IBM史上最大の買収

 340億ドル(約3兆7000億円)という評価額の中には彼らが関わる「コミュニティ」の価値も当然、含まれている。

 2018年10月28日、米IBMはリナックス関連製品を開発する米ソフトウェア会社、レッドハットの買収を発表した。テック企業による同業の買収はよくある話だが、340億ドルという買収金額はIBMのM&A(合併・買収)では過去最高額。レッドハットにそれだけの価値があるということだが、その金額は驚きを持って受け止められた。

 IBMが巨費を投じてレッドハットを買収しようとする目的はハイブリッドクラウドの強化にある。

IBMのロメッティ会長兼社長兼CEO(右)とレッドハットのホワイトハースト社長兼CEO(写真は米IBMの発表資料)
IBMのロメッティ会長兼社長兼CEO(右)とレッドハットのホワイトハースト社長兼CEO(写真は米IBMの発表資料)

 クラウド活用が一般化する中で、アマゾン・ウェブ・サービス(AWS)のようなパブリッククラウドと、従来の社内ITシステム(オンプレミス)や自社運用のクラウドを組み合わせて使いたいというニーズは根強い。レッドハットはこうしたハイブリッドクラウドを可能にする製品で高い競争力を持つ。クラウド事業でAWSやグーグル、マイクロソフトに水をあけられているIBMにすれば、レッドハット買収は乾坤一擲の手だろう。

 「IBMとレッドハットはともにハイブリッドクラウドのプラットフォームやソリューションを構築するという構想を持っている。IBMは明らかにレッドハットより大きく、顧客に対するリーチも比べものにならない。IBMと協力することで、ハイブリッドクラウドをより幅広く浸透させることができる」。レッドハットのクリス・ライトCTO(最高技術責任者)はM&Aのメリットをこう語る。

 ただ、レッドハットにはハイブリッドクラウドにとどまらない価値がある。オープンソース・ソフトウェアのコミュニティをビジネスモデルに組み込んでいる点だ。コミュニティとは、オープンソース・ソフトウェアの開発やアップデート、情報交換などを目的に、世界中のメンバーがネットを介して集まるバーチャルな場だ。

 日経ビジネスは1月7日号で「会社とは何か」という特集を組んだ。これまで、大企業に所属する利点はその規模や信用力、コストにあると考えられてきた。だが、テクノロジーの進化と様々なツールの登場によって起業のハードルは下がり、個人でも多くのことが実現できるようになった。会社を取り巻く環境が大きく変わる中で、会社の役割そのものも変わりつつある。

 特集では様々な角度から変化を論じているが、その中の一つに加速する「オープン化」というトレンドがある。今の時代、自身の知識や経験を共有することを厭わない人々がどんどん増えている。その中で従来型の会社もよりオープンになり、外部の知恵を積極的に活用していく必要がある。その動きを先取りしたのが、オープンソース・ソフトウェア業界であり、レッドハットである。

 この世界では多くのソフトウェア・エンジニアがバグの修正やコードのアップデート、勉強会の開催などで日々、コミュニティに貢献している。およそ30年前にリナックスが登場して以降、しばらくの間は面白さや使命感を感じた一部のエンジニアが個人的に参加していた。だが、この10年を振り返ると、多くの企業がコミュニティに参画している。

コミュニティ活用の巧みさがレッドハットの強み

 レッドハットは、このオープンソース・コミュニティと共存することで急成長してきた。

 同社の製品はすべて、ソースコードが公開されているオープンソース・ソフトウェアを使ったもの。ただ、オープンソース・ソフトウェアはバグの修正や機能改善がしばしばあり、精通した人材がいないと使いこなせない。その中でレッドハットは年間のサブスクリプション(定額制)で更新対応などをサポートするというビジネスモデルを作りあげた。

 2018年第3四半期(2018年9月~11月期)の売上高は8億4700万ドルと前年同期比13%増、営業利益は前年同期比で8%下がったが、1億900万ドルを確保した。企業向けリナックス製品に舵を切った2002年以降、67四半期連続の増収を続けている。

 先述したように、レッドハットの製品はコミュニティで開発されたものだ。オープンソース・ソフトウェアの開発は通常、エンジニアや企業がプロジェクトをGitHubなどに立ち上げ、賛同した人々がコード作成などを分担する。完成したソースコードは公開され、自由に使用される。フィンランド出身のリーナス・トーバルズ氏が開発し、無数のエンジニアが参加したリナックスは最たる例だ。

 レッドハットは、このコミュニティの活用が抜群にうまい。

 例えば、レッドハットとして対応が必要な技術があった場合、自社で10人のエンジニアを出して開発するのではなく、同じようなサービスを必要としている企業に声をかけてコミュニティを作る。開発のために割り当てる人材が少なくて済むようにするためだ。「レッドハットの開発は『顧客を探せ』というところから始まる」とレッドハットのジム・ホワイトハーストCEO(最高経営責任者)は語る。

 コミュニティはレッドハットが主導的に立ち上げる場合もあるが、他社が進めるコミュニティに自社のエンジニアを参加させることも多い。誰でも使える無料の原材料に対して外部のリソースを活用して製品に仕立て上げている企業は世界広しといえどもほとんどない。IBMはその力を評価しているからこそ、340億ドルという破格の価値を付けたのだ。

 レッドハットがコミュニティにどう関わっているのか、Kubernetes(クーバネテス)を通して一端を覗いてみよう。

 スマホアプリを見ても分かるように、企業がサービスをリリースするサイクルはどんどん短くなっている。こういった開発とローンチの高回転に対応するため、従来のサーバー型の仮想化ではなく、よりシンプルで軽量な「コンテナ」という仮想化技術を選択する企業は増えつつある。その一方で、運用するコンテナの数が増加し、管理が複雑になるという問題も浮上している。

グーグル発の技術も磨き上げる

 こうした課題を解決するために登場したのが、コンテナを管理・運用するソフトウェア、クーバネテスだ。この技術によって、アプリをすぐに利用できるようにしたり、状況に応じて能力を増やしたり、といったことが可能になる。もともとは米グーグルが開発したテクノロジーだが、オープンソース化した2014年以降、ビジネス用チャットのスラックにおける登録者が4万人を超える巨大コミュニティに成長した。

 レッドハットはオープン化された当初からクーバネテスの開発に関わり、発展に寄与している。2015年には、クーバネテスを活用した企業向けコンテナサービス、Red Hat OpenShiftを上市した。クーバネテスに対する貢献度ではグーグルに比肩する存在だ。

 「オープンソース・ソフトウェアになってからの3年間でコードの90%が書き換わった。新しい機能の追加や安定性の改善、拡張性など相当量の活動があったことを意味している。コミュニティのおかげでクーバネテスが改善されたことに疑問の余地はない」(ライトCTO)。

 オープンソース化される前にグーグルから相談を受けたレッドハットはクーバネテスの将来性を高く評価、一線級のエンジニアを投入した。現在はOpenShiftの共同テクニカルリーダーを務めるエリック・パリス氏は、エンジニアとしてクーバネテスの基本部分のすべてに関与した。

 「グーグルのエンジニアにクーバネテスの概要について聞いた時は人生最良の日だった。自分では考えたこともないようなアイデアに関わるのはスリル以外の何物でもない」

 コミュニティにおけるパリス氏の役割はコードを書くだけでなく、コミュニティと顧客の正しいバランスを見つけることだった。

Red Hat OpenShiftの共同テクニカルリーダーを務めるエリック・パリス氏(写真:David Kennedy)
Red Hat OpenShiftの共同テクニカルリーダーを務めるエリック・パリス氏(写真:David Kennedy)

 コミュニティは多くの場合、その技術の健全で長期的な発展を優先させる。一方で、ユーザーである顧客は今すぐに解決したい課題、短期的なビジネスニーズを重視する傾向にある。ユーザーの要望をすべてコミュニティに反映させることは不可能だが、コミュニティだけで開発を進めればユーザー基盤は広がらない。パリス氏は中核メンバーとして、クーバネテスの長期的な発展を追求しつつ、顧客のニーズを取り込むという難しい舵取りを担った。

 「こんなことを言っていいか分からないが、グーグルは自社のソフトウェアとクラウドサービスを第一に考えている。その中で、オンプレミスでシステムを運用する企業のニーズをクーバネテスに持ち込んだのはレッドハットと我々の顧客だ。ストレージに関してグーグルの関心はそれほど高くなかったが、レッドハットがストレージモデルを開発したことで、結果的に他のソフトウェア会社がコミュニティに参加するようになった」

 パリス氏はそう振り返る。コミュニティの一員としてコードに貢献する一方で、レッドハットは顧客基盤が広がるように、開発の方向性に一定の影響力を行使している様子が見て取れる。

 こういったやりとりは骨の折れる作業だが、クーバネテスのような複雑なシステムを単独で作れる企業は存在しない。自社のリソースでは作れないソフトウェアをみんなで作り、その中で影響力を発揮する。それがレッドハットの最も得意としているところだ。

エンジニアは会社ではなくコミュニティを最優先

 もちろん、オープンソース・コミュニティ特有の難しさはある。

 「コメントやコードの貢献以外で相手を認識できない。見知らぬ人と共感することを強いられる」。クーバネテスのトップ貢献者として知られるクレイトン・コールマン氏が語るように、顔も知らない人間同士がテキストベースでコミュニケーションを取るのは難しい。関与する人数が増えれば増えるほど合意形成にも時間がかかる。

 また、ソフトウェア・エンジニアの世界はコードがすべての実力主義。率直な評価が飛び交うため、心が折れる人間も少なくない。

 「コミュニティで最も重要なのは自分の評判。優れたアイデアを提案し、それが機能することを証明できれば大きな評価を受ける。逆にアイデアが凡庸であれば、コードに変更を加える力を失う」。そうパリス氏は打ち明ける。我田引水と見られれば評判が失墜するため、レッドハットはエンジニアに対して、会社ではなくコミュニティを最優先で考えることを認めている。

クレイトン・コールマン氏はクーバネテス開発に多大な貢献をした人物としてコミュニティで知られる(写真:David Kennedy)
クレイトン・コールマン氏はクーバネテス開発に多大な貢献をした人物としてコミュニティで知られる(写真:David Kennedy)

 このようにコミュニティは厳しい世界だが、参加するエンジニアにとっては大きな利点がある。

 「最近はGitHubが履歴書」。そうライトCTOが語るように、オープンソース・ソフトウェアの世界ではコードでの貢献が可視化されるため、自分の能力が業界中に知れ渡る。また、プロジェクトの価値がすぐに評価されるという面もある。

 「コミュニティがいいのは、自分が解決しようと思っている問題が本当に重要なのかが明白になるところだ。オープンソースにして肯定的なフィードバックがたくさん来れば、それは社会的に重要なプロジェクトということだ」

 パリス氏やコールマン氏と同様に、クーバネテスの中核コードやコンセプト作りに関わったデリク・カー氏は指摘する。自分の提案が優れていれば世界中の才能が手を貸してくれるが、魅力がなければスルーされて終わり。その明瞭さが魅力だという。

 さらに、技術の最先端に触れられることも大きい。クーバネテスのようなソフトウェアはビジネスのあり方を根本的に変えている。その変化に直接関われるという喜びがエンジニアを惹きつけているのだ。「クーバネテスには多くのエンジニアが関わっている。彼らは履歴書のためだけではなく、根本的な技術の変化に関与できるために参加している」(パリス氏)。

クーバネテスの中核コードやコンセプト作りに関わったデリク・カー氏(写真:David Kennedy)
クーバネテスの中核コードやコンセプト作りに関わったデリク・カー氏(写真:David Kennedy)

「意見がないのはダメな意見よりも最悪」

 なぜレッドハットがコミュニティとの対話に長けた企業になったのか。それは、同社がそもそもコミュニティの中から生まれた会社だったからだ。

 レッドハットはリナックスのコミュニティで貢献していたエンジニアが1993年に立ち上げた。その後、消費者向けリナックス製品で成長し、一時はOSを支配するマイクロソフトに対する挑戦者と位置づけられたこともあった。

 だが、1999年の上場後、100ドルを超えた株価はITバブルの崩壊で数ドルに急落、冬の時代に突入する。この苦境の中で、当時の経営陣は企業向け製品に特化することを決断、リナックスを使いこなせない利用者にサブスクリプションでサポートを提供するというモデルに転換した。

 それゆえに、レッドハットの社風もオープンソース・コミュニティのカルチャーそのものだ。

 オープンソース・コミュニティで何かを成し遂げるためには自身のアイデアが優れているということを他のメンバーに納得させる必要がある。それゆえに、アイデアを表明し、なぜ優れているのか、アイデアに対する批判がなぜ間違っているのか、ということを説得しなければならない。裏を返せば、アイデアを出さない人間は存在しないも同然だ。「意見がないのはダメな意見よりも最悪」と上級副社長兼製品・テクノロジー部門社長のポール・コーミア氏は語る。

 また、コミュニティでは顔の見えない人間同士がやりとりするため、情報はすべて開示し、議論を尽くさなければ参加者は納得しない。中核メンバーが独断で進めれば、プロジェクト自体が空中分解するだろう。

 それはレッドハットも同じだ。経営陣の決定事項に疑問があれば、全社共通のメーリングリストで普通に異議を申し立てる。指示に意味がないと現場に判断されればCEOの支持も無視される。デルタ航空の副社長からレッドハットに転じたホワイトハーストCEOも洗礼を受けた。

 CEOに就任してすぐ、部下にあるリサーチを命じた。数日後、進捗を聞くと、その部下は「あまりいいアイデアだと思わなかったのでやめておきました」とひと言。また、ある企業の買収を決めた時も、なぜその企業を買収するのか、なぜもっと早く説明しないのかと突き上げを受けた。

 そのカルチャーは日本法人も同じだ。2015年に入社した本多正幸・人事部長の最初の仕事はほかの地域と比べて低いとされた社員のエンゲージメントスコアの改善だった。アジア太平洋地域の上司に言われた通りに改善プロジェクトを実施しようと、全社向けのメーリングリストにその旨を書いたところ、社内から怒りのメールが次々に来た。

 「誰がそんなことを言っているのか」

 「そんなくだらない話を誰が聞くのか」

 「そもそもわれわれがレッドハットを愛していないなんてなぜ分かるのか」

 その後、エンジニアが本多氏を相手にミーティングを開催した。

 「おれたちがどれだけレッドハットのオープンソース・ソフトウェアを愛しているのか見せてやる、と。実際の会議に80人、ビデオ会議に100人以上が集まってひたすらプレゼンが続く。私だけがお白州に立っているような気分だった(笑)。カルチャーショックだったが、同時に面白いと思った」。本多氏はそう振り返る。

 もちろん、経営の重要事項を決断するのは経営陣だ。社員が反対しようが決める時は決める。だが、経営陣は可能な限り社員と情報を共有、意思決定プロセスの透明性を図ろうと常に努力している。

 「なぜその意思決定に辿り着いたのかをみんな知りたがる。なぜそういう決断をしたのか、その意思決定の要素は何だったのか。その理由を言えれば、意見が違ったとしても最後はみんな従う。それがオープンソースのカルチャーだ」。そうコーミア氏は語る。

採用時にはコミュニティへの貢献を重視

 このカルチャーが優秀な人材を引き寄せる。

 「ひよこ大佐」というハンドルネームを名乗るテクニカルサポートエンジニアの八木澤健人氏。2017年11年にツイッター上で転職希望をツイートしたところ、20社以上からオファーが来たことで知られる。その後、2018年3月にレッドハットへの転職を決めた。

 引く手あまただった彼がレッドハットを選んだ理由は、同社が扱う商品がオープンソース・ソフトウェアで中身を詳しく勉強できる点もさることながら、レッドハット自体の魅力もあった。

 「オープンソース・ソフトウェアでビジネスを展開し、そこで得られたものをコミュニティに還元していくのはやっているエンジニアにとってやりがいがある。コミュニティに積極的に関われるところが魅力だった」

八木澤健人氏がツイッター上で出した転職希望
八木澤健人氏がツイッター上で出した転職希望

 クーバネテスのトップ貢献者だったクレイトン氏もIBMからの転職組。オープンソース・ソフトウェアのプロジェクトに関わってみたいと思ったからだ。

 レッドハット側も自社のカルチャーに合うように採用にはこだわる。希望者にはコミュニティへの貢献の有無を必ず聞く。コードへの直接の貢献がなくても、勉強会やスライドのシェア、翻訳など、どんな形であれコミュニティへの貢献を見る。それが独特のカルチャーの維持につながっている。

 「レッドハットに入社を希望する人たちだから当然という面はあるにせよ、最近は採用を見ていても、履歴書にほとんどオープンソースでの活動について書いてある。若い世代は完全にオープンソースネイティブ」。レッドハット日本法人のカスタマーエクスペリエンス&エンゲージメント本部長の安間太郎氏は語る。

 20年前、レッドハットのような会社は変わった会社として奇異の目で見られていた。だが、今ではオープンソースという理由で優秀な人材が集まる。実績が残る、優秀な人材と仕事ができる、技術の変化に関わることができる、など人によって理由は様々だろうが、オープンということ自体に魅力を感じているのだ。

 IBMによる買収でカルチャーの変化に不安を感じる声もあるだろうが、このカルチャーがなくなればレッドハットの価値は半減する。それを理解していれば、優れた鶏を殺すような愚をIBMは犯さないだろう。レッドハットがコミュニティに向き合って四半世紀。ようやく時代が追いついてきた。

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