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今や日本を代表する商用車メーカーである、いすゞ自動車。同社の誕生までの道のりは波乱の連続であった。社史研究家の村橋勝子氏が小説顔負けの面白さに満ちた社史を「意外性」の観点から紹介する本連載。今回はいすゞ自動車を取り上げる。
まねて作ってみたものの
主にトラック、バスなど商用車を製造するいすゞ自動車は、日本で最も早く自動車製造に目を向けた会社である。1937(昭和12)年4月に「東京自動車工業(株)」として設立されたが、そのルーツは1893(明治26)年に設立され、大正年間から国産自動車の製造を行っていた「(株)東京石川島造船所」である。
わが国の造船技術は、欧米に約半世紀遅れていたが、明治以降の政府の懸命な保護育成策もあって、飛躍的に発展し、「造船王国」とまで呼ばれるようになった。
1914(大正3)年にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦は、わが国の経済界、とりわけ、海運業、造船業に非常な活況をもたらした。
東京石川島造船所では、設備は拡張に次ぐ拡張で、造る船の大きさも3000トン、5000トン、8000トンと大きくなり、1916(大正5)年ころには100万円にも上る純益を計上する勢いとなった。なにしろ、1914(大正3)年から1918(大正7)年までの4年間で、売上高は10倍近くに、純利益は18倍以上に、株主配当は4倍に増えたのである。
「この金をどう使ったらよいか」が論議された結果、「いずれ今度の戦争も近い中に終わるだろうから、自動車でも作ろうか」と、陸上輸送の自動車に乗り出すことになった。