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諸葛誕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
諸葛誕

征東大将軍・高平侯
出生 生年不明
徐州琅邪郡陽都県
死去 甘露3年2月20日258年4月10日[1]
揚州九江郡寿春県
拼音 Zhūgĕ Dàn
公休
主君 曹丕曹叡曹芳曹髦
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諸葛 誕(しょかつ たん)は、中国三国時代の武将・政治家。公休徐州琅邪郡陽都県の出身。子は王広妻・司馬伷妻(諸葛太妃)・諸葛靚

司馬氏が専横する時代にあり、親交のあった夏侯玄揚州都督の前任者だった王淩毌丘倹らが次々と滅ぼされたことに不安を抱いて反乱を起こすが、自身も敗死を遂げた。

生涯

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若き日

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官歴は魏の尚書郎・滎陽県令から始まる。この頃、皇帝曹丕が試運転させた船に搭乗したが、強風に遭い船が転覆した。虎賁がこれを救おうとするが、諸葛誕は「杜侯(杜畿)を先に助けてくれ」と言った。岸まで流れ着き、一時意識を失うが、一命は取り留めた[2]

のち中央に入り吏部郎、次いで御史中丞・尚書に移った。夏侯玄・鄧颺らと仲が良く、朝廷において名声を馳せ、人望を集めた。彼らは互いに『四聡』『八達』などの称号を付けて称え合い、諸葛誕は八達の1人に数えられた。董昭がこれを弾劾すると皇帝曹叡も賛同し、諸葛誕らは免職となった[3]。この時の詔勅にある「官吏選抜に当たっては名声有る者を取ってはならない。名声は地に描いた餅のようなもので食べることはできない」[4]という言葉は故事成語の「絵に描いた餅」や「画餅に帰す」の原典となる。

景初3年(239年)に曹叡は崩御し、曹芳が即位。正始年間の初め、夏侯玄らが政治を司るようになり、諸葛誕も御史中丞・尚書に復職する。正始4年(243年)には揚州刺史・昭武将軍に転任[5]。正始8年(247年)、降伏を申し出たの諸葛壱の出迎えに出陣するが、途中で偽降であることに気づき、撤退した[6]

都督として活躍

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嘉平3年(251年)、王淩の乱に際し、鎮東将軍・仮節都督揚州諸軍事・山陽亭侯に昇進した。

嘉平4年(252年)正月、房玄齢等の『晋書』景帝紀は司馬師が魏の大将軍となり、善政が敷かれ人材が揃ったと称える。その中で四方を都督した人物として、毌丘倹・王昶陳泰胡遵と共に諸葛誕の名が挙げられている。同年11月、東興の戦いに従軍。胡遵と共に歩兵・騎兵7万を率い東興を包囲するが[7]、少数と侮った丁奉の軍の強襲を受け、敗戦を喫した[8]。魏では諸将の責を問う声も挙がったが、司馬師は自らに責があるとして、咎めなかった[9]。ただし任地は毌丘倹と交替することになり、諸葛誕は鎮南将軍・都督豫州諸軍事に移った[10]

嘉平6年(254年)、友人の夏侯玄らが司馬師排斥のクーデターを画策したが露見し、誅殺された。曹芳が廃位され、新帝として曹髦が即位した[11]

正元2年(255年)正月、毌丘倹と文欽が蜂起(毌丘倹・文欽の乱)。同心を呼びかけられた諸葛誕はその使者を斬り、反乱した両者の凶逆を衆知した。司馬師の命を受け豫州の諸軍を指揮し、賊軍の本拠地である寿春へ向かい、彼らの敗戦後にこの地を占拠した。閏正月、鎮東大将軍・都督揚州諸軍事・儀同三司に任じられた[12]。この後、呉の孫峻率いる援軍が来襲。しかし既に寿春を占拠されていることを知り撤退を図るが、諸葛誕は将軍蔣班を派遣してこれを追撃し、敵将留賛らの首級を挙げた。7月[13]には征東大将軍・高平侯に昇進し、領邑3500戸を与えられた。

毌丘倹・文欽の乱後まもなく司馬師は病死するが、弟の司馬昭が後を継ぎ、司馬氏の専横は続いた[13]。親交のあった夏侯玄、先に揚州都督を務めた王淩・毌丘倹らが次々と滅ぼされ、不安を抱いた諸葛誕は、金蔵を傾けて民衆や侠者らの心を引き寄せ、決死の兵を集め始める。恩賞の賜与は度を超し、死罪に該当する者も制度を無視して助けてやるほどだった。

甘露元年(256年)、呉が侵攻の気配を見せると諸葛誕はこの機に乗じ、増兵10万を要請した。朝廷は諸葛誕の叛心を察するが、彼が旧臣であることを考慮しまずは召還することを望んだ。また賈充は司馬昭に対し「諸葛誕は再度揚州に在任し、威名を轟かせ、人望を集めています。いま召し出しても来ることはないでしょうが、災禍は小さく、事変は浅く済みます。召し出さなければ事変は遅れますが、災禍は大きくなります」と進言していた。

諸葛誕の乱

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甘露2年(257年)4月24日、朝廷は諸葛誕を司空に任じ、召還する。しかし諸葛誕は「私が三公になるのは王文舒(王昶)の後のはず。それがいま司空になるとはどういうわけか」と訝しみ、かくて5月2日に決起[14]。揚州刺史の楽綝を殺害した後、10数万の官吏・兵士と、1年間の食事に足る穀物を集め、寿春城を閉ざし守りを固めた。また呉に対しては末子の諸葛靚らを派遣し、救援を要請した。呉はこれを喜び、諸葛誕を大司徒驃騎将軍青州牧・寿春侯に任じ、3万の兵を派遣。魏の包囲が完成する前に唐咨や、先の反乱に失敗し呉に亡命していた文欽らの軍が増援として寿春に入城した。

6月、魏の司馬昭は皇帝曹髦を奉じ、内外の諸軍26万を率い、自身は丘頭に駐屯しつつ、寿春の包囲を完成させた。内からは文欽、外からは呉の朱異が度々包囲の突破を図ったが、ことごとくこれを返り討ちにした。諸葛誕配下の蔣班と焦彝は籠城を断念しての強行突破を進言したが、諸葛誕と文欽はこれを退けるばかりか、蔣班の殺害をも図った。恐怖に駆られた彼らは11月、城壁を乗り越え、魏に帰順した。また同月、呉の全輝・全儀兄弟が一族の間で争いとなった末、魏に帰順した。その同族の全懌らは呉から諸葛誕の救援に訪れていたが、鍾会がこの状況を利用し、「自分たちが帰順したのは、全懌らが魏軍を撃破できないことが問題となり、処刑されそうになったため」という文書を全輝兄弟に作らせ、全懌らに送らせた。これを見た全懌らも12月に降伏し、寿春城内の動揺は増していった[15]

甘露3年(258年)正月、諸葛誕らは大量の兵器を準備し、連日連夜包囲陣を攻めて強行突破を図ったが迎撃に遭い、兵器は焼き払われ、大量の死傷者を出し、城に取って返すしかなかった。城内の食糧は尽き、降伏者は数万人に及んだ。文欽は北方の人間を城外へ出して食糧を節約し、呉の将兵だけを残して城を守ることを提案したが、諸葛誕は承知しなかった。このことから元々仲の悪かった2人の関係はさらに悪化し、ついに疑心を募らせた諸葛誕は、文欽を殺害した。これを受け小城を守っていた文欽の子の文鴦文虎も投降。司馬昭により恩赦された彼らが、「文欽の子ですら殺されないのだ!それ以外の者が(降伏しても)何を恐れることがある!」と触れ回ると、寿春城内の動揺は増すばかりだった。

同年2月20日、寿春の城兵が矢を放つ気力も失っているのを見て取り、司馬昭が総攻撃を掛けると[1]、もはや抵抗は皆無だった。逃走を図った諸葛誕は胡奮によって斬られ、三族は皆殺しとなった。司馬昭は一部の首謀者を処刑しただけで、後は呉将の唐咨をはじめ多くの降兵を許し、彼らの心服を得た。一方で諸葛誕側近の兵数百名は降伏せず、斬刑に処されることになったが、その場に臨んでも皆、「諸葛公のために死ぬのだ、心残りはない!」と口にした。当時の人々はこれを田横[16]と引き比べた。

一族

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先祖は前漢の名臣諸葛豊諸葛珪の末子という説[17]もあるが、諸葛珪はその子の諸葛亮が幼い時に没しており[18]、また彼ら親族とも行動を共にしていないため、疑わしい。

族兄の諸葛瑾は呉の大将軍、諸葛亮は蜀漢丞相となり、諸葛誕もまた魏で名声を馳せた。一門の者が3つの国で代表的な地位にあることを、天下の人々は栄誉あることとした[19]劉義慶の『世説新語』第9 品藻に言う。「蜀は其の龍を得、呉は其の虎を得、魏は其の狗を得たり」と。諸葛亮の龍、諸葛瑾の虎に対し、諸葛誕は狗と例えられたが、その諸葛誕も夏侯玄に匹敵する名声があったと称えられる。また余嘉錫は、狗というのも「功狗」=功ある者の意味で、彼への賞賛であると指摘する。

末子の諸葛靚は、諸葛誕の反乱時に呉へ人質に出され、後に同国の大司馬にまで上った。呉の滅亡後、西晋の時代に中国へと戻るが出仕は拒み、朝廷の方を向いて座ることはなかった[20]

娘の1人は王広の妻となった。結婚後初めての会話で王広が「お前の顔は良くない、少しも公休殿(諸葛誕)に似ていない」と告げると、彼女は「貴方は彦雲様(王広の父、王淩の字)に似ていない上に、婦人を英傑に準えるのですか」と言い返したという[21]

もう1人の娘は琅邪王司馬伷の妻となり、諸葛太妃と呼ばれる。2人の子の司馬繇永平元年(291年)に政権を握った時、文欽の子の文鴦が東夷校尉の官にあったが、自身の祖父諸葛誕が文欽の仇に当たることから報復を恐れ、謀反の罪を着せて殺害している[22]。また、2人の孫である司馬睿(司馬繇の甥)は後に東晋初代皇帝の元帝となった。

家系図

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諸葛豊
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛珪諸葛玄龐徳公
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛瑾諸葛亮諸葛均
 
龐山民龐統龐林諸葛誕
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛恪諸葛喬諸葛融諸葛瞻諸葛懐諸葛望龐宏諸葛靚
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
諸葛攀諸葛尚諸葛京諸葛質諸葛恢
 
 
諸葛顕

出典

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脚注

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  1. ^ a b 『晋書』文帝紀
  2. ^ 『三国志』魏書 杜畿伝によると、杜畿はこの事故で死亡した。
  3. ^ 『三国志』魏書 董昭伝
  4. ^ 『三国志』魏書 盧毓
  5. ^ 萬斯同『魏方鎮年表』
  6. ^ 『三国志』呉書 呉主伝注『江表伝
  7. ^ 『三国志』呉書 孫亮
  8. ^ 『三国志』呉書 丁奉伝
  9. ^ 『三国志』魏書 斉王紀注『漢晋春秋
  10. ^ 『三国志』魏書 毌丘倹伝
  11. ^ 『三国志』魏書 斉王紀
  12. ^ 『三国志』魏書 高貴郷公紀も参照。同紀では鎮東将軍、諸葛誕伝では鎮東大将軍とする。
  13. ^ a b 『三国志』魏書 高貴郷公紀
  14. ^ 時系列は高貴郷公紀に基づく。
  15. ^ 『三国志』魏書鍾会伝、及び呉書孫亮伝。なお、呉書では全輝の名を全禕とする。
  16. ^ 末期の人物。その死を聞いた食客500人がことごとく殉死した。
  17. ^ 徐道『歴代神仙通鑑』
  18. ^ 張澍『諸葛忠武侯文集』故事諸葛篇が引く『雜記』によると、諸葛珪の没年は中平4年(187年)。
  19. ^ 『三国志』呉書 諸葛瑾伝注『呉書
  20. ^ 『晋書』諸葛恢伝
  21. ^ 『世説新語』第19 賢媛より。ただし注釈者の劉孝標は「名士である王広はこんな発言はしないだろう」と否定する[1]
  22. ^ 『晋書』琅邪王伷伝