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権利

 それなりに長いことまあまともに車を運転していると、ごく自然に「権利」というのは関係性だと思えてきます。今自分はどこまでこうして走らせることができるのか、誰かに譲らなければならないのか、待つべきなのか…時々刻々自分に与えられた「権利」と言いますか「優先度」は変化していきますし、原則的にはその則に従って車を走らせれば事故してしまう可能性はかなり低く抑えることができます。それはあくまで「皆その関係性を守っていれば」ということなので、不法(無法)な者がいれば絶対に事故にあわずに済むと言い切れるものではありませんが。


 免許を持っていれば公道で(免許に記載された範囲の)自動車を走らせる権利は当然あります。いえ、免許などなくとも、自転車でも歩行者でも公道を使う権利はあるでしょう。それが自動車専用道路でなければ、車の側が歩行者などを単に邪魔だとすることはできないはずです。
 ただそのみんな持っている権利は、それぞれがどう動いているか、どういうポジションにいるかで強弱がつき、優先される者が決まってきます。それはほとんど自動的に判断されるもので、それほど頭を使う必要もありません。各人がその時その時で自分に許されている分を弁えることができればいいのですが…


 権利というものを考えるとき、その権利は誰が(あるいは何が)守ってくれるのか、またその権利はどこまでどういう局面で有効かということを考えねばならないと思います。権利は往々にして噛み合うものです。その調整役として法などがあるわけです。いつでも常に無条件に「自分の権利」が絶対のものだなどとは考えるべきではないですし、権利=正義(というより権利の侵害=不正義でしょうか)と考えてしまうのは危ういことです。


 漢語の「権利」の語源を尋ねますと、広辞苑などでは『荀子』の冒頭、勧学篇であると記してありますが、ここにある「権勢と利益と。権能。」という語句説明は「権利」を考えるときにちょっとピンボケでしょう。私たちの語感の「権利」は、"right"の訳語としてのそれに重なってきます。
 "right"に「権利」という訳語をあてたのは西周ですが、それ以前に福沢諭吉がこの"right"には適当な訳語がないとして訳せなかったといういわくつきだとか。
 さて「権利」という言葉がなかった時代の日本では、まったく人々は無権利であったかというともちろんそんなことはなくて、それぞれ相応の権利があり利害がありその調整はなされていました。ただそこに「人権(human rights)」の発想がなかったであろうことは確かではないかと思います。


 自然権(natural rights)とか(基本的)人権とか言われる類のものは、今でこそ自明のものとして教えられ私も享受させてもらっている有り難いものではありますが、これはあくまで歴史的・思想的語彙であり、また未だに全世界に徹底しているとも言い難いものでもあるでしょう。
 国家体制のいかんによらず、人は自由、平等、幸福を求める権利を生まれながらに持つというこの権利だけは、法や制度といった人為的な仕組みの上位にある(絶対かつ不可侵の?)権利とされています。私たちが「権利」という言葉に受ける語感は、どこかこの自然権の絶対性に引きずられているのではないかとも思います。でもそういう絶対的な権利というものは「権利」の中の一部でしかないですし、さらに言えば、これを保証する社会体制がないところでは「絶対」とは言い難いのも現実です。これは一つの理想であり、思想なのです。


 この人権・自然権などに重きを置いていないどこぞの国が、ミサイルを傍迷惑にぼこぼこ発射してそれを「主権国家の合法的な権利であり、どのような国際法や朝日平壌宣言、6者会談の共同声明などにも拘束されない」と主張したようですが、それは別に「絶対の権利」でも何でもないことをはっきり私たちは認識しておくべきでしょう(「権利」という言葉に"間違って"納得する人も出てこないとは限りませんね)。
 むしろこれに対しては「ある国の権利は、他国の権利を侵害する形で実現されてはならない」ロシア大統領、ミサイル発射は「失望」・北朝鮮を批判)と語ったプーチン大統領の言葉が全く正当なもので、まあこの言葉を発したのも「政治」というものかもしれませんが、この発言は評価されてしかるべきものだと思います。プーチン大統領がロシア周辺諸国との関係でこの語に忠実に行動されるようでしたら、彼を尊敬するのにやぶさかではありませんが…(笑)


 権利という語の意味やその限界を、今一度私たちは考えてみるべきではないかと思った次第です。