インタビューの関連で久しぶりにテレビ版「二百三高地 愛は死にますか」(81)の方を再見した。
『二百三高地』(80)(1980.9.7.蒲田トーエイ)
『思えば遠くへ来たもんだ』と『男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花』(蒲田ロキシー)からはしごをして、久しぶりに1日に3本も映画を見た。しかもこの映画は3時間余り。きっと途中で飽きるだろうと高をくくっていたのだが、思わず引き込まれてしまった。
見る前は、なぜ今時日露戦争下の肉弾戦を映画化したのかという疑問があり、それは最後まで引っかかったのだが、この映画は平板の戦争映画とは一味違っていた。
それは、戦争を国家的な人物(明治天皇(三船敏郎)、伊藤博文(森繫久彌)、乃木希典(仲代達矢)、児玉源太郎(丹波哲郎)…)とわれわれ庶民の両極から描いている点だ。普通の戦争映画は、戦争をゲームのように前者の側から描いたものが多い。この映画も前者を描いた場面は確かに重厚だが、例えば、ラストの乃木の落涙シーンなどはさしたる感動もなく古めかしささえ感じる。
ところが、対する後者(庶民)が実によく描かれている。小賀(あおい輝彦力演!)というインテリの小学校教師が主人公なのだが、この平和主義者が戦場で変わっていくさま、あるいは内地に残したに子どもに一目会いたいと一度は脱走を試みるが、やがては友たちと一緒に帰りたいと言いながら死んでいく染物職人の米川(長谷川明男が泣かせる)、バイタリティあふれる豆腐屋の九市(新沼謙治)、気のいいやくざの牛若(佐藤允)、幇間の梅谷(湯原昌幸)など、さまざまな人物が丁寧に描かれている。故に彼らが死んでいく戦場の地獄図には怒りを禁じ得ない。
それは戦争を国家的な人物たちのゲームとしてではなく、その駒になって死んでいく者たちに重きを置いて描いているからだろう。彼らの姿はあまりにも悲惨であり、残酷であり、理不尽である。戦争はゲームではないのだ。その点が絞り出されているこの映画は見事だと言っていい。監督の舛田利雄、脚本の笠原和夫に拍手を送りたいと思う。さだまさしの「防人の詩」も映画の内容とマッチしていた。
「戦場には体面も規約もありません。あるのは生きるか死ぬか、それだけです。死んでいく兵たちには国家も軍司令官も命令も軍紀もそんなもんは一切無縁です。焦熱地獄の底で鬼となって焼かれてゆく苦痛があるだけです。その苦痛を乃木式の軍人精神で救えますか」小賀が上官に向かって叫ぶこのセリフが、この映画の核だと言ってもいい。
そして牛若が乃木に向かって言うこの一言も。「わしら消耗品ですけに」
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