風立ちぬ
「風立ちぬ」が好きで何度か鑑賞している。
色々なところで色々な風に言われている「風立ちぬ」だが、僕がこの作品を好きな理由は、堀越二郎のエンジニアとしての美しさだ。
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この作品は宮﨑駿が引退すると宣言したものであってか、公開前から相当盛り上がっていた記憶がある。特に、試写中に宮﨑駿氏が涙ぐむ場面もあり、感動作という印象もあるのだけど、涙もろい僕だが特に感涙はしなかった。
僕がこの映画を好きなのは、儚い結核文学であるからではなく、メロウなラブストーリーであるからでもない。単にものづくりに携わっている人がもつクリエイティビティへの畏敬の念が、この作品にはこもっているからだと思う。
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要するに作中の堀越二郎に自分を重ね合わせているんだと思う(非常に恥ずかしい話だが!)。
モノを作っていくエンジニアリングってのは、クリエイティビティを伴う行為だ。彼はエンジニアとしてのクリエイティビティを具現化した存在だ。それゆえ、二郎は”呪われた夢”である美しい飛行機を夢見て、あまつさえ作ろうと奮闘している。
「エンジニア」というと、どうも泥臭いイメージがつきまとう職業なのだけど、実のところ、技術的な視点に立脚し、意見を出さないといけない場面も往々にしてある。自分としては、この想像的な面こそエンジニアの本質であると考えている。二郎の存在は、エンジニアの泥臭い面を隠蔽し、創造的な面のみを押し出した存在としても見ることができる。
自分もエンジニアの端くれとしていくばくか創造的な仕事を求められることがある。しかし、それは泥臭い面を持ったエンジニアだ。理想的であるとは言いがたい。
この映画を見ると、ある意味で最高潮を迎えようとしている航空技術に、創造力で打ち克とうとする二郎の姿から、やはり純粋なエンジニアはかくあるべき、という理想像を夢見ることができるのだ。
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ところで、興味深いのは、同僚である本庄の言葉だ。
現在の日本は技術立国とも揶揄され、技術力の高さでは世界を席巻しているとも言われている。しかし、個人的には、その技術には国際的な競争力が欠けているように思う。流れの早い分野では依然として世界についていけていないセンスや技術があるように思う。
特にソフトウェアの分野では、日本の実情に合わせたガラパゴス化が顕著である、と肌感覚であるが、思うことがある。本庄の作中の言葉で引用すると次のような感じか。
俺達がExcelで管理しているバグを、やつらはAsanaで管理している。
俺達は10年は遅れているんだ。
恐るべき後進性だよ。