私の愛しいアップルパイへ
「好きなことで、生きていく」ことが理想とされた世界の終焉についてお話します。これはこの1年くらいずっと私が考えてきたことで、その断面を少しずつあなたにもお話できればと筆を取りました。
「好きなことで、生きていく」というフレーズは2014年にYouTubeがYouTuber向けのCMにて使ったフレーズで、当時は大層もてはやされたものです。1
自分が好きなことをやって、場所や会社に束縛されず、自由かつ遊ぶように生きるユートピアを端的に表すフレーズでした。自由主義的ヒューマニズムの無邪気さがほとばしるよいフレーズです。
しかし、私の考えでは、このような好きなことをやって自由に生きることが理想とされる世界はとっくに終わったと思っています。いまや不幸への特急券やもしれません。
それは1990年代半ばにはとっくに終わりを迎え、いまは一部の人間がその煮汁をどうにか啜っているような状態に見えます。
「これからは個人の時代なのだ」と声だかにもっともらしく叫ぶ人が後を経ちませんが、”宗教”というものはいつだってその神話が崩壊するそのときに最も旺盛を極めるものであることを思い出さずにはいられません。
「好きなことで、生きていく」のが限界を迎えているのは主に次のような要素が根底にあります。
- データ社会による自由意志という神話の瓦解
- 過去一世紀の劇的なうつ病の蔓延
- 土台を支える「個人」という恣意的な虚構の限界
それぞれの詳細はまた別の記事で書くことにしましょう。
今日はこれらの原因を深く掘り下げるのではなく、いかにして我々は幸福と労働の折り合いをつけながら生きていくかについて掘り下げていきます。
好きなことをやるのではなく、求められていることをやる
1990年代半ばに「好きなことで、生きていく」世界が終わったとして、これからはどのような働き方が求められる時代なのでしょうか。
問題は「好きなこと」は無限問答へと陥り、際限のない渇望で苦しむ点にあります。
そこで、私はこの「好きなことで、生きていく」というドグマをこう書き換えました。
「好きなことをやるのではなく、求められていることをやる」
Sweeeeeet! 分かりやすくするために、このフレーズを前後で区切って比較するとこうなります。
『好きなことを、求める人に与える』
のではなく、
『好きな人が、求めていることをやる』
ということです。
見ていただければ分かるとおり「こと」と「ひと」の位置が入れ替わっています。まず好きな相手がいて、その人々が求めていることをやるのです。
こう言うと自分がないとか、理想がないとか、情熱がないといった誹りを受けるでしょうか。それでも私は「是!」と言いたいところです。
思い出してもみてください。ジョニー・キャッシュがいかに幸せそうな風体で「I Walk the Line」を歌ったことでしょうか。彼はフランク・シナトラの「My Way」に勝るとも劣らぬ気高さをもってその歌を歌ったではありませんか。
まずもって強調したいのは、上述した新しいドグマはけっして妥協案ではないということです。
そもそも好きなことを見つけるのが難題である
古いドグマを見てみましょう。『好きなことを、求める人に与える』というものです。これは好きなことが自明な場合には(ある程度は)うまく機能します。問題は、人生がさほどシンプルでない点にあります。
私は10年ほど仕事術や働き方や独立などをテーマに執筆・講演活動をしてきましたが、「好きなことがみつからない」という悩みが本当に多いのです。
好きなことが明確な人は幸せです。しかし、そのような人も時おり好きなことを見失うことがあります。生涯をささげようとすら考えていた「好きなこと」もフーと吹けば一息で消し飛んでしまう場合だってあります。人生ってのは案外長いものですから。
人間至上主義、個人主義、個性主義からくるロココ様式のように甘美に映る感性主義によって、私たちは「好きなこと」と言う言葉にすっかり慣れてしまいました。その実「好きなこと」という概念は思考にすぎず、もっといえば虚構にすぎず、実態がなく余りに曖昧なのです。
かように「好きなこと」の根底が不安定である以上、「好きなことをやる」というのはあまり魅力的なフレーズとは到底思えません。そのうえ、マーティン・セリグマンが指摘した通り20世紀の後半からこのような考え方が「うつ病という感染症の時代」を招くに至り、より一層魅力的ではなくなりました。2
好きなことはどこからやってくるのか?
好きなことが蜃気楼のごとく曖昧な虚構にすぎないのなら、別の基準を探す必要があります。1つ考えてみてみましょう。いま好きなことだと感じていることは、どこからやってきたのでしょうか? 好きなことを生み出す源泉があるのなら、それを基準にすればいいではないでしょうか。
私が考えるに、好きなことというのはすべからく「好きな人に求められたこと」という回答に行き着くのではないでしょうか。 分かりやすいのは、幼少時に親や教師から褒められたことです。
もちろん親子関係や幼少の経験に限らず、人から求められていることは好きになりやすいものです(”証明”だなんて野暮なことは聞かないでください。きっと思い当たることがあるはずですから)。
好きなことが変わるのは、好きな人が変わるか、好きな人の優先順位が変わった時です。ですから、親にべったりであった幼少期の時分を経て自立(という虚構)を教育される時期には、好きなことが変わりやすいのでしょう。
つまり最初にやってくるのは「進路」というやつです。ここで多くの人は最初に好きな人=家族という構造をまず覆されます。そして、自立(という虚構)の名の下に主体的に好きなことを案出しようとするわけですが、それは妄想に違いありません。
この場合、大抵の場合は好きな人の優先順位が変わっただけでです。家族から同級生や友人や恋愛対象への変化です。それを受け入れさえすれば、話は至極シンプルになるでしょう。
「ひと」と「こと」を切り離さない
そもそも「ひと」を切り離して「こと」だけを取り出すからややこしくなるのです。「好きなことをやろう」なんて、何か言っているようでその実何も言っていないのです。これをまに受けて、身近な関係性から逸脱して不特定多数の人に届けようとするからねじれ始めるのです。立脚点を失った「好きなこと」から不幸が始まるのです。
やりがいはあっても、感情は満たされないというねじれです。
この場合、渇望は際限なく広がり続けます。それは幸福をもたらすより、焦燥感をもたらすでしょう。しかも、もともとの対象から逸脱するので、けっして満たされることがないのです。
この迷宮の出口、アリアドネの糸は出発地点にあります。つまり、好きな人が求めていることをやって、それを求めている相手に直接届ける方がずっとシンプルで直接的です。回り道がありません。
ダニエル・カーネマンは幸福度を計る指標を「やりがい」と「感情」の2つに分けました。そのうえで、年収は「やりがい」と比例関係にあるが、「感情」は違うと結論づけたのです。3
「ひと」と「こと」の関係性を取り戻すことこそ「やりがい」と「感情」を同時に満たすやり方にはなりませんでしょうか。
好きな人とは誰か?
さて、それでは”好きな人”はどこからやってくるのでしょうか。ある日19世紀フランスの絵画から飛び出してきたような青い瞳の美青年が地球に落ちてくるのでしょうか。いいえ、それは今身を置いている環境にしかありえません。
好きな人とはつまり「家族」「恋人」「友人」「同級生」「地元」「同僚」「先輩」「取引先」「顧客」ということになるでしょう。そのいずれかのうちにきっと一人は自らの好意を認められる存在があるはずです。
この考え方のよいところは、「好きなこと」と違って「好きな人」には実態があるということです。結果を直接観察できるし、なにより本人に確認ができます。
上述した環境の中に好きな人が見つからなければ、好きな人としてピンとくる人を探しにでてみればいいのです。ピンとくる人がいたら会いにいってみればいいのです。いまならインターネットがありますから、少なくとも「好きなこと」を探すよりずっと明瞭で、簡単なはずです。
そして、好きな人との関係性をはぐくむ中で、彼らが求めることをやればよいわけです。
求められていることをやるのは主体性がない?
思考の起点を家族や友人や同僚から始めること。彼らに合わせること。このような考え方を素朴で慎ましく「夢がない」とこきおろすのは簡単です。でも素朴な幸せのパワーを侮ってはいけません。
モーツァルトはいきなりウィーンに居を構えませんでしたし、マネやモネもいきなりサロン・ド・パリに挑戦したわけではありません。メッシは父親がコーチを務める地元のクラブでプレイすることから始め、ステフィン・カリーは父親の試合が始まる前のウォームアップ時間にコートでシュートを打たせてもらうことから始めたのです。
21世紀以前には、偉人のほとんどが「家族」から始め「地元」へつながっていったものです。「世界」に出るのはずっと後のことで、いきなりYouTubeに出ていく人など誰一人として居なかったのです。
今ならピンク・フロイドが「Wish You Were Here」(あなたがここにいてほしい)と歌った理由がよく分かります。彼らは「The Dark Side of the Moon」という世界で最も売れたアルバムのうちの1つを製作したのち、シド・バレットを思い起こさせるこの歌を歌いました。彼はバンドの創始者で、バンドが売れる前に精神的な病によって活動停止を余儀なくされた良き友人でした。
なぜ目を見張る成果を残した偉人の多くがグループないしタッグであったのかも同じ理由で説明できます。ジョンとポール、2人のスティーブ、岡本太郎と岡本敏子、ビル・ゲイツとポール・アレン。喜ばせたい個別具体の存在が目の前にいたということです。
「他人が求めていることを、ただやるだけだなんて」と批判するでしょうか。「そこには自分がないではないか」と批判するでしょうか。しかし、であるなら「個人」とはいったいなんなのでしょうか?
科学革命から300年が経ちましたが、”分かちがたい個人”などというものはついぞ発見されませんでした。むしろ、人は関係性の中で定義づけられると考える方がずっと分かりやすく、説明しやすく、直感的です。
つまり、好きな人の総体こそが自分というものなのです。それこそが個人を形成する最たるものであり、核であり、自分というものなのです。
だから『好きなことを、求める人に与える』のではなく『好きな人が、求めていることをやる』に帰結するわけです。
貴下の従順なる下僕 松崎より