他方、好きな政治家が、自分の反対する政策を決定した場合、「周囲の圧力からそうせざるをえなかった」という動機の語彙を選びたくなるだろう。逆に、嫌いな政治家が自分の反対する政策を決定した場合には、周囲の圧力を重視するそうした解釈ではなく、政治家本人の主体的な意思を強調する動機の語彙が説得力をもつ。その方が責任を追及しやすいからだ。

話をシニシズムに戻せば、シニカルな動機の語彙がことさらにインパクトをもつターゲットが存在する。左翼やリベラルと呼ばれる普遍的な社会正義を全面に出した主張を行う人びとだ。「社会の木鐸」を自ら標榜するようなマスメディアをそこに加えてもよいだろう。
自分自身の利益追求を隠さない人びとの動機について、シニカルな動機解釈をしたところで大したダメージにはならない。それに対して、ご立派な主張をしている連中の背後にはどろどろとした欲望が渦巻いているといった話のほうがはるかにインパクトはあるし、ターゲットにされた人物にとってのダメージにもなる。
だからこそ、正義を前面に掲げるリベラルについては、数ある解釈のなかでことさらにサイテーな動機の語彙が好んで語られる。ツイッターなどでシニカルな言動で知られるユーザーが、ユーザー本人の政治的立場とはあまり関係なく、その攻撃の矛先を左翼やリベラル、マスメディアに向けがちなのは偶然ではないのである。