に「一部」ではない、となるのかもしれない。 では以前出した例で言えば、オークション詐欺などはどうか。ヤフオクに参加していた者のうち詐欺を目的とした者などほんの一部に過ぎなかったと思うのだが、ヤフーは全ての人に厳格な本人確認を強制した。これも間違いなんだろうか。 訪問販売だの喫煙だの携帯電
分煙を正当化する論理は健康被害しかありえないと思っていたのだが、昨今は違うのだろうか。 新幹線の全面禁煙化に関して、新幹線内に喫煙場所を設けてしまってそこでプカプカ吸われてタバコのニオイを漂わせて戻ってきて隣に座られたら困るから全面禁煙化賛成、みたいな意見をみた。嫌煙の人と議論するのは徒労なのでリンクしないが、それってどうなんだろう。 以前の職場で近いところに公共図書館があって、決められた勤務時間があってないような職だったので空いた時間そこで良く時間を潰した。平日は空いているしウトウト昼寝してしまう事もあった。 あるとき、ニオイで眼が覚めたことがある。なんかクサイ。だけどとっさには何のニオイか分からない。そうこうしているうちに職場に戻る時間になったりした。 であるとき気付いたのである。ある特定の人が自分のそばに座ると強烈にクサイのである。私の側にはマンガに出てくるホームレスというほどボサボ
ブコメ補足。 私も、自ら一騒動起こそうとして行っておいて、騒動を起こさせない目的の人たちと平等に扱えっていう警察批判はどういう事なの、と思ったので、このエントリには賛同する。鋭い指摘である。 でその読後もこのナイーブさは何なのか色々考えていたのだが、何となく私は天安門事件のことを思い出していた。 あの時の北京の学生たちもまたナイーブであった、と言えないだろうか。いや、ナイーブではないかもしれないが、少なくとも、"目の前の敵は本当の敵ではなくむしろ味方である、あるべきだ"という考えでいた学生は結構いたのではないか、と思う。人民解放軍が人民である我々に銃を向けるはずないじゃん、みたいな。(実際に学生たちは解放軍を直ちに暴力で排除するより、説得に動いたように記憶している) ここには勿論共同体主義がある。分かりやすくいうと仲間意識。そして、長野のチベット応援者たちにもこの種の仲間意識が少なからずあ
「光市事件の死者は1.5人」 准教授の記述で青山大学長が謝罪(http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080425-00000984-san-soci) この話題について青学やこの教員を責める言説に出くわす度に、「自由」を自ら制限しようとする人の多さに驚く。わが国の場合せっかく国が保障してくれているのに、そんなものいらないというワケである。 実名だろうと匿名・固定HNだろうと所属がどこであろうと、許されない言論は許すべきではないし、許されるべき言論には寛容であるべきである。 で基本はいいはずなのだ。 件の青学の教員が書いた事を唖然とするような内容と形容される方もいるけれど、匿名であれば、その唖然とする内容は放置されていいのだろうか。 逆に言えば、匿名であれば放置していいものであれば、実名だったところで抹消されなければならない理由がない。問題は何よりも内容なの
横やりっぽいのでブコメで済ませるべきかもしれないが、もしかしたら100文字以内に無理にしてしまうと失礼かもしれないので書かせていただく。 id:inumashさんはD_Amonさんの批判の、私が以下に太字にする箇所にもう少し留意すべきだと思う。 私が批判しているのはinumash氏の記事が結果として(意図的であろうとなかろうと)論点を正誤から勝敗にすりかえる詭弁として作用するからです。 思うに、D_Amonさんはinumashさんの意図や真意を問題にしていない。だから、何度inumashさんが「ミスリードだ私はそんな事は言っていない。左派が正しいと思ってる」と自分の意図を説明しても徒労になってしまう。「正しい」といくら内心で思っていても、「誤った」と外部に作用しかねない文章を無自覚に書いてしまう場合がある、という事ではないか。(そして無自覚であれば多少は免責される場合も多々あるが、全面的に
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20080407%23p2への補足。 以前ブコメ問題みたいなものはこれが最後というふうに書いた。だからこれから書くのはあくまで一般論であると言い張りたい。 何しろブコメ問題としては、ヘンな例えを用いるから袋小路なんだよ実態をよく見ればそんなヒドいものではないよ、というkanoseさんの指摘で既に終わってたりするのだ。だから私が、ブコメ問題の例えとしてまたヘンな例えをしてしまうとkanoseさんに怒られてしまう。 あくまでこれは一般的な話なので、ブコメの問題のみに類推して考えないで欲しい。あるいは私の例えを読んで、ブクマ問題でヘンな何かに例えるのは恣意的なものになりかねない、という証左にしてくれてもいい。 「サンデードライバー」という言葉を聞いたことがあるだろうか。 私は以前ク
今回のチベット問題に関する「左派の失策」は素直に認めてもいいんじゃないかなー。 - 想像力はベッドルームと路上からを一読して違和感を覚えたので、ブクマにて否定的コメントを残したが、議論が継続しているようなので、少し書きたいことを書こうと思う。 まず私が違和感を覚えたのは次の箇所である。 だから、例の批判に対して“リソースは有限なのだから”と回答するだけでは不十分なんじゃないかと思うんだよね。単に「左派を叩きたいだけの人」を煙に巻く分にはいいけど、普通に「左派に期待している/いた人」には不誠実に見えるんじゃないかな。 "普通に「左派に期待している/いた人」"は、このようなことで「不誠実に見え」てしまうものなんだろうか。そんな人はどこにいるのだろう。 不誠実だ不誠実だ、と声をあげていたのは、普段から左派に何も期待していない人ばかりだったような気がするのだが。 「左派」という言葉があいまいなので
世代間闘争論、あるいは団塊の世代の精神的病理について - 代替案のための弁証法的空間 Dialectical Space for Alternativesを読んでの感想。 おそらく、あるブロガーの方とは全く正反対の評価になると思う。また、具体的な提言なども書くつもりもないから、総じて印象論にすぎない、と言われるのは覚悟している。 そもそも世代間論争などというものに私は余り信を置いていない。自分がその世代に属したらどう行動したであろうかなんて分かるはずもないのに、良くそんなに悪し様に言えると感心する。分かりやすくいえば、自分がもし昭和10年頃に青年であったならば反戦だったみたいな言い方をする戦争批判者がいれば、どう感じるかという事だ。 なんと身勝手で都合の良いことだ、と思うだろう。しかし、全共闘批判で似たようなことが行われていても、それほど目くじら立てられる事がない。不思議なことである。 こ
■間抜けなブコメをしてしまった件 http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080316/1205667464を読んでブコメしたのだが、記事を全く読み取れていなかったのが恥ずかしい。その事に気づいたのは、araignetさんが新たに追加されたコメントだった。 どこまでがセーフなのか明らかにされて、大衆が「あ、そういうのなら規制された方がいいよね、どうせ自分には関係ないし」って認めだしたら、もうアウトなんですよ。 なるほど。 要するに、"ドラえもんや宮崎アニメも規制されちゃうよ"と非オタの人まで範囲を広げて訴えかけた場合において、それに対して規制側に"いやそこまではしないんで安心してください"と言われたら、その時点で論拠を失ったような状態になってしまうという事だ。 そして、いったん規制が法として成立した場合は、基準(=一度は出されたはずの現実的な線)がいつもでも変化し
■なぜネガコメばかりに見えるのか 定期的に否定的なブクマコメ(ネガコメ)にムキになる人が現れたりする。そして決まって言うのが「ネガコメばかりしている人に限ってブログがつまらない、書いてない」だ。 だから何なんだろう、と思う。ネガコメばかりしている人が面白いブログを自ら書かねばならない理由など、何一つ私には思いつかない。そういう行為をしている人は尊敬されない、省みられない? 別にそれでいいではないか。尊敬されないリスクは他でもない、ネガコメばかりしている人が背負うのだから、いらぬおせっかいだろう。 そもそもコメントがネガコメばかりに見えてしまうという事じたいが、特段なんの不思議なところのない無理もない現象である。ここに底の浅い近視眼的な誤解があると、ネガコメ批判となってしまう。 当該記事に賛意を示す場合と批判を示す場合とでは、ブクマの仕方が違うだろう。賛意を示す場合はコメントそのものは無くな
インターネットの未来とやらも、ネット人口が頭打ちになってる各種調査を見るまでもなく、ネット企業の惨憺たる株価を見れば一目瞭然なわけで、そんなネットの周辺についてだけ書いていれば毒にもクスリにもならないものを、そうでないからつい毒づきたくなってくるのだ。 今日は、久しぶりに我が目を疑うという言葉がピッタリするような出来事に出会った。 ちょっと前にある書評(http://d.hatena.ne.jp/FUKAMACHI/20080221)を目にして、ああやっとこういう地に足のついたことを言ってくれる本やそれについての書評が支持を集めるようになったんだなあ、と嬉しくもなってブクマしたのだが、我が目を疑ったのはそのことではない。 その同じ本について、その本が否定的に捉えているとしか思えないことを常日頃披露なさってる方が、つまりその本に恐らくやんわりとDISられてる(と私には思える)人が、好意的とも
文学に関連することばかり書くことになるが、今日はそれでも批判するなら読んでからのほうがいい - 見ろ!Zがゴミのようだ!およびhttp://soulfire.jugem.cc/を読んで強烈に自分のためにメモしたいと思う事があるので、書く。 印象批判をすべて除去して文学(作品)を語るのは、素人にとっては非常に難しいと思う。 いや玄人だって難しいと思う。文学賞の選評がその証拠。そこでは、玄人だってときに同じ作品に正反対の印象をうけたりしている。 文学作品の評価は、それぞれの人のなかでは、つまり主観的にははっきりしているが、主観的評価が中心となりやすいため、一般的、客観的には曖昧なものとなりやすい。 たとえば、現代国語のテストなどでも記述問題では答えがいく通りもあったりして、理系人間はついていけない。 こういう客観性の曖昧なところも、印象批判を許容するのに手を貸している。 なぜ主観的な評価が中心
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