「子供を虐待する親の気持ちがわかる」
私が妊娠中に通った産婦人科の先輩ママたちの集まりで
そんな話を聞いた時 私は耳を疑った。
「子供を虐待する人の気持ちがわかる?!」
まだ子供がいなかった私にはとても衝撃的だった。
なんてショッキングなことを言ってしまえる人たちだろう・・・
でも目の前にいた先輩ママ二人くらいはその言葉に
うんうん、と深い同意を示していたのを覚えてる。
北海道で「しつけのために」山に置き去りにされてしまった
子供のニュースが流れている。彼は我が息子と同じ小学2年生。
ニュースを見ながらいろんな気持ちが駆け巡る。きっと
子供がいない人には「ありえない」としか思えないだろう。
私だって、そりゃやりすぎだと正直思う。しかも車で去るだなんて
その時の状況はなんとなく想像がつくわけで、もちろん
親は「5分たったら戻ってくるからそこでじっと反省してなさい」なんて
ことは言わずに、怒りとともに暴言を吐いてその場を去ったのではないかと思う。
日本ではもはや日常茶飯事のように虐待のニュースが流れている。
あれ、また今日も?おとといもなかったっけ?そんな感じで
もはや電車の人身事故に対するような感覚だ。そして多くのニュースが
同じことを告げている。「しつけのつもりで・・・」
さて、まともな感覚があると自負している人からすると
おそらく「そんなしつけはありえない!」となるのだろうけど
私個人としては、そんな対処方法を実際に選んでしまうか、
しかもやってすぐに後悔しないのかどうかは別として、
そういう状況に陥ってしまった親の気持ちはわかる気がする。
いうことを聞かない子供、それが自分をどれだけ腹立たしい気持ちに
させるものかはやられてみないとわからない。
誰だってちょっと子供と接しただけなら「まあかわいいのに・・・」
というだろう。でもその子供にすごいエネルギーで怒鳴られ
全身全霊で睨まれ、本気で蹴られ、めちゃくちゃ責められ続けたときに、
初めの数分は我慢できでもどこかで堪忍袋の尾が切れる。
そんな経験はないだろうか?(たぶん大抵の母親はあるのでは・・・)
そんな時の親の気持ちはもはや理性とは程遠く、
子供と同じくらいいろんな感情がうずめいている。
そして思う「このクソガキ!!」それから後に起こることは、
人それぞれだろうけれど、ろくなことが起こらないのは確実だ。
子育てにはいろんな感情がある。子供を可愛いと思う瞬間、
ふざけんなと思う瞬間、悪かったなと思う瞬間、ああまたかと
思う瞬間、幸せだなと思う時・・・いろんな感情が時間ごとに
変わっていくから、100パーセントいつでも我が子が大嫌いという人は
あまりいないのだろう。きっと我が子が手に負えなくなってしまったときに
どうしていいかもう途方に暮れて、なんでもいいから言うことを聞かせるために
強行手段に出るのだろう。
ところでそんな強行手段を先述の”100 façon de se faire obéir”の著者で
精神科医のアンヌ・バキュスがどう思っているかというと
結論としては「しつけとしては全然ダメ 効果ゼロ」という感じだろう。
彼女が言うにはもっと効果的なしつけの方法はある。そのためには
行き当たりばったりでは全然だめだということだ。
「このやろー!」と思って息子に対する怒りとやるせなさが
まんまんのとき、私はまたこの本を熟読する。この本でも
フランス式子育て一般でも力説されるのは
親の断固たる態度 一貫した態度。
だめなものは絶対だめ、一度許したら子供はその
「例外」がわからない。今ここで許されるなら、
今度だってもっとねだって泣き喚けばそれが通るという証拠になる。
一時の状況の悪さをどうにかするために飴やおもちゃを買いたあたえたら
子供は2度目、3度目もそれを手にいれるために必死により激しい行動を
繰り返す。しかも子供は生まれながらの役者だそうで、あえて
親が嫌な気分になっていうことを聞きそうな場所をしっかり選んで
その役を演じるという。スーパーマーケットの店内、駅の構内、
バスの中でみんなが彼らに注目してしまうところ・・・
彼女は本の中で何度も「モデリング」についても力説する。
小鴨が親鴨の動きを真似して生きることを学んでいくように
人間の子供も親の行動を真似して生きるのだ。
つまり、子供にとって大切なのは親の言葉よりも親の態度ということだ。
親が嘘をついていたら?子供も嘘をついていいと思うだろう。
なぜなら子供にとって親こそが世界を代表するような絶対的存在であり、
小さな子供は親もまた他の人とそう変わらない人間の一人だと
相対的に考えることなどできないからだ。その親がやっているのなら、
なぜ僕がしちゃいけないんだろう?
親が怒って子供を殴る。子供も喧嘩をしたとき友達を殴る。
親は学校から呼び出しをくらい、子供に殴るな、というかもしれない。
でも家庭で子供が殴られていたら、子供はそれが「あり」だと思う。
親が子供にキレて暴言を吐く。子供はそれを経験しながら
対処できない事態が起きたらパニックになってもいいと思う。
そうして子供は癇癪を起こす。癇癪を起こした子供に親が
ヒステリックに怒鳴っていても、なんの解決策にもなりません・・・
と、フランスで日々「子供がいうことを聞かない!」という保護者の
相談を受けている著者は冷静に解説する。
じゃあ、どうすればいいのよ?と思いたくもなるだろう。
だから、冷静になればいいんです・・・。
子供はあえて、わざと親を怒らせようとする。
それは親の気を惹きたいからだ。
子供にとって愛情というのは注意をひくことを同意語らしく、
愛されていようが怒られていようが、同じ注意をひけたという点で
子供は(わりと)嬉しいらしい。だから
親の注意が足りない、もっとかまって、と思っている子供は
怒らせてでも親の注意をひこうとする。ここがポイントで、
この本の始めにもとうとうと書かれているけど、
子供に言うことを聞かせたかったらまず親がちゃんと
子供に向き合い、一緒に楽しい時間を共有して絆を作ることが大切らしい。
これは(というか全て)耳の痛い話だけれど、確かに
親として他の保護者とも接する中で、突出して問題が
ありそうな子供の親は、親子で集まりがあった時も
その子がすぐ近くで問題行動を起こしていても全く気付かず話に夢中で、
ようやく他の子や他の親にその子が注意されたときに(5分後とか)
「ちょっと、アンタ!何やってたの!!」と登場することが
けっこう多いように思う。
さて、大変な事態が起きた時、怒鳴る、叩く、暴言を吐く、
ヒステリックになる、くどくど言いつづける・・・(どれも効果ゼロらしい)
そんな対処法以外に何があるかというと、
フランス式の場合はまず断固たる口調で「いけません!」といい、
どうしてもきかない場合は子供と別の空間にいく、または
子供を子供部屋など、別の空間に話して数分間「関わらない」
ということだった。子供はいつも親の出方を気にしている。
かまってくれたら僕の勝ち。たとえそれが怒られてたって。
親が感情的になったらもっと勝ち。僕と大して変わんないじゃん。
何か親がしゃべってる?ちょっと耳をふさいでおこう。そんな風に
思ってその場をしのいでいるらしい。だからそんな時に
説明しても怒鳴ってもくどくどいっても効果はないので、
「子供のゲームに関わらない」つまり、自分からゲームを降りる。
そして自分も子供も、別々の空間で気持ちが落ち着くのを待ち、落ち着いたら
その悪いことについては1回くらいきちんと説明してもいいけれど、
また何事もなかったかのように普通に接するのがよいそうだ。
さて、これは先述のモデリングでいえば、大変な事態があったときに
親は落ち着いて行動をとり、動じなかったことになる。
親は怒りを引きずるのでもなく、子供の存在事態を否定するのでもなく
あなたのその行動をピンポイントでよくないことだと示している。
なのでその問題行動が終わったら、子供として普通に接してあげる。
よいことはよい、悪いことは悪い、それを態度でしっかり示す。
悪いことをやって大人が構い過ぎたら、気をひくために子供は
もっとひどいことをしでかすだろう。そんな風になるよりは、
子供がしくれた日常のよい行いにもっと目を向けてあげたら
どうでしょう?子供はいつも親を喜ばせようとして何かしているものなんです・・・
なるほど・・・
なかなか全てうまくいくわけではないし、怒りがゼロになる日が
来るのも遠いかもしれない。それでもこの本は伝えてくれる。
実際には(認めたくないけれど)お子さんのそんな態度を
つくっているのはあなた方両親なんです、と。だから
子供により厳しく接するよりも、あなた方の接し方を見直してみたら
どうでしょう?子供は驚くほど親の行動や態度を熟視していて、
そこには言葉の弁明は通用しない。「本当はダメだけどちょっとだけ・・・」
昨日と言ってることが違う。親がしっかりしてないと、子供は
その隙を思いきり激しくついてくる。親になるのは大変だ。
自分の人生だってうまくいってなんかないのに、そう思うなら尚更だ。
人の目、ではなく親自身が自分の軸をもってそこから
ぶれずに歩んでいくこと。その大切さを伝えていくこと。
ある時はよいけど、今日はだめ、ではなくて、貫いた生き方を
子供に背中で伝えていくこと。それが本来のしつけでもあり、
子供に効果的にいうことを聞かせる方法なのかもしれない。
私が妊娠中に通った産婦人科の先輩ママたちの集まりで
そんな話を聞いた時 私は耳を疑った。
「子供を虐待する人の気持ちがわかる?!」
まだ子供がいなかった私にはとても衝撃的だった。
なんてショッキングなことを言ってしまえる人たちだろう・・・
でも目の前にいた先輩ママ二人くらいはその言葉に
うんうん、と深い同意を示していたのを覚えてる。
北海道で「しつけのために」山に置き去りにされてしまった
子供のニュースが流れている。彼は我が息子と同じ小学2年生。
ニュースを見ながらいろんな気持ちが駆け巡る。きっと
子供がいない人には「ありえない」としか思えないだろう。
私だって、そりゃやりすぎだと正直思う。しかも車で去るだなんて
その時の状況はなんとなく想像がつくわけで、もちろん
親は「5分たったら戻ってくるからそこでじっと反省してなさい」なんて
ことは言わずに、怒りとともに暴言を吐いてその場を去ったのではないかと思う。
日本ではもはや日常茶飯事のように虐待のニュースが流れている。
あれ、また今日も?おとといもなかったっけ?そんな感じで
もはや電車の人身事故に対するような感覚だ。そして多くのニュースが
同じことを告げている。「しつけのつもりで・・・」
さて、まともな感覚があると自負している人からすると
おそらく「そんなしつけはありえない!」となるのだろうけど
私個人としては、そんな対処方法を実際に選んでしまうか、
しかもやってすぐに後悔しないのかどうかは別として、
そういう状況に陥ってしまった親の気持ちはわかる気がする。
いうことを聞かない子供、それが自分をどれだけ腹立たしい気持ちに
させるものかはやられてみないとわからない。
誰だってちょっと子供と接しただけなら「まあかわいいのに・・・」
というだろう。でもその子供にすごいエネルギーで怒鳴られ
全身全霊で睨まれ、本気で蹴られ、めちゃくちゃ責められ続けたときに、
初めの数分は我慢できでもどこかで堪忍袋の尾が切れる。
そんな経験はないだろうか?(たぶん大抵の母親はあるのでは・・・)
そんな時の親の気持ちはもはや理性とは程遠く、
子供と同じくらいいろんな感情がうずめいている。
そして思う「このクソガキ!!」それから後に起こることは、
人それぞれだろうけれど、ろくなことが起こらないのは確実だ。
子育てにはいろんな感情がある。子供を可愛いと思う瞬間、
ふざけんなと思う瞬間、悪かったなと思う瞬間、ああまたかと
思う瞬間、幸せだなと思う時・・・いろんな感情が時間ごとに
変わっていくから、100パーセントいつでも我が子が大嫌いという人は
あまりいないのだろう。きっと我が子が手に負えなくなってしまったときに
どうしていいかもう途方に暮れて、なんでもいいから言うことを聞かせるために
強行手段に出るのだろう。
ところでそんな強行手段を先述の”100 façon de se faire obéir”の著者で
精神科医のアンヌ・バキュスがどう思っているかというと
結論としては「しつけとしては全然ダメ 効果ゼロ」という感じだろう。
彼女が言うにはもっと効果的なしつけの方法はある。そのためには
行き当たりばったりでは全然だめだということだ。
「このやろー!」と思って息子に対する怒りとやるせなさが
まんまんのとき、私はまたこの本を熟読する。この本でも
フランス式子育て一般でも力説されるのは
親の断固たる態度 一貫した態度。
だめなものは絶対だめ、一度許したら子供はその
「例外」がわからない。今ここで許されるなら、
今度だってもっとねだって泣き喚けばそれが通るという証拠になる。
一時の状況の悪さをどうにかするために飴やおもちゃを買いたあたえたら
子供は2度目、3度目もそれを手にいれるために必死により激しい行動を
繰り返す。しかも子供は生まれながらの役者だそうで、あえて
親が嫌な気分になっていうことを聞きそうな場所をしっかり選んで
その役を演じるという。スーパーマーケットの店内、駅の構内、
バスの中でみんなが彼らに注目してしまうところ・・・
彼女は本の中で何度も「モデリング」についても力説する。
小鴨が親鴨の動きを真似して生きることを学んでいくように
人間の子供も親の行動を真似して生きるのだ。
つまり、子供にとって大切なのは親の言葉よりも親の態度ということだ。
親が嘘をついていたら?子供も嘘をついていいと思うだろう。
なぜなら子供にとって親こそが世界を代表するような絶対的存在であり、
小さな子供は親もまた他の人とそう変わらない人間の一人だと
相対的に考えることなどできないからだ。その親がやっているのなら、
なぜ僕がしちゃいけないんだろう?
親が怒って子供を殴る。子供も喧嘩をしたとき友達を殴る。
親は学校から呼び出しをくらい、子供に殴るな、というかもしれない。
でも家庭で子供が殴られていたら、子供はそれが「あり」だと思う。
親が子供にキレて暴言を吐く。子供はそれを経験しながら
対処できない事態が起きたらパニックになってもいいと思う。
そうして子供は癇癪を起こす。癇癪を起こした子供に親が
ヒステリックに怒鳴っていても、なんの解決策にもなりません・・・
と、フランスで日々「子供がいうことを聞かない!」という保護者の
相談を受けている著者は冷静に解説する。
じゃあ、どうすればいいのよ?と思いたくもなるだろう。
だから、冷静になればいいんです・・・。
子供はあえて、わざと親を怒らせようとする。
それは親の気を惹きたいからだ。
子供にとって愛情というのは注意をひくことを同意語らしく、
愛されていようが怒られていようが、同じ注意をひけたという点で
子供は(わりと)嬉しいらしい。だから
親の注意が足りない、もっとかまって、と思っている子供は
怒らせてでも親の注意をひこうとする。ここがポイントで、
この本の始めにもとうとうと書かれているけど、
子供に言うことを聞かせたかったらまず親がちゃんと
子供に向き合い、一緒に楽しい時間を共有して絆を作ることが大切らしい。
これは(というか全て)耳の痛い話だけれど、確かに
親として他の保護者とも接する中で、突出して問題が
ありそうな子供の親は、親子で集まりがあった時も
その子がすぐ近くで問題行動を起こしていても全く気付かず話に夢中で、
ようやく他の子や他の親にその子が注意されたときに(5分後とか)
「ちょっと、アンタ!何やってたの!!」と登場することが
けっこう多いように思う。
さて、大変な事態が起きた時、怒鳴る、叩く、暴言を吐く、
ヒステリックになる、くどくど言いつづける・・・(どれも効果ゼロらしい)
そんな対処法以外に何があるかというと、
フランス式の場合はまず断固たる口調で「いけません!」といい、
どうしてもきかない場合は子供と別の空間にいく、または
子供を子供部屋など、別の空間に話して数分間「関わらない」
ということだった。子供はいつも親の出方を気にしている。
かまってくれたら僕の勝ち。たとえそれが怒られてたって。
親が感情的になったらもっと勝ち。僕と大して変わんないじゃん。
何か親がしゃべってる?ちょっと耳をふさいでおこう。そんな風に
思ってその場をしのいでいるらしい。だからそんな時に
説明しても怒鳴ってもくどくどいっても効果はないので、
「子供のゲームに関わらない」つまり、自分からゲームを降りる。
そして自分も子供も、別々の空間で気持ちが落ち着くのを待ち、落ち着いたら
その悪いことについては1回くらいきちんと説明してもいいけれど、
また何事もなかったかのように普通に接するのがよいそうだ。
さて、これは先述のモデリングでいえば、大変な事態があったときに
親は落ち着いて行動をとり、動じなかったことになる。
親は怒りを引きずるのでもなく、子供の存在事態を否定するのでもなく
あなたのその行動をピンポイントでよくないことだと示している。
なのでその問題行動が終わったら、子供として普通に接してあげる。
よいことはよい、悪いことは悪い、それを態度でしっかり示す。
悪いことをやって大人が構い過ぎたら、気をひくために子供は
もっとひどいことをしでかすだろう。そんな風になるよりは、
子供がしくれた日常のよい行いにもっと目を向けてあげたら
どうでしょう?子供はいつも親を喜ばせようとして何かしているものなんです・・・
なるほど・・・
なかなか全てうまくいくわけではないし、怒りがゼロになる日が
来るのも遠いかもしれない。それでもこの本は伝えてくれる。
実際には(認めたくないけれど)お子さんのそんな態度を
つくっているのはあなた方両親なんです、と。だから
子供により厳しく接するよりも、あなた方の接し方を見直してみたら
どうでしょう?子供は驚くほど親の行動や態度を熟視していて、
そこには言葉の弁明は通用しない。「本当はダメだけどちょっとだけ・・・」
昨日と言ってることが違う。親がしっかりしてないと、子供は
その隙を思いきり激しくついてくる。親になるのは大変だ。
自分の人生だってうまくいってなんかないのに、そう思うなら尚更だ。
人の目、ではなく親自身が自分の軸をもってそこから
ぶれずに歩んでいくこと。その大切さを伝えていくこと。
ある時はよいけど、今日はだめ、ではなくて、貫いた生き方を
子供に背中で伝えていくこと。それが本来のしつけでもあり、
子供に効果的にいうことを聞かせる方法なのかもしれない。