Location via proxy:   [ UP ]  
[Report a bug]   [Manage cookies]                
コンテンツにスキップ

フマーユーン廟

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2023年4月21日 (金) 04:30; 192.50.24.98 (会話) による版(日時は個人設定で未設定ならUTC

(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
世界遺産 デリーのフマーユーン廟
インド
フマーユーン廟
フマーユーン廟
英名 Humayun's Tomb, Delhi
仏名 Tombe de Humayun, Delhi
登録区分 文化遺産
登録基準 (2),(4)
登録年 1993年
座標 北緯28度35分36秒 東経77度15分02秒 / 北緯28.593264度 東経77.250602度 / 28.593264; 77.250602座標: 北緯28度35分36秒 東経77度15分02秒 / 北緯28.593264度 東経77.250602度 / 28.593264; 77.250602
公式サイト 世界遺産センター(英語)
地図
フマーユーン廟の位置(デリー)
使用方法表示

フマーユーン廟(フマーユーンびょう、英語: Humayun's Tombヒンディー語: हुमायूँ का मक़बराウルドゥー語: ہمایون کا مقبره‎)は、インド共和国の首都デリーにある、ムガル帝国の第2代皇帝フマーユーン(Nasiruddin Humayun、همايون)の墓廟。インドにおけるイスラーム建築の精華のひとつと評され[1]、その建築スタイルはタージ・マハルにも影響を与えたといわれる。

沿革

[編集]
入口からみたフマーユーンの廟

ムガル帝国第2代皇帝フマーユーン は、1540年ビハールの地をしたがえたパシュトゥーン人(アフガン人)の将軍でのちにシェール・シャーと名乗るスール族のシェール・ハンに大敗し、これ以降インド北部の君主の座を奪われてペルシアに亡命し、流浪の生活をおくった。やがてイラン(ペルシア)のサファヴィー朝の支援を受け、シェール・シャー死後の1555年にはアーグラデリーを奪回して北インドの再征服に成功したが、翌1556年に事故死してしまった。

フマーユーン死後の1565年、ペルシア出身の王妃で信仰厚いムスリマであったハミーダ・バーヌー・ベーグム(ハージー・ベーグム)は、亡き夫のためにデリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建設することを命令した[2][注釈 1]。時代は、アクバル大帝治世の前半にあたっていた。

伝えられるところによれば、ペルシア出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギヤースッディーンとその父ミラーク・ギヤースッディーンの2人の建築家によって9年の歳月を経て完成されたという[3][注釈 2]。その建築は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すといわれている。

1993年ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)世界遺産文化遺産)に登録された[4]

四分庭園

[編集]
正面から見たフマーユーン廟

霊廟周囲の庭園は、ペルシア的なチャハルバーグ(四分庭園)となっており、10ヘクタール以上の広大な敷地を有する。四分庭園とは、四面同等の意匠をもち、4つの区画に分けられた正方形の庭園であり[4]、庭園には水路や園路が格子状に走向して中形ないし小形の正方形をつくり、それぞれの交点には小空間や露壇、池泉などが設けられている[3]

フマーユーン廟の庭園は、インド亜大陸におけるチャハルバーグ形式の庭園としては最古のものであり[3]、ペルシアの伝統が色濃く反映された、従来のヒンドゥー建築インド・イスラーム建築には存在しなかった形式の庭園である[4]

優美な庭園はまた、しばしば「楽園の思想」の具現化であると評される[4]。すなわち、中近東生まれの宗教であるイスラームにとって、によって囲まれ、日陰がふんだんにある庭とは、まさに「天上の楽園」を地上に模写した人工物だったのである[5]

霊廟建築

[編集]
フマーユーン廟外側のアーチ。イーワーンの凹みは二段階になっている
内側ドームの天井

霊廟は上下の二層構造をとっており、東西南北の四面それぞれは同じ立面(ファサード)をもっている[6]

霊廟の中心には玄室が設けられており、その外側にアーケードをめぐらせた低平な下層(基壇)は、一辺およそ95メートルの矩形をなして高さは約7メートルに達している。その上方に設けられた上層建築は一辺およそ48メートルであり、中央墓室を4つの正方形の墓室が対角上に取り巻くような形状に配置されており、各面に対し、アーチ状の天井をもつイーワーンをひらいている[5][7]。それぞれのファサード(正面)は、赤色砂岩白色大理石を組み合わせて幾何学的な文様が華やかにデザインされている[8]。ここではまた、象嵌の手法も採り入れられている[8]

砂岩と大理石を組み合わせた上層建築。ヒンドゥーの建築技法があらわれたチャトリや小さなミナレット(尖塔)がイーワーン上部を装飾する

霊廟の中央広間には、屋根天井を切りはなした中央アジア的な二重殻のドームを有する。外殻ドームは総白大理石で、その最頂点までの高さはおよそ38メートルにおよんでいる[7][8]。ドーム屋根の周囲にはで支えられたのような形状のチャトリー(小塔)が立ち並んでインド的印象を受けるが、これはペルシア風のアーチやドームを主体にした建築に、柱やを多用したヒンドゥー的装飾が各所にほどこされているためである[9]

外殻ドームの12メートル下には内部をおおうドームがあり、3連アーチ窓が2段に並んで玄室の天井としては好適な高さとなっている。この半円ドームは、周囲の墓室や四方のイーワーンを結びつける重要な空間となっている[10]

墓廟には、すべて合わせると計150人の死者が埋葬されている。フマーユーン、王妃ベーグム、王子ダーラー・シコー、そして、重きをなしたムガル朝の宮廷人たちの遺体である[10]。玄室となる建物の中央にはフユマーンの墓として白大理石の石棺が置かれるが、これはいわば仮の墓、すなわち模棺(セノターフ)であり、実際のフマーユーンの遺体を納めた棺はこの直下に安置されている。このような形式は、中央アジアの葬送に由来している[4]。宮廷人たちの棺については、資料を欠いており、それぞれの石棺がどのように配置されたか、その詳細はよくわかっていない[10]

建築史的には、同時代のペルシア建築と共通する要素が多いといわれているが、フマーユーン廟で採用された上層建築の形式は過去の廟建築にはみられず、むしろ宮殿パビリオンの系譜に連なる形式に属している。この形式は、アーグラ近郊シカンドラーに所在するアクバル廟や第4代皇帝ジャハーンギールの墓廟であるジャハーンギール廟には採用されなかったものの、第5代皇帝シャー・ジャハーンが第一王妃ムムターズ・マハルのためにアーグラに建てた墓廟「タージ・マハル」では再び採用されることとなった[7]

登録基準

[編集]

この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。

  • (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
  • (4) 人類の歴史上重要な時代を例証する建築様式、建築物群、技術の集積または景観の優れた例。

ムガル帝国終焉の地

[編集]
玄室となる内側ドームとフマーユーンの模棺
最後のムガル皇帝が捕らえられたのは模棺のそばであったといわれる

インドの歴史において、フマーユーン廟は、奇しくもムガル帝国終焉の舞台となった。1857年にはじまる反英蜂起、いわゆるインド大反乱の際、シパーヒーたちに擁立されたムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世は、3人の王子とともにこの墓廟に避難した。しかし、皇帝はウィリアム・ハドソンの率いるイギリス軍によって捕縛され、裁判にかけられて帝位を剥奪された。翌1858年、バハードゥル・シャー2世は、年金をあてがわれた上で英領ビルマの首府ラングーン(現ヤンゴン)に追放された[10]

アクセス・周辺地理

[編集]

フマーユーン廟は、ニューデリー中心部(コンノート・プレイス)の南東約5キロメートル、インド門からは南東約2.6キロメートルの地点にあり、デリー首都圏の空の玄関口であるインディラ・ガンディー国際空港の東方やや北寄り約13キロメートル、デリー首都圏におけるターミナル駅のひとつであるハズラト・ニザームッディーン駅en)の北北西約500メートルに立地する。

フマーユーン廟の周辺には、上述のスール朝のシェール・シャーの宮廷に仕えた貴族イーサー・ハーン・ニヤーズィーen)の墓廟であるイーサー・ハーン廟13世紀後半から14世紀前半にかけてのイスラームスーフィーの聖者の墓廟ニザームッディーン廟、また、サブジ・ブルズ廟など、墓建築をはじめとするイスラームの宗教遺跡が数多く分布する。

ギャラリー

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ ムガル帝国では、しばしば皇帝の存命中に墓園の造営が開始されている。前嶋・石井(1978)
  2. ^ 皇帝の死後9年目に完成したとも、また、皇帝没後9年目に工事が始まり、アクバル帝治世の14年目に完了したともいわれる。ユネスコ世界遺産センター「デリーのフマユーン廟」(1997)

出典

[編集]
  1. ^ 近藤(1979)p.19
  2. ^ 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.52
  3. ^ a b c 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.54
  4. ^ a b c d e 『地球紀行 世界遺産の旅』(1999)p.206
  5. ^ a b デリーのフマーユーン廟 - 神谷武夫
  6. ^ 近藤(1979)p.16
  7. ^ a b c 『世界の文化史蹟第10巻 イスラムの世界』p.160
  8. ^ a b c 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.55
  9. ^ 『THE世界遺産』「フーマユーン廟、デリー」(TBS)
  10. ^ a b c d 「デリーのフマユーン廟」『ユネスコ世界遺産5 インド亜大陸』p.56

参考文献

[編集]

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]