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    心身障害学専攻は、東京教育大学におかれた特殊教育学専攻を発展させたものである。特殊教育学においては、盲学校、聾学校、養護学校や特殊学級に在籍する障害児を対象とする特別な教育とその基礎的な内容に関する研究が中心であった。東京教育大学が筑波大学へと発展するなかで、「特殊教育学」もまた発展が図られた。「特殊教育学」は「心身障害学」へと名称を変えたが、 ...... more
    心身障害学専攻は、東京教育大学におかれた特殊教育学専攻を発展させたものである。特殊教育学においては、盲学校、聾学校、養護学校や特殊学級に在籍する障害児を対象とする特別な教育とその基礎的な内容に関する研究が中心であった。東京教育大学が筑波大学へと発展するなかで、「特殊教育学」もまた発展が図られた。「特殊教育学」は「心身障害学」へと名称を変えたが、 ... http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=821925&tocid=100054482&page=74-76
    大正期の私立福岡盲唖学校に授産施設が併設される過程を、学校の財政基盤の確立と、卒業生の就労困難問題およびそれに対する校長の認識という観点から検討した。草創期の同校における技芸科教育は、財政窮迫のために設備と教育力の両面に制約があり、卒業生の就労は困難な状況にあった。第3代校長吉村誠の就任後の大正5年以降、県費補助により学校財政が再建され、炭坑財閥および県からの資金援助により校舎の新築移転が実現し、さらに新築校舎への授産施設の併設が推進された。吉村は、一般事業所を利用した実習教... more
    大正期の私立福岡盲唖学校に授産施設が併設される過程を、学校の財政基盤の確立と、卒業生の就労困難問題およびそれに対する校長の認識という観点から検討した。草創期の同校における技芸科教育は、財政窮迫のために設備と教育力の両面に制約があり、卒業生の就労は困難な状況にあった。第3代校長吉村誠の就任後の大正5年以降、県費補助により学校財政が再建され、炭坑財閥および県からの資金援助により校舎の新築移転が実現し、さらに新築校舎への授産施設の併設が推進された。吉村は、一般事業所を利用した実習教育の構想と、卒業生のための授産施設の設立という二つの方針を持っていたが、保護者に認識されていた卒業生の就労困難の現実を理解する中で、授産施設の設立とその経営に、重点を置くようになった。福岡盲唖学校に併設された授産施設が「株式会社」方式をとったことには、卒業生の、当事者意識と勤勉さを向上させることへの期待があった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=506126&tocid=100026422&page=111-126
    精神薄弱者のコミュニテイ・ケアは、19世紀末の施設隔離期以降の一時期を除けば、元来むしろ常態であった現象である。20世紀初頭、隔離形態の最盛期に、コミュニティ内のコロニーが、仮退所制度と結合してニューヨーク州ローム施設長のC.バーンスタインにより ... http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=373201&tocid=100027796&page=37-47
    本研究では、重症心身障害児における常同行動減少の主要変数は、感覚・運動の操作性の高次化-初期行動形成-をめざし、対象児に対応した系統的・継続的な指導を用意することであるとの立場に立って、常同行動の激しい一重症心身障害児について約2年間指導してきた。事例がわずかに行っていたhand... more
    本研究では、重症心身障害児における常同行動減少の主要変数は、感覚・運動の操作性の高次化-初期行動形成-をめざし、対象児に対応した系統的・継続的な指導を用意することであるとの立場に立って、常同行動の激しい一重症心身障害児について約2年間指導してきた。事例がわずかに行っていたhand regardに視覚的機能を認め、基礎的な視覚行動形成を指導目標とした結果、事例は約2年後には不十分ながら到達-把握行動を示すとともに、常同行動は全般に減少した。この過程を検討すると、事物の操作に必要な手の運動は、事例自身の常同行動に含まれる手の運動と密接な関係があること、視覚と手の初期行動形成とともに常同行動は部分的な変化をへて減少ないし一時的になることが明らかとなった。特異性や非発達性に常同行動の本質があるとの従来の主張に対し、常同行動は事例に対応した系統的で継続的な指導によって高次化される基礎になりうることが指摘された。 In this paper, it is hypothesized that main variable for reduction of stereotypies of the nonambulatory profoundly retarded in the institution, is systematic and continuous teaching that is corresponded to developmental stage of the case, and promotes manipulatory ability of sensorimotor. The case exhibited high-frequent and and self-stimulatory stereotypies, and few "hand regard". Giving her 2 year's teaching for basic visual behavior contained in "hand regard", she has formed reachinggrasping behavior but insufficient, and at the same time her stereotypies h...
    The purpose of this article is to analize the thought of S.G.Howe (1801-1876) on the education of the blind in the early period of his work (1831-1837), who was one of the founders of the Special Education in the U.S.A. The New England... more
    The purpose of this article is to analize the thought of S.G.Howe (1801-1876) on the education of the blind in the early period of his work (1831-1837), who was one of the founders of the Special Education in the U.S.A. The New England Institution for the Education of the Blind had been incorporated in 1829 by humanists and philanthropists in order to protect the "society" from the poor. His thought was principally based upon this purpose. He criticized the previous treatment of the blind which had given them alms indiscreetly, for it had been not only ineffective to the "society", but also given many evils to the blind themselves. He regarded the blind as ones who were equal to the seeing, i.e., who might be happy, useful and independent. Such a view of his contributed to the placement of the economical independence, training of becoming musicians, scholars and teachers, and manual laborers, as the object of the Institution. In other words, the training was divi...
    研究課題番号: 08451058 研究代表者: 中村満紀男 アメリカ合衆国における「精神薄弱」者(1)の処遇は、1900年代後半に、19世紀題4四半期以降の処遇原理となっていた施設内での隔離的処遇が一部修正されて、コミュニティでの生活が加わることになるが、本研究では ... http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/limedio/dlam/B12/B1279208/1.pdf
    筑波大学教育学博士学位論文・昭和60年11月30日授与(乙第286号)... more
    筑波大学教育学博士学位論文・昭和60年11月30日授与(乙第286号) 19世紀アメリカ合衆国にあって,救貧的教育機関として出現した盲院(盲学校の前身)が,行政上も教育上も「学校」化していく一方で,学校・非アサイラムであることを強調して設けられた白痴学校(精神薄弱学校の前身)が,教育的機能を内部的に保持しながら社会的には保護収容機能を開設・拡大して,大規模・隔離化の方向をとっていく,そのような経緯の検討を通じて,19世紀アメリカ合衆国で障害児学校が直面した問題点を究明することに,本論文の研究課題は,おかれている,としている。 ・・・ http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?bookid=289803
    インクルーシブ教育がフル・インクルージョンに至った段階で、その理念に反して障害マイノリティが生じることになった。本論文では、フル・インクルージョニストがその唱導において最大の問題とした分離=隔離とその関連問題を中心に、彼らが何を達成しようとしたのかについて、障害マイノリティの典型としての視覚障害の観点から検討した。フル・インクルージョンでは、特殊教育とは異なる対象論をもち、障害に固有なニーズと分離的な環境での教育にはおおむね否定的であり、分離を政治的に人種隔離へ連想させた。ま... more
    インクルーシブ教育がフル・インクルージョンに至った段階で、その理念に反して障害マイノリティが生じることになった。本論文では、フル・インクルージョニストがその唱導において最大の問題とした分離=隔離とその関連問題を中心に、彼らが何を達成しようとしたのかについて、障害マイノリティの典型としての視覚障害の観点から検討した。フル・インクルージョンでは、特殊教育とは異なる対象論をもち、障害に固有なニーズと分離的な環境での教育にはおおむね否定的であり、分離を政治的に人種隔離へ連想させた。また、フル・インクルージョンにおいて分離を否定し、特殊教育の解消を目指してのは、分離が民主制社会への完全参加を阻害すると考えたためであり、フル・インクルージョンが効率性を問題にしたのは、限られた資源の有効な配分という発想からであった。しかし、フル・インクルージョンの普遍的理念と各障害の個別のニーズが整合されないことから、視覚障害等では、フル・インクルージョンの理念に反した結果が生じた。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=779671&tocid=100052474&page=17-33
    障害者の教育と生活は、諸科学の知見により規定される側面がある。歴史上、諸科学によりその生活と教育が最も翻弄されたのは精神薄弱の範疇に位置づけられた人々であった。本研究では、1910年代のアメリカ合衆国における優生学運動を発展させた諸科学のうち、自然科学的知見に依拠した新興諸科学であり、精神薄弱者の生活の在り方に関係した領域である社会学・社会事業、心理学、精神医学が提起した社会的不適論およびその典型としての精神薄弱の範疇化と優生学との関係について、その理由と動機、精神薄弱と対極... more
    障害者の教育と生活は、諸科学の知見により規定される側面がある。歴史上、諸科学によりその生活と教育が最も翻弄されたのは精神薄弱の範疇に位置づけられた人々であった。本研究では、1910年代のアメリカ合衆国における優生学運動を発展させた諸科学のうち、自然科学的知見に依拠した新興諸科学であり、精神薄弱者の生活の在り方に関係した領域である社会学・社会事業、心理学、精神医学が提起した社会的不適論およびその典型としての精神薄弱の範疇化と優生学との関係について、その理由と動機、精神薄弱と対極にあった理想的人間像、社会的認識を中心に検討した。1910年代のアメリカの精神薄弱学説は基本的には家系説と社会的脅威論から構成されたが、生活実態としてはそれに反する事実が明示され始める時期であった。新興諸科学は、20世紀初頭には精神薄弱問題の社会的重要性を高めることに貢献したが、同時に、相互には共存・拮抗関係をもちつつ、科学としての自律性の確立と社会的認知を緊要な課題としてもいた。それゆえ、新しい技術を開発し、それを実地化して、各領域の社会的存在意義をアピールした。また、諸科学は、アメリカの国家としての国際的競争という社会的現実を意識して、それに勝利するためのアメリカ民主制社会の理想的市民像とそれを阻害する対極として精神薄弱を設定したのである。かくして精神薄弱は発生を防止されるべき存在となった。この時期に展開しはじめた新しい人間観や専門技術は普遍化されず、社会的効用の違いによって二元的に利用され、精神薄弱はその適用から除外されることになった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=506126&tocid=100026417&page=49-65
    本研究では、20世紀初頭の公的な肢体不自由児病院において、肢体不自由児を対象とする教育がいかなる経緯と状況において成立、変化していったのかについて、社会的及び歴史的背景と関連づけて検討した。マサチューセッツ病院の機能は、医療及び教育の提供であったため、創設時において収容保護施設的機能は否定され、自活の形態として就労もしくは公立学校への接続が意図された。同病院における教育は、医療の補助的な役割ではなく、教育独自の意義が認められていた。しかし、1920年代に肢体不自由児教育の主た... more
    本研究では、20世紀初頭の公的な肢体不自由児病院において、肢体不自由児を対象とする教育がいかなる経緯と状況において成立、変化していったのかについて、社会的及び歴史的背景と関連づけて検討した。マサチューセッツ病院の機能は、医療及び教育の提供であったため、創設時において収容保護施設的機能は否定され、自活の形態として就労もしくは公立学校への接続が意図された。同病院における教育は、医療の補助的な役割ではなく、教育独自の意義が認められていた。しかし、1920年代に肢体不自由児教育の主たる場として通学制の肢体不自由児学校が定着するなか、同病院には不治永患児の比率が入院児の多数を占めるようになる。このことにより、同病院は学校の機能を維持しつつも、収容保護施設としての機能も備えなければならなかった。同病院における教育機能の限界は、通学制学校との協力と新たな存立根拠として医療部門の強化という変革をもたらした。こうして、同病院は医療を強化することにより、創設時の意図とは異なり、医療中心機関としての役割を深めていくことになったのである。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=574165&tocid=100032935&page=103-115
    本研究では、戦後の日本の障害児教育・福祉に大きな影響を与えた糸賀一雄の共感思想について、糸賀一雄の著作を通して検討した。共感思想の考察においては、共感という用語に関連する考え方に注目し、人間関係観としての共感思想、共感を中核とした新しい社会、その社会を形成していく自覚者・責任者の概念を中心に論じた。また、共感思想の根源をなしているのは、糸賀一雄の青年期思想であるという観点から、彼の青年期思想について分析した。その結果、糸賀における共感思想に内在する特質として、以下の点が明らか... more
    本研究では、戦後の日本の障害児教育・福祉に大きな影響を与えた糸賀一雄の共感思想について、糸賀一雄の著作を通して検討した。共感思想の考察においては、共感という用語に関連する考え方に注目し、人間関係観としての共感思想、共感を中核とした新しい社会、その社会を形成していく自覚者・責任者の概念を中心に論じた。また、共感思想の根源をなしているのは、糸賀一雄の青年期思想であるという観点から、彼の青年期思想について分析した。その結果、糸賀における共感思想に内在する特質として、以下の点が明らかとなった。①人間存在を相互性・関係性に基づいて把握していた。②障害者と健常者の関係の在り方を、主体と主体の関係と捉えていた。③自己の内面を深く見つめ、また個々人が自分の内面を省察することを重視していた。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=506126&tocid=100026419&page=77-87
    本研究は、公立小学校の言語障害指導の実態調査によるその問題点の明確化を目的とし、千葉県内小学校100校に質問紙調査お呼び33校に聞き取り調査を行った。千葉県のことばの教室は、1959年に言語障害特殊学級として早期に設置され、また、140校という数からも先進的な存在である。一方、1993年の通級の制度開始後も、通級指導教室への移行が少ないという他県と異なる特徴がある。本研究では、言語障害特殊学級を残す利点が次の通り明らかになった。1)言語障害特殊学級において10人前後の児童を在... more
    本研究は、公立小学校の言語障害指導の実態調査によるその問題点の明確化を目的とし、千葉県内小学校100校に質問紙調査お呼び33校に聞き取り調査を行った。千葉県のことばの教室は、1959年に言語障害特殊学級として早期に設置され、また、140校という数からも先進的な存在である。一方、1993年の通級の制度開始後も、通級指導教室への移行が少ないという他県と異なる特徴がある。本研究では、言語障害特殊学級を残す利点が次の通り明らかになった。1)言語障害特殊学級において10人前後の児童を在籍させて、担任数2人を維持することが行われている。2)言語障害特殊学級では通級指導教室には少ない幼児指導が多く見られる。また、千葉県の特色である設置校数の多さは、担任数1人でも同じ市内の他校の担当者と定期的に研修会やケース会議を開くことを可能にしている。ただし、経験豊富な担当者が少ないという全国と同じ問題を抱えている。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=361199&tocid=100011146&page=197-210
    本研究は、慈善事業の枠組みの中で成立した聾唖学校が、大正期から昭和戦前期に教育の枠組みに定着していく過程を、福岡聾学校を事例として分析した。その際、官立東京盲唖学校での教員養成と、文部省および日本聾口話普及会による現職教育の講習会の内容、並びに福岡聾学校の教員数と資格別教員構成の推移、教師教育を受けた教師が学校内で果たした役割に着目した。盲学校及聾唖学校令制定前の福岡聾学校では、教師教育を受けた教師は少数であり、彼らは盲唖教育への社会的関心の喚起、学校財政の安定化、卒業生の保... more
    本研究は、慈善事業の枠組みの中で成立した聾唖学校が、大正期から昭和戦前期に教育の枠組みに定着していく過程を、福岡聾学校を事例として分析した。その際、官立東京盲唖学校での教員養成と、文部省および日本聾口話普及会による現職教育の講習会の内容、並びに福岡聾学校の教員数と資格別教員構成の推移、教師教育を受けた教師が学校内で果たした役割に着目した。盲学校及聾唖学校令制定前の福岡聾学校では、教師教育を受けた教師は少数であり、彼らは盲唖教育への社会的関心の喚起、学校財政の安定化、卒業生の保護を含む多領域に亘る役割を担った。一方、同学校令制定後、教師教育を受けた専門的教員の割合が増加し、彼らが口話法による指導体制を支えるとともに、職業教育も拡充された。この過程で、聾唖学校が担うべき役割の中から卒業生の保護が切り離され、聾唖学校の役割は、教育そのものへと中心化していった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=705132&tocid=100046999&page=81-97
    本論文は、アメリカ合衆国の代表的な優生学専門家、P.ポピノー(Popenoe, Paul Bowman... more
    本論文は、アメリカ合衆国の代表的な優生学専門家、P.ポピノー(Popenoe, Paul Bowman 1888-1979)が、カリフォルニア州で実施した「精神病」者と「精神薄弱」者の断種の社会的効果に関する総合的で実証的な連続研究(1927-30)のうち、断種対象論について検討したその結果、以下の点が明らかとなった。1.断種は、要保護層を含むより低い社会階層に多く行われたが、慣習として考慮されていた本人または親族の同意は、実際には、同意せざるを得ない状況があり、遺伝性が濃い患者では実施者の判断が優先された。ポピノーも精神薄弱者では同意を重視しなかった。2.断種は、優生学説を確信する医師の精神病院長または精神薄弱者施設長のイニシアティブの下、心理学・社会学の専門職が支配していた状況で実施されたが、ある場合には親族と当人も関与する、それぞれの利益を求めての共同行為であった。3.ポピノーは、断種を従来の露骨な遺伝論的優生断種ではなく、また、特定階層を対象とはしない、重度の身体障害および病人をも含む広範な人々における任意の断種を強調し、社会適応の重要な条件と考える新しい優生断種論を提起した。彼は、結婚と家族形成、をコミュニティでの生活が成功するためで精神的・情緒的な安定条件として重視した。4.このようなポピノーの提起する断種論に応じて、むしろ積極的に断種手術を受けてコミュニティ生活を選択した人々もいたと考えられる。それは、当時の精神薄弱観や優生思想を認識し、子弟の生活を長期的に展望した、より上位の階層の人々であった。子弟の低所得、養育にかかわる経済的・教育的能力の不足がその理由であった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=442202&tocid=100026623&page=99-114
    本論文は、アメリカ合衆国におけるインクルージョンの成立と展開を支えた社会的文脈を解明する研究の一環として、M.C.ウィル(Will,Madeleine... more
    本論文は、アメリカ合衆国におけるインクルージョンの成立と展開を支えた社会的文脈を解明する研究の一環として、M.C.ウィル(Will,Madeleine C.1945-現在)の特殊教育に関する評価とその鍵となる概念を究明することを目的とする。ウィルは、1983年、アメリカ合衆国教育省特殊教育・リハビリテーション局(OSERS)担当の長官補佐に就任し、後に通常教育主導(REI)の主導者と評価されるようになる。ウィルの構想では、権利擁護や差別解消からの発想・立論と、教育改革に対する政策当事者としての現実的必要性がモザイク的に構成されていた。彼女のREI提唱は、前者の実現という目標と後者の実効的な方法とを両立させるものとして構想された。しかし彼女が直面した現実的課題は、学習困難問題にせよ、古典的かつ喫緊性ある移行問題にせよ、社会的・経済的な複合性をもっていた。また、これらの問題発生の源泉も単純ではなかった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=705132&tocid=100046992&page=1-14
    世紀転換期に、婚姻制限よりも有効な要保護者の発生防止策として登場するのが、去勢と断種(精管切除術)である。まず去勢が、性犯罪・累犯に対する懲罰と抑止、精神薄弱者等の生殖防止と性的抑制を目的として全国的に医師により提起され、少数ながら実施される。しかし、提唱者以外賛成はなかった。H.シャープは、精管切除術を生殖防止を目的として初めて非行者に実施した。去勢論者と類似したその目的は、コミュニティの保護および社会改良、性行動の抑制等の心身の改善、コミュニティでの結婚と家庭の維持であっ... more
    世紀転換期に、婚姻制限よりも有効な要保護者の発生防止策として登場するのが、去勢と断種(精管切除術)である。まず去勢が、性犯罪・累犯に対する懲罰と抑止、精神薄弱者等の生殖防止と性的抑制を目的として全国的に医師により提起され、少数ながら実施される。しかし、提唱者以外賛成はなかった。H.シャープは、精管切除術を生殖防止を目的として初めて非行者に実施した。去勢論者と類似したその目的は、コミュニティの保護および社会改良、性行動の抑制等の心身の改善、コミュニティでの結婚と家庭の維持であった。精管切除術は、第二次性徴の喪失がなく、簡便で安全であるゆえに、支持層は医師や矯正事業中心から社会事業へ、男性のみから男女両性へ、全国的に拡大し、施行もされる。その拡大は、精管切除術の対象を精神薄弱者とし、精神薄弱者の種族と国家に対する脅威説の支持に対応していた。20世紀初頭のアメリカでは精管切除術に対しては、法手続き論と感情論以外に強い反対論はなかった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=295038&tocid=100006519&page=1-17
    19世紀末、犯罪者や障害者など要保護者の発生防止の方法は、優生学の裏づけによって、それまでの要保護者個人に対する道徳的要請から強制的方法へと変わっていく。生殖防止策として総収容と生涯隔離を最善と考えていた精神薄弱者施設長は、それを補完する方策として、婚姻の制限や禁止に ... http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=295050&tocid=100028163&page=3-16
    精神薄弱問題は、20世紀初頭には社会全体の公共的問題に擬せられるとともに、諸科学、なかでも優生学が問題解決に貢献する。1910年代に、19世紀末以来の隔離政策に加えて施行されるコミュニティ生活と断種の関係を、断種数が国内で最も多く実施されたカリフォルニア州で検討した。その結果、州立精神薄弱者施設における過密と入所需要、州資金の不足および精神欠陥発生予防の必要性という現実的状況に対する具体的で有効な対応として、断種が軽度級の仮退所者に実施され、コミュニティ生活が実現したことが究... more
    精神薄弱問題は、20世紀初頭には社会全体の公共的問題に擬せられるとともに、諸科学、なかでも優生学が問題解決に貢献する。1910年代に、19世紀末以来の隔離政策に加えて施行されるコミュニティ生活と断種の関係を、断種数が国内で最も多く実施されたカリフォルニア州で検討した。その結果、州立精神薄弱者施設における過密と入所需要、州資金の不足および精神欠陥発生予防の必要性という現実的状況に対する具体的で有効な対応として、断種が軽度級の仮退所者に実施され、コミュニティ生活が実現したことが究明された。この経営方針の背後には、遺伝的病因論を信奉する優生学志向の州幹部と専門家の存在があった。また、F.O.バトラー施設長は、断種の効用として、生殖防止だけでなく、心身および行動の改善を認めた。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=361199&tocid=100011136&page=81-96
    19世紀後半のアメリカ合衆国で設立された通学制聾学校の設立過程とその意義を、寄宿制学校の内部的問題およびアメリカ社会の発展と関連させて検討した。通学制学校の第一の源は下層聾児に対する教育機会の補充であり、第二は特定上層による口話法の導入であった。寄宿制学校は、現実的な立場から、対象を限定した大都市の補充的な通学制学校に賛成した。しかし... more
    19世紀後半のアメリカ合衆国で設立された通学制聾学校の設立過程とその意義を、寄宿制学校の内部的問題およびアメリカ社会の発展と関連させて検討した。通学制学校の第一の源は下層聾児に対する教育機会の補充であり、第二は特定上層による口話法の導入であった。寄宿制学校は、現実的な立場から、対象を限定した大都市の補充的な通学制学校に賛成した。しかし 1880年代以降、通学制と口話法を一体化した学校が小都市に拡大する段階では、通学制学校は、寄宿制に否定的な理念を装備する。通学制・家庭・公立学校・口話法は、親の願望を満たし、「正常」児との近似と社会適応を達成させ、州にとって倹約となる。この理念は、中産層以上の親の願望を充足し、下層には順応を要求する。通学制学校の理念が受容されるには、都市の改革的な実業家と専門職によって主張された、世紀末の社会混乱を抑制し、新秩序を形成しようとするプログレッシビズムのイデオロギー、同化論へ方向づけられることが必要だった。 The purpose of the present study was to clarify the process and meaning of the establishment of day schools for deaf children in the latter half of the nineteenth century in the United States. This process is related to many management problems of old institutions for deaf children and to social development in the postbellum period in the United States. Day schools originated, first, because of an increase in educational opportunities for deaf children of the lower classes, and second, because of the introduction of the oral method for upper class deaf children. Inst...
    本研究では、政府が視覚障害児・者の教育や処遇問題の改善に取り組み始めた19世紀末のイギリスに焦点を当て、当時の視覚障害者の生活実態と社会の期待との関係を究明することを目的とした。主たる資料として、1889年盲・聾等王命委員会報告書の公聴会議事録を用いた。116回の公聴会における150余名の証言のうち、視覚障害者本人と視覚障害者の教育および救済関係者94名の証言を分析の対象とした。19世紀末イギリスにおいて、「経済的自立」は、人が社会の一員として認められるための基本的な条件であ... more
    本研究では、政府が視覚障害児・者の教育や処遇問題の改善に取り組み始めた19世紀末のイギリスに焦点を当て、当時の視覚障害者の生活実態と社会の期待との関係を究明することを目的とした。主たる資料として、1889年盲・聾等王命委員会報告書の公聴会議事録を用いた。116回の公聴会における150余名の証言のうち、視覚障害者本人と視覚障害者の教育および救済関係者94名の証言を分析の対象とした。19世紀末イギリスにおいて、「経済的自立」は、人が社会の一員として認められるための基本的な条件であった。王命委員会は、視覚障害者の自活を目指した教育の重要性を指摘した。その新しい政策は、救貧費削減という国の利益につながっただけでなく、視覚障害者の生活改善にも大きな影響を与える可能性を含んでいた。一方、完全な自活が困難あるいは不可能であった視覚障害者に対しても、彼らが一定条件を満たしていれば、関係者たちは必ずしも彼らの救済に否定的ではなかった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=506126&tocid=100026420&page=89-99
    1930年代アメリカ合衆国における選択断種論の提唱とその形骸化について、ウェスタン・ペンシルベニア州立精神薄弱者施設長、Harvey Middleton... more
    1930年代アメリカ合衆国における選択断種論の提唱とその形骸化について、ウェスタン・ペンシルベニア州立精神薄弱者施設長、Harvey Middleton Watkinsと他の施設長・精神薄弱専門家を中心に検討した。彼の選択断種論は、出生・養育を除いて、精神薄弱夫婦のコミュニティにおけるノーマルな生活と市民としての地位を認めるという近代社会の原理、そして生活および養育困難の防止と社会適応の促進という社会防衛の矛盾した要素を備えていたが、1928年の発表後に、それまでの優生断種論に代わって他の施設長や精神薄弱専門家に迅速に受け入れられていった。しかしその過程において、ワトキンズの選択断種論の近代的な原理は継承されず、むしろ優生断種論の後継者によって彼の新しい特徴が失われる過程と社会的・歴史的背景を明らかにした。優生断種論を促進する施設長とその支持勢力が存在した南部州では、選択断種論のもう一つの根拠である精神薄弱夫婦の養育困難と生活困難を主たる支持理由に変えたが、この根拠によって、元来、断種導入に保守的だった北東部州でも、大不況期には選択断種の実施が期待されていくようになる。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=574165&tocid=100032932&page=63-80
    川田貞治郎(1879~1959)は1919(大正8)年に知的障害児の入所施設である藤倉学園を設立した。彼は、「教育的治療学」という名で知的障害児に対する教育や福祉の方法論を体系化し、その中の「心練」は具体的訓練方法である。本論文では、第2次世界大戦以前に藤倉学園で行われた実践事例を中心として、川田が体系化した心練について検討した。戦前の藤倉学園は、園児の増加に対応するため、園児を4段階に分けた上で、心練を午前中の第1時~第4時に分けられた学課の時間に実践した。心練の項目は、子... more
    川田貞治郎(1879~1959)は1919(大正8)年に知的障害児の入所施設である藤倉学園を設立した。彼は、「教育的治療学」という名で知的障害児に対する教育や福祉の方法論を体系化し、その中の「心練」は具体的訓練方法である。本論文では、第2次世界大戦以前に藤倉学園で行われた実践事例を中心として、川田が体系化した心練について検討した。戦前の藤倉学園は、園児の増加に対応するため、園児を4段階に分けた上で、心練を午前中の第1時~第4時に分けられた学課の時間に実践した。心練の項目は、子どもの発達の段階に応じて選択され、教師によって指導され、その教授方法は、一対一の個人教授、集団での一斉教授の方法が取られた。また、心練項目の中には、障害を診断する意図を持った項目もあった。心練は、藤倉学園の全ての子どもに対して実践され、体系化は、それらの子どもの実践を通して確立されたものであった。 http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/mylimedio/dl/page.do?issueid=705132&tocid=100047006&page=165-174

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