最近の自分はどうだろう?ブログを書いては、朝風呂に入り、テレビをつけて編み物をしたり、好きなだけ好きなときにピアノを弾いて、美味しいケーキを食べたり。人生、これでもう満足しているのだろうかと言ったら、・・・している気がする。
外を歩けば、二本の足で自力で歩ける素晴らしさを知って、どこを歩くのも「動ける」だけで楽しい。これを忘れてしまうときがいつか来るのだろうなと思う。まだ足に貼られたテープが手術をしたという痕跡を辛うじて教えてくれているが、筋肉の動きではもう意識すらない。動けるということは意識をしていないものである。動けなくなったときに初めて気が付くものなのだろう。それに似たような出来事が自分の中でどんどん忘れ去られて行っている気はしている。思い返すきっかけが無い限り、記憶の底に沈んで行って、同じような出来事があったときにふと蘇ることになるのかもな。
ここにある自由さも、不自由になって初めて「自由だったのだ」と気が付くはずだ。これだけゴロゴロしているにもかかわらず、自由というものをつかみ切れていないところもあるのだ。目に見えるわけじゃないしなぁ。きっと自由に暮らしているのだが。今、緩やかに日々を過ごしていて、その裏側で過ぎ去って行く知らない日々があるのだなと感じている。得ているものの裏側に失くしているものは必ずあるのだ。
それで、今自分は何を失っているのだろうかと考えた。予想出来るのは、「普通の生活」をするために一日の大半をどこかで働いて過ごすことというものだと思う。年齢もまだ働けると言われる年代である。働かないなんて、もったいない!と言われることもある。自分の中でやりたいこととして、働くことがやらなきゃいけないことなのだとしたら、きっと焦っているだろうなぁ。自由な中にいながら、どこか自分のココロの中で自分を裏切っているような気になるのかもしれないよなぁ。
けれど、今のほとんど働いていないこの生活よりも、自分は働いているときの方が、いつもココデハナイドコカを頭に描いていたように思う。ここで働いているのはなぜなのだろうか?と常に疑問が付きまとっていた。もしあのまま働き続けていたら、貯金もたまっていたかもしれないし、安定した暮らしが出来て、老後の不安も少ないかもしれない。けれど良い想像も何の保証もない「かもしれない」である。疲れて体を壊していたかもしれないし、家族とも楽しい時間が無いまま離れて過ごしてしまったかもしれない。きっとこんなものだろう、と人生そのものに対して諦めて惰性で過ごしてしまったかもしれない。こちらの良くない想像も「かもしれない」である。
今こうやってのんびり書くような時間を持って過ごしていて、大きく違うのは、働いているあの時間をイヤだなぁと思いながら、何もなく人生を終えてしまうかもしれないと想像する恐ろしさを抱えることが無くなったことだ。もっと物を作りたいとか、掃除をしたいとか、日差しを浴びたいとか。他人から見たら大したことでもないかもしれないが、その小さな自分の○○したいを全部削って日々働くのは、未来へ生きる意味を見出せなかった。
常に先の未来はわからないものである。それまで働いて来て、好きに過ごす時間とその先貰えるかもしれないお金を比べたときに、重要視している比率がおかしいぞと思えた。それまで少しだけ働いて来たから言えることではある。お金は稼げる稼げないは不確実だが、時間は減って行くのが確実である。自分の人生の中では、普通に見える働き方は自分にとって働き過ぎなのだ。働く時間が長いのだ。生活を楽しむ時間が少なくて、なぜ生きていると言えるのだろう?と思ってしまっていたものだ。
最近ではケーキ屋の店主を手伝うことになって、ほんの少し働いているという状態である。店主のところで働いていると、仕事をしている感覚はない。手伝いをしているという感じだ。きっと「働くということ」という意識を変えてもらったのかもしれない。誰かの力になるために同じ目標に向かって努力する。それが自分のためにもなっている。お金をもらいながら、学ばせてもらっている感じだ。学ぶのが面白い。今までやっていた仕事で気付いたことも活かせているところもあって、こんなに楽しいところはないなぁと思うことも多い。店は自分にとってパワースポットのようだ。気分が良くなる。そんなことを店主に言ったら「そりゃ嬉しいな。」と笑顔を返された。
店に出ていない日も、実のところ店のことを考えていたりする。そんなことを書いていると、ただ単に今までの仕事が嫌々だっただけかもしれないなぁ・・・なんてね。楽しい働き方が出来ていたのなら、長く働いても大丈夫だって?そうでも無いゾ。一日は24時間で、動く時間と自分には考える時間も必要だし、休む時間も必要なのだ。まぁ、今がちょうどいいのかもしれないな。
では今日はこのへんで。