もう「教えない教育」はすっかり忘れ去られた感がありますが、今回は、「なぜ ”教えない教育 ” は広まらなかったのか? ~ 本能と理性の闘い ~」というテーマで少し考えてみます。
いきなりの結論ですが、その原因は、
・ 殆どの人間が”教えたがり”
・ 無知
であるということです。
「殆どの人間が”教えたがり”」というのは言い過ぎかもしれませんし、割合的にどれくらいあるかはわかりません。
ただあくまで私見ですが、状況や対象にもよると思いますが、「教えたくない」という人よりも、「教えたい」という人の方が圧倒的に多いのではないでしょうか?
私自身も間違いなく「教えたい」側の人間だと思います(だからブログや投稿をやっています)。
「なぜ教えたいか?」については、心理学でも、そういう研究が結構なされていますね?
・教えることで評価・感謝されたい(承認欲求)
・見返りを求めている
・群れが生き延びるのに役立つ利他的行動の一つ
・自己確認(自分が知識を持っていることを確認するため)
・自己効力感
・愛着、親近感(愛情の表現、親近感を高める手段)
・人間関係の構築(知識を共有することで、他人との関係を深める)
といった感じです。
どうでしょう、多くの方が当てはまりますよね? 私などほとんど当てはまっています。
「教えない教育」を日本で広めた(?)インストラクショナルデザインの鈴木先生自身も、
「私も”教えたがり”です。でも教育をやるためには、そこをグッと我慢して・・」
というようなことを言われていました。
「教えたい」というのは、恐らく「人間の本能」
のようにさえ思われます。
ということは、
「教えない教育」は「人間の本能に抗う手法」
であるのかもしれませんね?
とはいえ、人間には「知性・知能・倫理」があります。「理性」と呼んでもいいかもしれません。
ここが AI との違いだと思うのです。
AI にもし訊ねたとしたら、「人間の本能に抗う教えない教育」は、不合理であり、効果的・効率的ではない、、、、という答えが返ってくるかもしれません。
しかし、「教育」という領域においては、対象である「学習者」「学習」が最優先であるべきであり、そうなると「教えない教育」というのは真正であり正論なわけです。
「教えたい先生」と「教えない教育」の関係性は、
大げさに言えば、
「本能」と「理性」の闘い
、、、であったような気もします。
そこで、もう一つの原因である「無知」です。
「無知」が「本能」を強く後押しして、「教えない教育」=「理性」は完敗してしまったわけです。
現在の大学における教員課程や教育学部、教育大学などでは、少しはインストラクショナルデザインや教育工学なども学ぶ機会があると思いますが、以前は、教育学部を卒業しているのにインストラクショナルデザインのことなど全く聞いたこともない、、という人が多々いました。
企業内教育という場においても、インストラクショナルデザインよりも先に「教えない教育」というコトバだけが飛び込んできました。
元々「教えたがり」の人たちに「無知・知識不足」が加われば、どう考えても勝ち目はありません。
インストラクショナルデザインでは、よく
「現状と理想のギャップを埋める」
ということを説明します。
現状分析をし、ゴールへたどり着く方略を考えます。
しかし、「教えない教育」や「インストラクショナルデザイン」は、
理想のゴールへはたどり着けていません。
「教えない教育」を広める(効果・効率の悪い従来の教育を変える)という目標を立ててはいたのでしょうが、
デザイン通りにはいかなかったわけです。
現状分析が甘く、方略も間違っていたわけです、、、、
ではどうするか? 形成的評価をして、方略をデザインし直す必要があります。
しかし、熊大教授システム学専攻&教授システム学研究センター(Research Center for Instructional Systems; RCiS)が空中分解した現在では、ベース(基地)がありませんし、様々な学会など何の影響もありません、、、
教育関連のコンサルなどは、新しいトレンドを探そうと、ATD(The Associaton for Talent Development)ではどうのこうの、、、、ということばかりを言って、現実を見る能力がありません。
どうにか風向きを変える方法が無いものか、、、、などということをいつも考えてはいますが、、、