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宣長教

再びatokを使い始めた。atokが好きなわけではないが、ms ime やgoogleのimeに比べればはるかにましだ。google の ime は頭が悪すぎる。もう開発する意欲を失ったのだろうか。世の中だいたい消去法で特に嫌なもの耐えがたいものをのぞいていき一番最後まで残った比較的にまだましなものを使うしかない。自民党しかり。windows しかり。好きなものを使う人はたぶん何か宗教にはまっているのだろう。

浅草にアジトを移すという暴挙に出て1ヶ月ばかりが経って、また著書も書き終えたのでややヒマになったので(給料をもらっているほうの仕事は忙しいままだが)、本棚を整理してみると実にへんてこな本を買ってすっかり忘れている。例えば「江戸吉原図聚」とか。「谷崎潤一郎伝 堂々たる人生」とか。

自分の本を書いた後に人の本を読みかえしているとそれまでは気付かなかったことにいろいろ気付いて、自分の本を書き直したくなってくる。小林秀雄、丸谷才一、白洲正子とか。丸谷才一の『後鳥羽院』とか改めて読んでみると自分と考えが違い過ぎて、もう頭がクラクラする。昔はよほど何も考えずに読んだのだろう。特に自分の考えというものもなかったから何か名著のように考えていた。今読むと迷著としか言いようがない。

手直しすると言っても大きな直しではないし、明らかに間違っているところとか言い過ぎているところを削る程度。

literature とは第一義には written works、文字に書かれた作品、つまり文芸という意味であろう。study of literature を文学と訳すのは良いとして literature を文学と訳すことに、そしてブンガクと今世の中で呼ばれているものに対して、かなり反感を持っている。私が書いたものでは敢えて文学と書くときにはブンガクと呼ばれている近現代文芸(および近現代文芸論)について批判的な意味合いで言及するときだけで、それ以外は文芸と書くようにしている。

山本七平が「小林秀雄の流儀」で本居宣長は古事記と和歌にしか興味がなかった、といったようなことを書いていて、それは嘘ではないにしても、一種の決めつけだし、こういうものの言い方をするから宣長は誤解されるのだし、おそらく山本七平も宣長を誤解しているのではなかろうかとさえ思えてくる。

宣長は学問好きなカルト少年で、儒教も仏教も好きだった。そこから和歌を詠むようになり、師について体系的に研究もするようになり、和歌が好きといっても和歌の全てではなく王朝趣味ともいうべきそのごく一部を愛好していたのであって、また古事記に関していえば、古事記が好きだったというよりは研究テーマとして最も効率的に自分の業績を残せると思ったからライフワークに選んだだけだ。

(職業的)研究者というものは自分の好きなことを研究するのではない。もし人と研究テーマがかぶっていて、自分が負けると思ったらそこには手をつけず、自分の才能と労力を最大化できそうな別のテーマを選ぶ。研究者として学術界で認められないことには研究を続けることもできないからだ。宣長にとって古事記はちょうど手頃な研究テーマだった。もちろん興味なければ研究テーマに選ぶことはなかっただろうけれど。宣長がそういう考え方をする人だったことは「うひやまぶみ」を見てもわかる。

職業というものはそうしたものだ。そんな好きとは言えなくても収入を最大化できることを仕事に選ぶ。もちろん嫌いな仕事だと続かないから自分の性格と折り合いをつけながら適当な仕事を選ぶ。そしてほんとうに好きなことはプライベートで、趣味としてやる。宣長にとって歌を詠むことは研究というよりはまず第一に趣味であった。誰だってそうやって自分の職業を選ぶだろう。研究者だって同じだ。

和歌と古事記しか興味がないと言い切ってしまうと宣長は浮世離れした学者のようだがそんなことは決してない。宣長は彼なりに世渡りしてああなった人で、出世欲も名声欲もあり、徳川とも真淵ともうまく折り合いをつける人だった。

一方で上田秋成は大阪の市井の文人だったからあんなふうにガチンコで口論したのであり、また、あそこまで持論をかたくなに押し通そうとしたのは、単に自分がそれを信じていたからではなく、おおくは世間体のため、自分の立場、なによりも自分の業績を守るためだったと言える。

宣長は生涯宗教まみれな人だった。子供の頃儒教も仏教も大好きだった宣長は国学に目覚め、外来宗教から神道を分離しようとした。儒教も仏教も熟知しかつ古事記を徹底的に研究した宣長だからこそできたことだ。ところが上田秋成が、神道は儒教や仏教と混淆してもいいじゃんと言い出したから、宣長は自分の努力が全否定されたと思った。だから反論せざるを得なかった。宣長も腹の底では秋成と同じ考え方なのだが、体面上、秋成を許すことができない。しかしそれをそのまま言っては世間にはばかりがある。門人らにうまく説明がつかない。だからああいう言い方になった。

宣長の行動パターンを観察していればそういう結論にならざるを得ないのだが、世の中ではいまだに宣長は浮世離れした研究者のように考えている。

宣長は教祖になろうとしていたところがある。ところが宣長は真淵と違って門人に教えを説くということに興味がなかった。めんどくさがっていた。門人らは口伝とか秘伝のようなものを授かりたかったのだろうけど、宣長は自分の考えを全部書いて遺した。

ソクラテスにしろイエスにしろ孔子にしろマホメットにしろ、教祖様とか哲人は自らものを書いて遺さぬものだ。弟子たちが教祖の言行を伝記にするから宗教の始祖になれる。教祖自身が文字に書き記すと曖昧さや解釈の余地がないので宗教になりにくい(つまり二次創作や共同制作の要素が無いと宗教は成立しにくい。教祖が全てを厳密に決めてしまっては、一般大衆に広く受け入れられるのは難しい。初代ガンダムからさまざまなガンダムがが派生したことによってガンダムはあそこまで広く受け入れられた。富野由悠季独りではああはならなかった。天理教のおふでさきは教祖が書いたものだが解釈の余地が多く残されていたのだろう)。

平田篤胤のように直接宣長に会ったことのないようなやつが直弟子を自称し、夢か何かで入門したとか言い出して、それで宣長もかなりの程度に教祖化し宗教化したところがある。

ともかくも宣長はかなりの程度カルト的素養があったのだが、彼自身が教祖にならなかったのは、彼が物書きであったから、弟子に口伝などしたがらなかったからであろうし、息子の春庭、養子の大平などにも秘伝を授けたりはしなかったからだ。

もしイエスの弟子ペテロの如き者、ソクラテスの弟子プラトンの如きものが宣長にいたら宣長教というものができていたかもしれない。

宣長は真淵の弟子を演じ、死ぬまで演じきったが、実際の宣長は真淵の弟子でもなんでもない。松坂の一夜などは佐佐木信綱が作った架空の美談に過ぎない。宣長は自分の弟子を持つにあたり、自分の師を必要とし、真淵を選んだのに過ぎない。平田篤胤が宣長の弟子を無理矢理演じたのと同じ。師弟愛などというものは、少なくとも国学四大人、春満、真淵、宣長、篤胤の間には存在しない。そんなものを信じるから国学がわからなくなるのだ。

白川静 孔子伝

最近頻繁に電車通勤するようになり、文庫本を読んだりしているのだが、白川静など読んでいる。

この白川静という人は、なんだろう、どう言ってよいかわからないが、少なくとも宮崎市定のようにはおもしろおかしく本を書かない人だと思う。

まず白川静の『後期万葉集』というのを読んだ。『前期万葉集』というものもあるらしいが、『後期』しか持ってなかったので『後期』から読んだのだが、普通の人なら万葉集のこの歌が面白いみたいなキャッチーな書き方をするんだが、そういう要素をほぼ完全に落としてしまっている。いろんな歌を平板に並列に並べていて、わざとそういう書き方をしているんだと思うが、正直微妙。賀茂真淵が万葉集好きだったんだよという話も、かなり微妙。多分、漢学者、漢字の研究者として、万葉仮名で書かれた万葉集の解説をしたかったのだと思うのだけど、結局何が言いたいのかよくわからない。万葉仮名の使用例のサーベイに徹してくれればよかったのかもしれないが文芸批評もしようとして迷走しているようにも見える。

万葉集の文芸評論というものは、賀茂真淵以来まともなものはほとんど無いと思う。というのは、万葉集の頃までの和歌というものは、まだ「文芸化」されていない、生の歌謡、生のサンプリング、生の言霊なのであって、少なくとも万葉集の編集方針というものは秀歌を選りすぐろうというものであったわけでは必ずしもないのだから、文芸評論に適さないのは当然だろう。古語の解読とか、古代人のメンタリティの分析などはできても、文芸批評にはもともと不向きであって、そこへ「ますらをぶり」などという価値観を持ち込んで良い悪いなどと論評することにはほとんど意味が無いと思う。

『孔子伝』。こちらも役には立つが、決して面白い本ではない。毛沢東時代に書かれた孔子評の一つ、と言えば言えるかもしれない。

孔子を奴隷解放者とする試みは、必ずしも成功であったとはいえない。それは社会史的にみても実証が困難であるばかりでなく、孔子教団の性格、その思想の中心的な課題からも逸脱したものである。歴史的研究が、今日の課題から出発することはもとより尊重すべき態度であるが、それは歴史的なものを、今日に奉仕させるという方向であってはならない。それは歴史をけがし、古人を冒涜するものであるといえよう。歴史的研究は、いわば追体験の方法である。追体験することによって、過去ははじめて過去となり、歴史となる。すなわち歴史としての意味をもちうるのである。しかしそのような追体験は、あくまでも個人的な、また主体的な営みを通じて、行われなければならない。その追体験の場をもつために、われわれは歴史学の方法をとるのである。

この箇所を白川静はどの程度の熱量で書いたのか、文章を見る限りではまるで伝わってこないのだが、たぶん何かに対して相当怒っているか、誰かに対して憤慨しているか、攻撃したがっているのに違いないのだが、自分の感情を隠すためだろうか、そういう書き方をする人なのであろう(※追記。文庫本のためのあとがき、解説などを読むと文革期のさなかにいろいろ思うところがあったことがわかる)。

私も本居宣長を弁護するために、最近よく似たことを書いたので、まだ発表前ではあるけれどもそのごく一部であるからここにお見せしてもかまわぬと思う。

日本は海を隔てて世界から隔絶しており、日本固有の信仰が失われるという危機感は皆無だった。上田秋成ですら、日本人は外から入ってきた思想を自家薬籠中のものにし、ありとあらゆるものを丸呑みにして完全に同化できる、その受容性の高さこそが神州日本の才能であると己惚れていた。宣長はしかしその持ち前のオカルト的直感によって、神道にも不寛容さが必要になってくる、そう気付いた。他宗教に対する免疫を持つ必要性に最初に思い至った人だった。

元来宗教とはものわかりの悪いもの、排他的なものである。友好的で寛容な宗教と、排他的で不寛容な宗教がぶつかれば、ものわかりの良い宗教は常に相手に譲歩し、ものわかりの悪い宗教は常に相手を圧迫して、ついに寛容な宗教は淘汰され、不寛容な宗教だけが世の中にはびこる。世界史上そういう前例はいくらでもある。ギリシャ、ローマ、ゲルマン、エジプトなどにかつてあった土着信仰はもはや死に絶えた。古代ギリシャ信仰はクリスチャン化したギリシャ人自身によって抹消された(新プラトニズム哲学者ヒュパティアの迫害など)。

それまでの神道にも教義や神学はあったが、所詮は仏教や儒教の理論を借用したものにすぎない。それらを取り払うと神道には自ら生み出し築き上げた学問体系や理論と呼べるものは何も残らない。神道とは儒教や仏教の亜種に過ぎない。それが江戸期の知識人、特に儒学者らの共通認識であった。
神道はかつて地上に自然発生した無数の原始宗教の一つであった。そうした、すべての原始部族に見られる太古朴陋の巫術が次第に整理され、教義を蓄え、民族を超えて世界に伝播し、仏教やキリスト教のような普遍宗教となる。他に先んじて普及した宗教は周囲の原始宗教を飲み込んで多民族宗教に成長していった。後進の日本神道もまた他宗教に従属する状態から脱して一個の自立した普遍宗教とならねばならない。太古、インドに生きた人はインドが世界の中心であると思い、中国に生まれた人も同様に中国が世界の中心だと思ったに違いない。だから日本が世界の中心であり、太陽は神だと古代日本人が信じていたのであればそれを前提に神道は再構築されなくてはならない。今の人がどう思うかということはひとまずおいて、自分も古代人と同じ精神構造になってみなくてはならない。それは一種の実証実験である。そのためには古代語を復元して古代の風俗の中で生活し、古代人の目に世界がどう見えていたか体感してみなくてはなるまい。和歌を詠む意義もまたそこにある。
中国に儒教があり、インドに仏教が生まれたように、日本に日本固有の神道が定まればそれで十分であり、他と比較してどこが本地でどこが垂迹かなどということは古代日本人の念頭にはなかったことだから無視すれば良い。陰に対して必ず陽が対になっているという発想は古代日本人には観察されないのだから、神道の教義に混ぜてはいけない。宣長はそう明確に意識していた。

白川静は追体験と言い、私は実証実験と言っているが、言っていることは同じことである。

バラモン教やヒンドゥー教がインドを出ることなく、或いはゾロアスター教がペルシャを出ることがなかったのは、それらが民族宗教であったからだ。アーリア人固有の宗教だったからだ。仏教が中国を経由してはるか日本まで伝わったのはそれが民族固有の宗教から進化した、民族を超える普遍宗教だったからだ。日本は無菌状態ではなかった。キリスト教伝来当時、すでに仏教の洗礼を受けていた。仏教や儒教、道教、陰陽道などの外来宗教は神道を変質させもしたが免疫を作りもしたのである。もし古代神道時代にキリスト教が伝来していたら、またたくまに神道はキリスト教に侵食され消滅していただろう。フィリピンではそうなった。同じようにもしインドネシアのように最初に伝わった普遍宗教がイスラム教だったら、日本もイスラム教の国になってしまっていただろう。

※追記。やはり戦後昭和期に書かれたものは一度精査する必要がある。それらは戦前に書かれたものと同様にそのまま素直に受け取れるものではない。もちろんあるものは、今でも通用するような書き方がされているが、多くは戦争直後の日本という時代のバイアスがかかっていて、或いは方法論的に未熟過ぎて、今の観点からはかなり外れている。無論今の価値観が正しい保証などは何もないのだが。戦後民主主義教育という名のもとに正当化されてきたものが多すぎる。

九条良経と後鳥羽院

九条良経の歌というのは、今で言えばファッション雑誌を見て、どこかのシャレオツな店のマヌカンに選んでもらって、金持ちのボンボンだからいくらでも高い買い物ができる人が着るような服、といえばわかり良いだろう。そして世の中にはそんな金持ちの慶応ボーイみたいな歌が好きな人が一定数いるのも事実だ。それなりの需要はあるのだ。それはそれとしてそういう歌をうまいとか絶唱とか褒めるのはやめてもらいたいと常々思っている。ジャニーズのイケメンがかっこいいのは当たり前じゃないか。

九条良経の四歳下の妹任子は後鳥羽院の中宮なので良経と後鳥羽院は、血はさほど近くはないが義兄弟である。この二人の歌は良く似ている。ほとんど区別できないこともあるが、だいたいにおいて後鳥羽院のほうがうまい。後鳥羽院は後鳥羽院で、それなりに苦労はしているので、そうした生まれ育ちが歌に微妙な屈折を与えている。良経にはその屈折とか鬱屈というものがまるで無いように見える。

後鳥羽院にはあの腹違いの兄安徳天皇がいるわけだから、それが性格に暗い陰を落とさないわけがない。後鳥羽院は生涯九条家と鎌倉武士に頭を押さえつけられて生きていた。京都武士に多少そそのかされたということはあったかもしれないが、後鳥羽院が自ら倒幕などという大胆な改革を思いつき実行しようと企んだということはほとんど考えにくいと思う。それに京都武士らにそそのかされたのはむしろ順徳院であって、後鳥羽院は息子と取り巻き連中の暴走を制御できなかった、というのが正解であるはずだ。

都庁前乗り換え

乗り換え案内だと、都庁前で乗り換え1分、待ち7分などと表示される場合に、実際にはほとんど0分で乗り換えが可能なことがある。やはりあのひねくれた路線と都庁前乗り換えは悪評が高いのだろう。あの乗り換えで0分かそれとも7分待たされるかで大した違いはないっちゃないのだが(それを言えば郊外の10分間隔とか15分間隔にしかこない電車はどうなるとなる)、しかしあの乗り換えはマジでメンタルに来るので、いろいろ工夫しているのに違いない。

恵方呑み

デニーズのメニューに「恵方呑み」なるものがあって、まさか今年は西南西を向いて酒を飲めというのじゃあるまいなと思ったらまさにそれだった。

そうなると「恵方寝」は布団を西南西に向けて寝ることになる。

ほかにもあるだろうか。「恵方歯磨き」西南西を向いて歯磨きをする。「恵方くしゃみ」西南西を向いてくしゃみする。「恵方放尿」西南西に向けて立ちションする。「恵方放屁」おしりを西南西に向けておならする。「恵方ラッパ」西南西に向いてラッパを吹く。大日本帝国海軍の信号ラッパの伝統。「恵方キャッチボール」西南西に並んでキャッチボールする。

アジア物産

千束通りに向かい合って日豊アジア物産という店と、アジアマートという店がある。アジアマートのほうはまだグーグルには捕捉されてないみたい。デリカぱくぱく千束店の近く。アジアと言っているが完全に中国人による中国人のための店。新大久保あたりのほうがもちろん中華食材の店は充実しているのだが、ここは袋麺がけっこう高い。

アジアマートのほうは麻辣とかが多い。辛いのは苦手なのだが、アジア物産のほうで「葱香排骨面」というものを買ってみた。麺はごく普通だが、粉末のスープ1つと液体のスープが2つ入っていてけっこうこだわっている。全然辛くはない。日本のインスタントラーメンとはまったく違っていて美味しかった。

エキミセ

今や松屋というと牛丼屋というイメージが強いせいか、松屋浅草はエキミセと呼ばれたがっているらしい。というか、松屋浅草とは地下1階、1階、3階部分を言うらしく、2階は東武浅草駅。4階から上がエキミセ。

この建物、エスカレーターの動線がめちゃめちゃわかりにくい。なんでこうなったんだろうか。おそらくもとは歩いて上り下りする階段だったものをエスカレーターに置き換えたらこうなったんだろうけど、昔はそういうのが流行りだったのだろうか。

6階フロアまるごとニトリ。ここのニトリはすごい。郊外ならともかく浅草のど真ん中でこの広さはすごい。まあたいていここで買えるだろ。

ベトナム米

土曜日の朝、浅草場外馬券場の付近、つくばエクスプレスA1出口のあたりにとんでもない数のおじいちゃんたちが集結する。路上喫煙者だらけで、鶯谷北口のような、北千住喫煙目的店通りのような状態になる。正直まったく近づきたくない。そうした場合、この煙幕ゾーンを避けてつくばエクスプレス浅草駅を使うには、地下駐輪場を延々と歩いて、北か南のはしの出口を使うしかない。

この時期浅草はいたるところで道路の修理をしているがこの工事費用はなんとJRAが補助しているのだという。競馬産業に支えられる街、浅草。

例の吉原のど真ん中にあるBig-A。「サイズミックスたまご10個」178円。安い。「ちょうどいい牛乳」188円。安い。サッポロ黒ラベル350ml缶168円。おなじくスーパードライ168円。外税とはいえなかなか今どき見ない安さだ。

驚きなのは「ベトナムのお米」5kg 2480円。税込みでも2678円。炊いて食べてみたがごく普通。まずいということはない。日本の米と同じ短粒種で、タイ米やインド米のように細長い米ではない。同じものがamazon、楽天市場で売られているが品切れ状態。

根岸こと鶯谷

根岸という土地に私たちは何か牧歌的なイメージを抱く。鶯谷という地名にしても悪い噂はあるものの私は何やら楽しげな飲み屋の町という先入観を持っていた。

私は浅草の方から入谷を経て根岸の子規庵に行こうとした。この界隈をぶらぶら歩き回り(というか、根岸から根津へ抜けようとしてなかば迷って)子規庵の前を偶然通りがかり休館日だったので再び来てみたのだ。グーグルマップで開館日でしかも営業時間内であることを確認して。

上野や或いは秋田などの古い町にはよくあることだが昔の道が後から作られた車のための道や鉄道によって分断されて歩行者が恐ろしく遠回りさせられて、その代償に歩道橋や歩行者用の陸橋に登らされるという町が戦後日本にはたくさんできた。鶯谷もそうであった。子規庵へ続く道にはバカでかい歩道橋しかなく、その歩道橋に登らなくては大きく迂回せねばならなかった。私は仕方なく歩道橋を渡った。

子規庵は13:00まで昼休みというので入れなかった。

それから北口に向かったがここは路上喫煙者のたまり場になっていた。禁煙の店が2、3軒あるのをグーグルマップや食べログで確認していたのだが、禁煙の店の店先には必ず喫煙者がいた。喫煙可能な店の中にももちろん喫煙者がいるのに違いない。北千住のタバコ通り並にここは喫煙者の多い場所だということがわかった。

根岸すなわち鶯谷というところは駅の北口と南口で高低差がある上に線路で分断されていて、古い道も分断されて、喫煙者だらけで、北口にラブホテル街が広がっているのはどうでも良いとして、鶯谷南口は上野の博物館や寛永寺にも近く平和なところだが北口にはもう近寄りたくない。子規庵の最寄りがその鶯谷駅北口だというのと、二度も入れなかったので行く気が失せた。

疑似文語

1月27日に1年、いや1年半かけて書いた本の最終原稿を提出して、もちろん校正段階で手直ししたり差し替えたりということもできなくはないのだが、それはもうやらず、最小限の修正に留めて、余計に書きたくなったらここのブログに書いていこうと思う。そういう文章が溜まっていってまた本にまとめるかもしれないし、しないかもしれない。

短歌の表記について:文語・口語のこと

あざやけし・やすらふ(1)

あざやけし・やすらふ(2)

あざやけし・やすらふ(3)

江戸時代にあったのは国文(くにぶみ)であり、国文には和文(やまとぶみ)と漢文(からぶみ)があった。『平家物語』や上田秋成の『雨月物語』のような和漢混淆文もあり、本居宣長の『玉勝間』などを見てもわかるが、散文に関していえば、和文だけでは語彙が足りないから適宜漢語を混ぜて書いていた。その書き言葉を記したものを文語というのであれば、確かに文語は江戸時代からあった。

この江戸期にすでに確立されていた文語を逸脱したものを擬似文語と言いたいわけだが、より狭義に言えば、口語、話し言葉にはあるが、文語にはない語を文語風に造語し補完したものを擬似文語と言いたいわけなのだが、今どき散文を文語で書く人など皆無であるから、疑似文語の問題はただ、俳句とか近現代短歌のコミュニティだけで見られるものである。

一番わかりやすい例でいえば「大きい」。古語には「おほし」しかなく、「多し」「大し」「大きなる」などとしか言わなかった。「おほきなる」から口語の「大きい」が出来て、「大きい」を文語化すると「大きし」となるが、「大きし」などという古語の用例はない。

同じく「近しい」という現代語はあるが「近しし」という古語は存在しない。

「おだやかな」という言葉はあるが「おだやけし」という形容詞は存在しない。「おだし」という言葉は『源氏物語』にも見える。ただし私の知る限りにおいて「おだし」が和歌に用いられた例はないように思う。話し言葉には用いても和歌に用いられない言葉というのはよくある。よく知られているのは、係り結びで「ぞ」「こそ」は使うが「なむ」は話し言葉にしか使わない、など。

同じように「あざやかな」とは言うが「あざやけし」とは言わない。古語には「あざらけし」という言葉があって、「あざらけし」というのが正しい、などという人がいるが、それもどうだろうか。「あざらか」は『土佐日記』に用例があるらしいが、「あざらけし」の用例は非常に少ない。まして和歌に用いられた例はなかろうと思う。

「たけのこ」は「たかむな」「たかうな」とも言う。『源氏』には「たかうな」と出る。和歌に使われるのは圧倒的に「たけのこ」であって、私は特に理由が無い限り「たけのこ」と言うべきだと思う。

「ずき」「ずけり」などは万葉時代には使われていたらしい。「見れど飽かずけり」など。しかしこれも、「ざりき」「ざりけり」と言うべきだと思う。もし文字数の制約で、或いはわざと万葉調にするため、或いは単に奇をてらってそうするというのは慎むべきだと私は思うし、私ならば絶対やらない。

「悲し」「悲しむ」という古語があるのだから、「寂しむ(さびしむ)」「愛しむ(いとしむ)」「侘びしむ(わびしむ)」「激しむ(はげしむ)」などという語があってもよかろうという人はいるかもしれない。実は「侘びしむ」は『岩波古語辞典』にも載っているれっきとした古語である。崇徳院に

いかでいかで 嘆きを積みし 報いとて 逢ひ見てのちに 人をわびしむ

また西行に

寝覚めする 人の心を わびしめて しぐるる音は 悲しかりけり

がある。「さびしむ」にも用例がある。しかしながら「愛しむ」は「いとほしむ」と言うべきだろう。「激しくする」を「激しむ」というのはおそらく誰もが違和感をおぼえるだろう。

俳句や現代短歌ではこれら疑似文語をしばしば使う。言語というものは移り変わっていくものだから、現代語を現代人が勝手に作り変えて新しい造語を作るのは勝手だという考えもあるだろう。どうぞそうしてかまわないと思う。その代わり和歌とは混ぜないでほしい。

どんどん新しい言葉を作ってその中には後の世に残る良い言葉も含まれているかもしれない。しかし多くの造語は淘汰されて残らない。何十年か後に、昭和の歌人たちはなんてでたらめな言葉遣いの歌を詠んでいたんだろうといわれたくなければそうした珍文語は使わないのが良い。

新語とか造語ではなくて、明らかに単なる誤用という場合もあると思う。「やすらふ」はグズグズする、ためらう、優柔不断、の意味であって「休む」という意味はない。「安心する」という意味も無い。それらの誤用を許容する理由は、現代短歌や俳句ならいざしらず、少なくとも和歌には無いと言ってよかろう。

私が言いたいのはつまり、九州弁と関西弁と東京の標準語を見境なく混ぜて使ってそれがまともな言語といえるか、ということだ。イギリス英語とアメリカ西海岸の英語とインド人の英語を混ぜた英語が許容されうるか。同じことで、万葉時代や江戸時代にはあった言葉を平安朝の言葉に混ぜて使って、そんな言葉で平気で和歌を詠むんですか、ということだ。現代人は古語には語感がきかないからなおのことちゃんと用例を調べて、例えば紫式部の日本語を標準として定めて、そこに併用しても違和感の無い語彙や文法を慎重に選んで和歌を詠むべきじゃないですかと言いたい。