帝国の中心で自由主義を夢見る先に
残念なことに日本社会では理知的でフラットな議論は相手を選ばないとできない。そしてブログは公開する相手を選べない。Webがそういう同調圧力を飛び越えて個を確立するツールとなることを期待してはいるが、今のところ日本語圏ではネット上に別の世間をつくって新たな同調圧力を増幅させているかにみえる。
例えば日本語のブログで或る予算の使い途について課題を整理しつつ建設的な提案をしても「このエントリーを財務省が読んだら仕込んでいる政策玉に予算が下りない」とか勝手に慌てて国会議員に報告がいき、取引先のお偉方から勤務先の役員に「こんなことを書く社員を放置していると、御社はこの案件から外されますよ」とか丁寧にご注進して下さる。それが日本的ムラ社会の現実だ。
たまたま話の分かる役員なら「ちゃんと個人的な意見と断っているし、正しい当たり前のことしか書いてないじゃん」で済むとして、普通の日本企業じゃ「正しいか否かの問題じゃない。現場に迷惑がかかっていることが問題だ。その案件を落としたらどう責任を取るんだ」とか詰められても文句をいえないのではないか。実名でシビアな内容のブログを書くには知恵と覚悟と環境が必要だ。
そういう世界で萎縮せず闊達にモノを書けという方に無理がある。本当に価値のある情報は往々にしてインサイダーからの表立ってはいえない事情やら、下らない組織の都合で黙殺された建設的な提案であったりするが、ネットで情報発信して、そういった価値ある情報がオンライン上で交換される可能性は低い。けっこう頑張って書いてもフィードバックはオンラインではなく飲み屋で「本当は反応したかったんですけど」云々というかたちで、エントリーの先にある重要なインタラクションは概ね不可視化されてしまっている。
結果としてはてブ的に炎上している内輪受けのネタについて煽って盛り上げるくらいのことはできても、利害の交錯する状況に対して、双方向で創発が生じて素晴らしいアイデアがネット上で形成され、実行に移されることは期待し難い。面倒な物事ほど変化へ向けて組織化し続けることはとても難しく、矛盾を顕在化させ空中分解させたり、複雑な利害関係に絡め取って身動きをとれなくして台無しにしてしまうことは簡単だ。
空気を無視した言説に対しては、事実認識と価値観と嗜好を区別しないのは近代日本人の宿痾で、それは漱石が近代的自我の確立が云々と悩んでいた時代から本質的には変わっていないのだろうし、そう簡単には克服できないのではないか。日本社会の閉塞感を苛立っている梅田さんだからこそ、Webの未来が日本を変える可能性に思いを馳せ、少なくとも今の状況に対しては残念と感じているのだろう。
しかし日本語のWeb界隈が短期的には日本に個人主義を根付かせられなかったとしても、日本人がLinkedinに登録して英語でBlogを書き、FacebookやTwitterで世界中の人々と馴れ合うことはできる。そのことは少なくとも個人として超然と生きることのできる可能性を示唆するし、村八分を恫喝の材料に使う陰湿な日本的世間から遠く離れつつ、日本で活躍するロールモデルを提示できる可能性は考えられるだろうか。
活字も、電話も、テレビも、結局のところ日本を近代化させるよりは、成長の過程で陰湿な文化を醸成し、ムラ社会的な同調圧力を国民国家にまで拡張する方向に働いた。それは優れて日本人の技術革新に対する適応力の高さであり、日本文化の本質的な強度なのだろう。メディアと共に風習や文化が蹂躙されるのとどちらが幸福か、わたしには分からない。少なくとも私にとってはホモジニアスな日本の世間は息苦しい世界であって、越境するためにベンチャーやら外資に居場所を探した。日本人でシリコンバレーに渡った人の多くとは、そういった空気が支配する世間に対する違和感を共有できそうな気がする。
しかしシリコンバレー文化を支えるコスモポリタニズム、そして漱石が倫敦で吸った空気もまた、結局のところ帝国の中心で個人主義を叫んでいるだけで、そこに集う人々だれもがそれぞれに出自の世間を捨て、或いは世間に今なお根を持った人々が演じている並行世界に過ぎず、わたしが日本人の宿痾と感じている何かは、それはそれで周縁なり人間の集まりとして他の地域であっても普遍的な何かであるのかも知れない。そう諦めてなお足元の世間を生き難き自分にとってコスモポリタニズムは希望だし、幻想としてのコスモポリタニズムが自分の周囲を覆っていて欲しいと夢想する。
近代的自我の確立を促すはずの文明の利器が、むしろ世間の範囲を国民国家にまで拡張してしまった悲喜劇として、日本の新聞もテレビもWebも同じくらいに残念で、これは構造的に繰り返されてきた失望ではあるが、閉鎖的な世間を成立させている構造は、実のところ媒体が飛び越えられる距離とは別のところにあるのではないか。
しかし日本にいて日本の新聞やテレビから逃れることは難しくとも、Webは日本または日本語圏からのExit Voiceを決定的にチープ化した。『ウェブ時代をゆく』を読み、日本語圏での村八分を恐れずに育つ若者が大成するとすれば今から数年後から十数年後のこと。今の残念な日本のWebを支えている群衆は、世代ごと村八分にされ暇を持て余してWebに屯して腐っているのだから仕方がない。
これから注目すべきは離脱不可能性に依拠した村八分を恐れる必要のないWebネイティブたちが、日本語文化圏にも新たなコスモポリタニズム的な自由主義を打ち立てるのか、或いはエリート層は漱石よろしく胃痛に悩みつつも英語圏に逃げ込んで帝国の自由な空気を謳歌するのか。いずれにしても限られたエリートの世間が何語を軸に形成され、どれくらい開かれた世界になるかという問題に過ぎないし、それはWebの日本語圏にとって些細な規模でしかない。
残念な日本のWebは大衆文化として残り続けるし、英語圏も含めたあらゆる言語圏で似たような大衆文化はぞれぞれあるのだろうから、とりたてて日本人として卑下すべき話でもない気がする。『ウェブ進化論』が描く開かれた未来へ向けて、何か別の展望に繋げるかが問題ではあるが、日本、日本人、日本語を切り分けて考えれば、様々な様相やら可能性を考え得るのではないか。
ネットは素晴らしい能力の増幅器であり、実際に米国のウェブは優れた人たちが切磋琢磨し、上に上がるためのインフラになっている。しかし日本のウェブはサブカルチャー領域以外ではほとんど使われず、優れた人たちは隠れて表に出てこないと、梅田望夫は嘆いています。
日本語圏と英語圏の大きな違いとして、日本語圏は"Preference"と"Value Judgement"と"Factual Statement"の違いが曖昧である、ということがあるように思います。"Preference"というのは自分の好みを述べること。"Value Judgement"というのは自分の価値観を述べること。"Factual Statement"というのはある出来事が真実であるか否かを述べることを指します。
梅田さんの「バカなものが本当に多すぎる」とか「残念」は、その苦悩から漏れた言葉だ。システムの性善説=「オプティミズム」を採っているからこそ、「ポジティブな人間であれ」と説いているのであって、そこには矛盾がなく、むしろ一貫していると思う。「残念」と苦悩しつつも「オプティミズム」を保持しているのは、それでも基本的には「ユーザを信じたい」という姿勢のあらわれだろう。