そんな時代に必要とされる人
最初のロールモデルは、作家の立花隆さん。その生き方は学究人である。立花さんは「知の巨人」と呼ばれるが、学者ではない。ギリシャ時代のアルキメデスを筆頭に、古代の学者は戦争を通じて科学を発展させた。戦争がなくなったローマ時代の学者も、次第に学者ではなく学究人になった。過去の文献を読み、自分の関心ある事柄に思いをはせ、特定の分野について調査を尽くし、知の巨人となった。
人工知能の能力が人間を超えると、科学の分野の新発見で人間はAIにかなわなくなるだろう。数学、物理学、化学、薬学など先端領域では過去の論文の読みこみやビッグデータの処理、それらをベースにした論理思考など、いずれにおいても人工知能は人間を凌駕するようになる。ノーベル賞級の新たな発見は、すべてAIが成し遂げる日がくるかもしれない。
そのような時代だからこそ、学問を研究する学究人という生き方は逆に輝きをみせるようになるだろう。学者ではなく「自分にとって意味のある科学の成果を読みこなす」という読書家としての生き方の方が意味を持つようになる。立花隆さんのような知的好奇心が強い生き方が、人生を輝かせるのだ。
2番目は、冒頭にて否定的に述べた芸術家だ。ただしロールモデルは假屋崎省吾さん。ただの芸術家ではないところに注意していただきたい。ローマの町には多数の彫像やタペストリーがあふれていた。しかしこの時代、後の美術史に残るような芸術作品はほとんど生まれなかった。それらの作品の多くは奴隷たちが大量生産したため、この時代の芸術家は競争相手が多すぎて、存在意義を示すことはできなかったのである。
AIが登場した未来にも同じことが起きるだろう。既に最新のAIはレンブラントの手法を学んで、レンブラントのタッチに似た絵画を新たに生み出す性能を有している。絵画、彫刻、音楽などにおいて「開発」や「製造」という観点で新しいものを作り出せないとすると、芸術家の生き方は「ライブ」へと移行すると予想される。だから假屋崎省吾さんなのだ。
生け花の芸術としての寿命は絵画と比べておそろしく短い。だからこそその瞬間に活けられた花々の命は美しい。しかも彼の作品は、そこに至るライブ感そのものが芸術であり、假屋崎省吾さんの日常生活すら芸術として評価されている。近未来の人類がめざすべき人生のロールモデルの一番目は「消えていくライブ芸術」を追求する假屋崎省吾さんのような生き方なのだ。
3番目はアスリート系。日本人でいえばイチローのような生き方だ。人工知能とロボットがいくら進化しても、プロスポーツの主役は人間だろう。ロボット同士が戦うボクシングなど面白いとは思えないし、自動操縦車が競うF1レースも感動は生まない。人間という不完全な存在が限界領域でぶつかり合うからこそスポーツは美しいのだ。
古代オリンピック競技が興隆したギリシャ時代と違い、戦争が消えたローマ帝国の繁栄期の興行としての人気スポーツは奴隷階層の剣闘士たちの戦いだった。しかし重火器が発展した近代戦争以降、プロの軍人からはトップアスリートの要素は不要になっていく。スタローンやシュワルツネッガーのような兵士が戦争の結果を変える世界は、映画の中だけである。
そしてトップレベルのアスリートは、リスクのある軍隊を回避してプロスポーツの世界で戦うようになり、現代に至る。ロボットやAIが何でもできるようになる未来、プロスポーツには今以上に人類を超越するパフォーマンスが求められるようになるだろう。だから、この時代に必要とされるスポーツ選手はイチロークラスのパフォーマーに限られていくのである。