手話を知らない人も
手話を学んでいる人もともに
{再編集投稿・1969年頃}京都における手話と手話通訳の遺産と研究・提議 佐瀬駿介
での通訳要求はごく自然
浜松通訳グループが、選挙立会演説会に参加したろうあ者と通訳者から
「通訳は演説者におくれないように、口話・手話の両方でやってほしい」
と率直に報告されていることに私たちが傾聴しなければならないだろう。
演者のはなしを口話で読み取ろうとしても、読み取れない。
口話を主とするろうあ者から「口話・手話の両方でやってほしい」という要求が出されたのは自然のこととして受けとめなければならない。
ろうあ者は手話でないと
と決めつけて口話を否定する人
ろうあ者は、手話でないと、と決めつけて口話を否定する人には、 浜松通訳グループの苦悩と方途について理解出来ないだろう。
手話か、口話か、どちらかの選択肢しかない発想は、コミュニケーション方法を限定するものでしかない。
口話でコミュニケーションしているろうあ者に、
「手話を覚えなさい」
と強要する人も多い。そこにはコミュニケーションの選択肢を当事者が選ぶことを否定している。
それは、コミュニケーションの手段の一方法を強制しているにすぎないのである。
この点では、ろう学校の教師の中で口話一辺倒の方法を押しつけてきたことと何ら変わりはない。
ろう協のリーダーも手話を使わない
さらに注目すべきは、
役所はいわゆるわかるろう者をろう者の代表として考えているし、ろう協のリーダーも、手話を使わなくてもわかるという人が多い。
リーダーの態度や考え方によって、手話通訳者の必要性について正しく認識されたりされなかったりする。
ということである。
最近、よく動画でろうあ者が手話で話しているのを見ていると、その人は音声を出していないだけで手話をしているのであって、手話で日常のコミュニケーションをしていないことが解る。
解るということは、現象だけでなく身体全体、特に音声発声機能の動きが見えるからである。
ろうあ者のアイデンティティーでない
音声で話すのをやめること
音声が発することができる人が、近年、音声を出さないようになっている。
それがろうあ者のアイデンティティー(ある人がもっている他者から区別される独自の性質や特徴)とするが、それは大きな誤りであろう。
考えによっては、音声を発することのできないろうあ者を「侮蔑」していることにもなる。
コミュニケーションは多種多様な方法で成立するものであり、ひとつの方向だけでない。
手話が分からないあなたは
ろうあ者差別をしているとする誤り
私は聞こえないから手話でする、それが分からないのは、ろうあ者差別である。聞こえる人が手話を覚えるべきなのであるという考えがある。
では、そのように主張するろうあ者の手話は自分なりの手話であって他のろうあ者とのコミュニケーションが成立しない手話であったりする。
ろう協のリーダーも、手話を使わなくてもわかるという人が多い、という浜松通訳グループの提起は、現在では「声を出さないでわかるというろう協のリーダー」に置き換わっただけで深層は、手話を使わなくてもわかる、という場合が多い。