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バルビーノ・ガルベス

登録日:2025/02/10 Mon 00:10:00
更新日:2025/02/10 Mon 22:53:37NEW!
所要時間:約 10 分で読めます




バルビーノ・ガルベスとは元プロ野球選手でドミニカ人投手である。


【プロフィール】


生年月日:1964年3月31日
出身地:ドミニカ共和国
身長:180cm
体重:107kg
投打:右投右打
ポジション:投手
選手歴:ロサンゼルス・ドジャース(1986)→兄弟エレファンツ(1994〜95)→読売ジャイアンツ(1996~2000)→サムスン・ライオンズ(01)
主な獲得タイトル:最多勝(1996)


【概要】


日本プロ野球(NPB)の読売ジャイアンツで活躍したドミニカ人助っ人投手。
素行におおいに難はあったが(詳しくは後述)投手としての実力は一流で、1990年代後半の巨人の投手陣を支えた。

【来歴】


  • 巨人入団前

1981年にロサンゼルス・ドジャースと契約し、1986年にはメジャーデビューを果たすが、10試合に登板して未勝利に終わるなどMLBでは活躍できず、1987年以降はMLB出場はなく3Aや2A(マイナー)を往復する等苦労の日々を過ごしていた。
1994年からは台湾プロ野球の兄弟エレファンツに戦いの場を移したガルベスは先発投手として1年目は16勝、2年目は10勝と2年連続二桁勝利を記録するなど活躍したが、1995年は試合中に乱闘騒ぎを起こすなど素行不良な面が目立ったためかシーズン途中で解雇された。

それでも台湾プロ野球で好成績を残したことで自信を深めたガルベスは次のステップとしてNPBへの挑戦をする。

  • 巨人入団後

1996年のシーズン前、ボビー・バレンタイン前ロッテ監督の推薦もあり、巨人のキャンプに参加し入団テストを受験して合格が決定。当初はテスト生からの入団で、メジャーリーグでの実績も特に無い為『当たれば儲け物』ぐらいの感覚で期待値は高くなかったが、いざシーズンが開幕すると計算できる先発投手が当時エースだった斎藤雅樹しかいない*1先発陣の救世主となり、16勝6敗、防御率3.05で斎藤と共に最多勝を獲得。斎藤とガルベスの二人だけでチームの貯金24のうち22を稼ぎ*2、所謂1996年の大逆転優勝『メークドラマ』の立役者となった。

1997年は、斎藤の不振もあり完全にエース格となりチームが4位に沈む中、槙原寛己に並ぶチームトップタイの12勝と気を吐いた。

1998年も先発投手としてシーズン中盤の7月時点でリーグトップの9勝を挙げてエースとして活躍を見せていたが、後述の審判への暴力事件により残りの1998年シーズン全公式戦出場停止処分を受けてしまったことで後半は出場出来なかった。それでも当時の巨人に実力者のガルベスをクビに出来る程先発陣に余裕があるわけではなかったので、巨人は翌1999年もガルベスと契約を結ぶこととなる。この再契約に当然審判団は猛反発して連盟に抗議文を送り、ガルベスの契約取り消しを求めたが契約が取り消されることはなかった。

1999年は新人ながら20勝4敗、防御率2.09で沢村賞受賞という規格外の成績を残した上原浩治にエースの座は奪われたが、彼に次ぐ準エースとして9勝12敗、防御率3.66を記録。
打線の援護が無かったことから負け越したものの規定投球回にはしっかり到達するなど、先発ローテ―ション投手としての役目は果たした。ちなみにこの年は前年とんでもない事件を起こして出場停止処分を受けていたにも関わらず開幕投手に選ばれている。

2000年はダイエーからFAで工藤公康、阪神からダレル・メイが加入してチームの先発投手の層が厚くなった上、当時の外国人投手枠が二名までしか登録できないのもあり二軍で過ごす日々が増えていった。
その後、中々一軍に上がれないことに不満を抱いたガルベスが代理人を通じて自由契約を要求する騒動が勃発。後に撤回されるが、膝の故障や当時36歳という高齢もあったことから結局この年限りで巨人を退団した。

巨人での5年間では通算46勝43敗、防御率3.31とこの通算46勝という記録は戦前のスタルヒンを除けば巨人歴代外国人投手としては最高である。その為、一つ確実に言えることは素行に難はあれど巨人が自前で獲得したトップクラスの外国人投手と呼べるであろう。


  • 巨人退団後

巨人退団後の2001年はピッツバーグ・パイレーツと契約してMLB復帰を目指す。パイレーツの投手陣に故障者が続出したこともあって一時は先発ローテーション候補にまで挙げられていたが、ここでもチームメイトとトラブルを起こし練習をすっぽかして帰ってしまい、開幕直前に解雇されてしまう。

メキシカンリーグで短期間プレーした後、シーズン途中の5月に韓国プロ野球のサムスン・ライオンズに入団。シーズンでは10勝を挙げて先発投手として活躍し、チームのリーグ優勝に貢献するが、シーズン後半になって「母親の看病」を理由に突然アメリカに帰国してしまう。その後もチームからの復帰要請を『肩の治療』等と理由をつけて6度に渡って拒否するなどまたしてもトラブルメーカーぶりを発揮*3
レギュラーシーズン終了後の韓国シリーズでようやく復帰するが、タイロン・ウッズに2本塁打を浴びるなど全く振るわず、シリーズ敗退の戦犯となってしまった。
上記の素行不良な一面が露呈してしまったことや当時37歳の高齢であったこともあり、契約は更新されず2001年限りでプロ野球選手としてのキャリアに終止符を打った。

現在は母国ドミニカで野球選手育成のアカデミーを経営している模様。


【プレースタイル】


球速150km/超のムービングファストと、シュート、チェンジアップを投げ分ける本格派投手で、丹念にコースを突く制球力も併せ持ち、大柄な風貌と短気な性格に似合わず三振を奪うよりはチェンジアップやシュートでゴロを打たせるのを主なスタイルとしていた。
好調時は相手打者のバットを折る事も多く、相手の芯を外すのに長けていた証と言える。
スライダーも投げられたが本人はスライダーはあまり投げたがらず、自身の得意球であるシュートを投げたがることが多かった。

シーズンを通して先発ローテーションを守った96、97、99年は年間200イニング前後投げて完投も複数回記録するなどスタミナも抜群であった。また投手ながら打力も高く1シーズン2本の満塁本塁打を打つ、横浜スタジアムで場外ホームランを放つなど野手顔負けのバッティングを見せることもあったため、1990年代後半の代表的な二刀流選手といえば彼の名が上がることも多い。ちなみに投手で1シーズン2本の満塁本塁打を打った外国人選手は現在もガルベスただ一人である。

ウィークポイントとしてはメンタル面であり、ランナーが出ると牽制を人一倍し続け審判の判定にも不満を露わにするなど神経質になり、結局それが原因で崩れることも多かった。
ただしガルベス在籍時に投手コーチだった堀内恒夫は「年に何度かは走者に揺さぶられたり、際どい球ボール判定されても冷静な時があったが、その時は決まってコンディションが悪かった。寧ろ少しカッカしているときが調子がいい」とも評している。


【乱闘】



前述の通りメンタル面に難があり、マウンドに上がると人が変わり審判や相手選手ともトラブルや乱闘騒ぎになることが多かった。
入団直後の1996年5月1日のナゴヤ球場での中日戦では山崎武司の頭部付近にボールを投じたことで山崎が大激怒し互いにヒートアップ*4、両チーム総出の大乱闘に発展した。
なお、この一件がきっかけとなりなぜか日本乳業協会のCMに起用され、『カルシウムブソク、シテマンセカ?』という台詞で人気を博した。

ある意味ガルベスを象徴するともいえる最も有名な大立ち回りはそれから2年後の1998年7月31日の甲子園での阪神戦で起きた。
坪井智哉との対戦中に、球審を務めていた橘高淳にカウント2ストライク1ボールからの内角への直球をボールと判定された事に不満を抱く。
そして坪井にその打席でホームランを打たれたことでガルベスは完全に橘高の判定にブチ切れ。それを見ていた当時監督の長嶋茂雄はガルベスに投手交代を告げるも、降板直後ガルベスは橘高に対して、なんと


全力でボールを投げつける



という前代未聞の暴挙を行ったのである。幸い球が当たることはなかったが、当然この事に橘高も大激怒してガルベスに向かっていき、ガルベスも応戦して審判との乱闘という前代未聞の事態に発展してしまう。さらにガルベスを止めに入ったチームメイトの吉原孝介が肘鉄を食らい負傷するとばっちりを受けた。
この一件でガルベスは4000万円の罰金と無期限出場停止処分を受けることとなった*5

長嶋監督はチームおよび監督者として全面的に非を認め、深い謝罪の証として『ファンの批判を受け止めていることを形に表したかった』との考えに基づき翌日以降丸刈りにしてグラウンドに現れることとなった。
この蛮行は、「国民的スターであり読売巨人軍の象徴ともいえるあの長嶋茂雄を丸刈りにさせた」という、特に一定以上の年齢層にとっては大きな衝撃を受ける光景をもたらしてしまったのである。
なお、ガルベス本人は後のインタビューで「あれはボールボーイに投げ返しただけ」と弁明している。

【余談】


  • 前述の乱闘劇から素行不良と思われがちだが、彼を嫌うチームメイトは少なく当時共にプレーした槙原寛巳、村田真一、川相昌弘らはガルベスに対し『マウンドでは感情的になりがちだが、グラウンド外では紳士的でナイスガイ』と人柄は高く評価していたほか、後輩の面倒見も良く1999年に巨人で同僚だった同じドミニカ出身のドミンゴ・マルティネスはガルベスを兄のように慕っていた。また投手コーチだった堀内恒夫を慕っており、堀内が監督に就任した歳には「またチームに入れて欲しい」と売り込みの連絡をしてきたこともあったが、ガルベスが高齢だったこともありこの時は断っている。

  • 後輩への指導力も高く、2000年はシーズン未勝利とからっきしであった入来祐作は翌2001年にガルベスの指導でチェンジアップを習得して投球に緩急をつけられるようになったことで飛躍、先発投手として13勝を挙げリーグ最高勝率投手となるなど一気にエース格まで登りつめた。


  • 98年度終了及び99年新入団選手情報のデータが採用された「パワプロ6」では上記の暴挙を起こした影響からかデフォルトでは収録されず、「ホームラン競争モードで巨人の選手を使用して10球パーフェクトホームラン達成」時のごほうびとして貰える選手となった。当時巨人には松井秀喜がいたので他球団に比べるとまだ達成しやすいほうだが、パワプロ6は他作品に比べ強振が飛びにくい仕様の為そう簡単には登場させられなかった。そして暴挙のイメージのせいか上述の通りチームメイトからは評判が良かったのも関わらずマスクデータとしてチーム全体の能力を下げる「ムード×」を付けられてしまった。



追記、修正は球技をした際に判定に不満があったからといって審判にボールを投げつけない人にお願いします。
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最終更新:2025年02月10日 22:53

*1 平成三本柱の言われた斎藤・桑田・槙原の内、桑田真澄は前年肘の手術をした影響でこの年は登板無しに終わり、槙原寛己は好不調の波が激しくこの年は自身2度目の三者連続被本塁打を浴びた

*2 斎藤の1996年成績は16勝4敗で貯金12、防御率2.36

*3 同時期にニューヨークで起こったアメリカ同時多発テロ事件で飛行機が飛ばなくなり、アメリカに足止めされてしまったのも大きい

*4 この試合は先に中日投手陣が巨人の松井、落合の両名に死球を与えていた事もあり、報復と見なした山崎と「松井と落合は当てられても何もしなかったのに当たっていないお前が怒るな!」とガルベスが共に向かっていってしまった

*5 ちなみにチームメイトの槙原寛己は後に「あの時投げたボールはあいつが日本で投げた中で一番速かった」と冗談交じりに語っていた