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Photo by: Oli Scarff

(Getty Images から利用制限つきでライセンスを受けたもの/コピー禁止)

訳:山形浩生

昨晩、Free Software Foundationのリチャード・ストールマンやWorld Wide Web Consortiumのハリー・パルピンと一緒にDRMについてのパネルに出た。これはDRMに反対するFree Software Foundationのデモ行進に続いて行われたものだ。DRMについてFree Software Foundationは「デジタル制約管理」と定義しているけれど、一般には「デジタル権利管理」のことだ。

質疑応答の際に、だれかが不服従についてどう思うか尋ねた。ぼくは、それが重要だと思うと述べて、理由を説明しようとした。どこまでうまく説明できたか自信がないので、ここにもう少し完全なものを挙げておこう。

ぼくの9つの原則は、遵守よりも不服従というものだ。ある日、MITの総弁護士マーク・ヂヴィンセンゾとの会合中に、ぼくのオフィスのディスプレイにこの標語が表示されていて、かれがそれを問題視した。だから説明するはめになった。

言われた通りのことをしているだけじゃノーベル賞は取れない。アメリカ市民権運動は、市民的不服従なしには起こり得なかった。インドはガンジーとその支持者たちによる、平和的ながらも決然とした不服従なしには独立できなかっただろう。ここニューイングランド地方ではボストン茶会事件を祝うけれど、これもかなりの不服従行為だ。

社会の役にたつ不服従と、そうでないものとの間の一線はむずかしい――ときには、後になって振り返るまでそれが判断つかないこともある。ぼくは別に、法を破れとか、単に反抗的であるために不服従しろと薦めるわけじゃない。でもときには、自分の第一原則に立ち戻って、法やルールが公平かどうかを考え、それを疑問視すべきかどうかを検討しなくてはならない。

社会や制度は一般に、秩序に傾きカオスから遠ざかろうとする。その過程で、これは不服従を押し潰そうとする。それはまた、創造性、柔軟性、生産的な変化も押し潰す――そして長期的には、社会の健全性と持続可能性も。これは学術界だろうと企業だろうと、政府だろうとぼくたちのコミュニティだろうと、どこでも言える。

ぼくとしてはメディアラボが「堅牢な不服従」だと思いたい。メディアラボのモデルがもつ堅牢性の一部は、不服従と意見のちがいが存在し、それが健全で創造的で敬意を持ったやり方で表明されているおかげだ。「堅牢な不服従」であることは、自己修正を続けて革新を続けるあらゆる健全な民主主義と、あらゆるオープンな社会の本質的な要素だと思うのだ。