昭和地区
昭和地区 しょうわ | |
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国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 徳島県 |
自治体 | 徳島市 |
旧自治体 | 名東郡斎津村 |
面積 |
2.07km² |
世帯数 |
5,066世帯 |
総人口 |
10,503人 (徳島市情報推進課、2011年6月1日) |
人口密度 |
5,073.91人/km² |
隣接地区 | 内町地区・渭東地区・沖洲地区・津田地区・八万地区・東富田地区 |
徳島市役所昭和コミュニティセンター | |
北緯34度3分38.5秒 東経134度33分41.74秒 / 北緯34.060694度 東経134.5615944度座標: 北緯34度3分38.5秒 東経134度33分41.74秒 / 北緯34.060694度 東経134.5615944度 | |
所在地 |
〒770-0943 徳島県徳島市中昭和町4丁目49番地の1 |
昭和地区(しょうわちく)は、徳島県徳島市の行政上の地区である。昭和・津田地域に属する[1]。
地理
[編集]徳島市東部に位置し、都心地域(中心市街地)の南東に接する。
南北を通り東で合流する2本の河川に挟まれた地区で、北の新町川の右岸、南の御座船入江川・園瀬川の左岸にある。西のみ陸続きで、東富田地区と接す。
徳島県庁舎をはじめ、徳島県警察本部、徳島県教育委員会など、県の施設が立ち並んでいる。国道55号・県道120号沿いは商業地、新町川河岸は工業地で、それ以外は閑静な住宅地となっている。
隣接する地区
[編集]内町地区 | 渭東地区 | |||
東富田地区 | 沖洲地区 | |||
昭和地区 | ||||
八万地区 | 津田地区 |
河川
[編集]北部を吉野川の支流である新町川が、南部を園瀬川とその支流である御座船入江川が流れ、地区東端で合流する。
河川 | 解説 |
---|---|
新町川 | 吉野川水系の主要河川。 |
園瀬川 | 吉野川水系の主要河川。 |
御座船入江川 | 園瀬川の支流。 |
小通し川 | 新町川・御座船入江川間に小川・水路として残る。 |
画像
[編集]町と人口
[編集]人口は徳島市による推計[2](2011年6月)。
町丁 | 丁目 | 人口 | 注記 |
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万代町 | 4~7丁目 | 865 | 全7丁目のうち。 |
昭和町 | 1~8丁目 | 3494 | |
中昭和町 | 1~5丁目 | 1829 | |
南昭和町 | 1~7丁目 | 4315 | |
計 | 10503 |
歴史
[編集]口伝によると、1620年(元和6年)、蜂須賀家政が北野太郎左衛門に命じて南斎田浦(のちの南斎田浦村、現 南昭和町付近)に塩田を開かせたとあるが、南斎田の塩竈神社(現 昭和町7丁目)の創建が1592年(文禄元年)なので、そのころまでにはなんらかの形での製塩業があったと思われる[3]。
江戸時代の間に塩田は増え、現在の沖洲地区・津田地区・八万地区にも及んだ。しかし1912年ごろから不良塩田が廃止され、1958年6月9日に最後となった斎田製塩工場が閉鎖、翌1959年12月10日には鹹水の製造も廃止し、徳島市の製塩業は終了した[3]。
河川舟運が盛んだった時代には、新町川と園瀬川の間に人工の小通し川が通じていた。現在、新町川の右岸の万代町・昭和町間にある短い支流と、御座船入江川左岸の南昭和町5・7丁目境にある短い支流が、その名残である。
1889年までは名東郡万代新田村(新町川沿い)と南斎田浦村(園瀬川・御座船入江川沿い)の2村があった。1889年の市町村制で、現津田地区の津田浦村・新浜浦村と共に合併し斎津村となった。1926年5月1日、徳島市に新たに編入される最初の市町村となった。
教育機関
[編集]学校名 | 住所 | 画像 |
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徳島市富田中学校 | 徳島市中昭和町3丁目77 | |
徳島市昭和小学校 | 徳島市中昭和町5丁目60 | |
徳島市昭和幼稚園 | 徳島市南昭和町6丁目3 |
交通
[編集]道路
[編集]施設
[編集]= 公共施設
[編集]公園
[編集]- ケンチョピア - 四国のみずべ八十八カ所に選定。
社寺
[編集]参考文献
[編集]- 『角川日本地名大辞典 36 徳島県』(1986年 ISBN 4040013603)
- ^ 徳島市:徳島市都市計画の基本方針(都市計画マスタープラン) - 徳島市開発部都市政策課(2016年3月6日アーカイブ) - 国立国会図書館Web Archiving Project
- ^ 徳島市:人口・世帯数 Archived 2007年8月19日, at the Wayback Machine. - 徳島市情報推進課
- ^ a b 河野幸夫『徳島 城と町まちの歴史』1982年 聚海書院