謀反とは、臣下が主君に背くことである。
概要
「上様。軍勢がここを取り囲んでおりまする」
「軍勢!? 何処の軍勢じゃ」
「十兵衛か……」
(中略)この間に小姓が庇って倒れたり、信長の右肩に矢が刺さったりする
「上様……」
謀反とは、このように何がしかの不満や怨恨をもった臣下が、主君に対して反旗を翻す事又はその企て全体を指す。時代劇では割りと耳にする単語のわりにあまり漢字が知れ渡っていなかったりするが、漢検2級とかではさらっとでてきたりする。
追放などでも同じようなことを意味するが、兵を用いて脅しかけたり、兵乱を起こす場合に用いられるニュアンスを意味する。
謀反に至る理由を通説のままで列挙してみると
- 平家によって不遇をかこっていた以仁王が平家追討の令旨を出したから→源平合戦(治承・寿永の乱)
- 後醍醐天皇の新政が公家とお気に入り贔屓だからやっぱ潰すわ→建武の乱
- 周りの守護大名が潰されて次はうちだから殺られる前にやったる→嘉吉の変
- 父親の圧政に我慢ならなかったから→武田晴信(信玄)による実父(武田信虎)の追放
- 主君の文弱ぶりに嫌気が差したから→陶隆房による大内義隆への謀反(大寧寺の変)
このように多種多様の例があるが、やはり何がしかの危機感や不満の鬱積が爆発した形で行われることが多いようである。
古今東西、謀反は最大級の罪であり、仮に成功したとしても、周囲からの支持を得るのは容易なことではない。建武の乱で後醍醐天皇を倒した足利尊氏は、その後死ぬまで南北朝時代の動乱に苦慮した上、南朝寄りだった明治政府からは逆賊の汚名を着せられて長く低い評価だったし、嘉吉の変でうまいこと将軍足利義教を暗殺した赤松氏はその後、山名氏を筆頭とした討伐戦(嘉吉の乱)でボコボコにされ、滅亡の憂き目を見ている。大寧寺の変で大内義隆を討った陶隆房が、わずか4年後に厳島の戦いで毛利元就を前に敗死した事も、よく知られていることである。
まだこれらは謀反そのものには成功しているから良いものの、失敗した場合は更に悲惨で、織田信長への謀反に失敗した松永久秀や荒木村重の一族郎党は全て磔の上死罪となっているし、豊臣秀吉の甥にあたる秀次は謀反を企てた(最近では捏造されたというのが主流)とされ、子どもはもちろんのこと、側室や侍女に至るまでおびただしい数が死罪となった。失敗しても成功しても謀反は最大限のリスクを伴うものということができるだろう。
律令制度と”謀叛”
今から1300年ほど前の中国の王朝・唐では律令が定められており、そのうち刑法典にあたる律では、特に酷い悪として十悪をあげている。それは近親者との姦通(内亂)であったり、上司を殺めること(不義)だったり、皇帝の所有物を盗み出すこと(大不敬)だったりと様々なものがあげられている。
そしてその中の第一位と第三位にはそれぞれ、謀反と謀叛がそれぞれ分けて記載されている。謀反は皇帝を標的にした暗殺と朝廷そのものの転覆。謀叛は計画的な寝返りと利敵行為という風に意味合いが異なっている。謀叛は謀反の書き換えなどではなく、スパイ行為という異なる意味をもっていたことを留意する必要があるだろう。
757年に唐からの影響を受けて成立した養老律でも、八虐という類似の概念が導入された。我が国の場合は謀反(むへん)は天皇の殺害(未遂・予備も該当)、謀叛は国家への反乱・外患誘致・亡命が該当する。しかし、現代では謀叛と謀反が同じ用法で使われているように、この2つの運用ははっきりいってガバガバであり、朝廷は、廷臣殺害による政権の簒奪や、隼人や蝦夷の反乱を謀反扱いにしてしまっている。こんな有様なので、平安時代後期には謀反と謀叛の区別はされず、同義語となったのである。
我が国はそもそも隔絶された島国なので、敵国を引き込むという形の謀叛がまず発生し得なかったことが理由としてあげられるだろう。
当然ながら、唐でも我が国でも謀反・謀叛いずれにしても首謀者は死罪であり、近親者まで連座するのが規定となっていた。しかし、その範囲については情実や犯情によって大きく左右され、賄賂が横行することもあったというのでやっぱりガバガバである。首謀者のみを死罪にして従犯は罪を減ずるというのも慣習で行われており、これは江戸時代の一揆に対する処罰にも受け継がれていった。