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遼東先史遺跡発掘報告書刊行会編『文家屯 一九四二年遼東先史遺跡発掘調査報告書』

2003, 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY

Title Author(s) Citation Issue Date URL <紹介>遼東先史遺跡発掘報告書刊行会編『文家屯 一九四 二年遼東先史遺跡発掘調査報告書』 伊藤, 淳史 史林 = THE SHIRIN or the JOURNAL OF HISTORY (2003), 86(1): 130-131 2003-01-01 https://doi.org/10.14989/shirin̲86̲130 Right Type Textversion Journal Article publisher Kyoto University 死四 二 年 遼 東 先 史 二 二 遼東先史遺跡発掘報告書刊行会編 ﹃文家屯 発掘調査報告書﹄ 遼東半島をはじめとする中国東北地方南 部では︑日本統治下にあった時代︑日本人 八幡一郎氏ら四名が現地調査にあたった︒ め五一点が示された磨製石鎌の存在が目を 果といえる︒石器については︑未製品を含 引く︒朝鮮半島〜九州にみられるものとの 丁や磨製石斧︑石錘など生業復元に重要な 関係が気になるところである︒また︑石庖 ︵第2章︶は︑これら当時の関係者の記述 立地と歴史的環境︵第1章︶︑調甕の経緯 た解説より成る︒日付順に忠実に再録され ともに︑今後基礎資料として活用されよう︒ 資料ももれなく報告され︑精密な実測図と と︑岡村秀典氏による研究の現状に照らし た八幡・澄田両氏の調査日誌は︑内容の詳 掘報告である︵第3章︶︒遺跡と遣購は澄 とに再整理をしている︒東大山は︑累々と された︒おもに岡村氏が︑当時の記録をも る遺跡で︑豊行して踏査され︑〜部が発掘 ︵第5章︶は︑文家屯の北〜西方山上にあ 東大山積石塚︵第4章︶と大頂山遺跡 細さから当時の発掘状況が彷彿とされ︑記 録としての価値も高い︒ 施された︒そのうち︑東亜考古学会による 田氏の記述に基づいてまとめられ︑出土遺 築かれた積石墳墓群のひとつで︑三下の石 本書の主体を占めるのは文家屯遺跡の発 して公刊され︑現在においても基礎資料と 調査成果は︑戦前に欄東方考古学叢刊魅と 野元宏氏︑石器と骨・牙・貝製品は土屋み 物は今回再整理された︒土器・土製品は松 考古学者を主体とする発掘調査が数多く実 しての役割を十分に果たしている︒一方︑ なろう︒文家屯の居住集団の墓地とも評価 な展開過程を検討する上で︑貴重な資料と る︒遼東半島における積石塚の多様で複雑 弥生文化の源流として︑日本の研究水準に されるので︑集落と墓域の関係を追究可能 室から︑郭家村上層期の遺物が出土してい 照らした資料整理が託されたという︒両氏 な成果としても興味深い︒一方大概山では︑ の土器と石器の研究を志す新進の二人に︑ 方波及の様相解明などを目的とするもので︑ は見事にこの要求に膳えていると言って良 標高一五七メートルの山頂付近で文化層が つほ氏が担当している︒それぞれ弥生時代 新石器時代に関する重要な成果が多く含ま い︒土器については︑小破片も含めて総数 確認され︑多数の遺物が採集されている︒ 日本学術振興会が組織した︑梅原末治氏を れているにもかかわらず︑概要が紹介され 六〇五点が呈示され︑その類型や変遷が検 首班とする一連の調査は︑黒陶系文化の東 るにとどまり︑正式な報告が待ち望まれて 討されている︒とくに︑筒形罐における文 ここに紹介する報告書所収の文家屯・東 いた︒ 集落と想定され︑その特異な立地が今後関 文家屯や東大山より一時期下る双市子期の 自然科学的分析︵第6章︶には︑中国社 心を呼ぶであろう︒ ることで︑A区の層位別資料に時期差を認 存続期間を明らかにしたことは︑重要な成 め︑郭家村下層期〜同上工期にわたる遺跡 様帯の分割という悔文原理の変化を読みと 〜部である︒遺跡は大連市郊外に所在し︑ 大山積石塚・大頂山の各遺跡調査も︑その 一九四二年九月〜一〇月にかけて︑当時京 大の院生であった澄田正一氏︑東大講師の (130) 130 動物骨が採取されていた︒遼東半島の先史 遺跡である文家屯では︑員類のほか多くの 土のプラント・オパール分析がある︒貝塚 と︑宇田津徹朗・藤原宏志氏による土器胎 会科学院の衷靖氏による動物遺存体の鑑定 いて︑想定される玉石器生産や狩猟・漁 となるようだ︒性格では︑文家畜遺跡につ 行し︑後者は紀元前三〇〇〇年紀後半ごろ 化中期︑第2層が同後期から龍山文化に併 づけが確認されている︒第3層が大波口文 他遺跡との並行関係や広域編年上での位置 により整理作業の中断や流転を重ねた経緯 れたものの︑敗戦の混乱や氏の異動と逝去 だろう︒調査後に資料は京大文学部に運ば 志が︑原点にあることも忘れてはならない 最も多とするものである︒しかし加えて︑ 整理の実務を担った松野・土屋両氏の労を 若き発掘者のすぐれた問題意識と記録は︑ を表したい︒ の門下の研究者の方々には︑おおいに敬意 り︑刊行に向けた作業も進めていた氏とそ を知るとき︑散逸させることなく資料を守 一九九六年に道半ばで他界された澄田氏の 遺跡でこれらに関するデータはいまだ少な 猟・農耕のありようを述べ︑大盤山遺跡に ついては︑弥生時代の高地性集落を想起し く貴重である︒トラフグの比率の高さが山 東半島と共通の特徴と指摘され︑また若年 いては︑その構造や副葬品からうかがえる 注意を促している︒また東大山積石塚につ 社会構造や集団間関係に言及している︒な で注意されている︒プラント・オパール分 イノシシの比率の高さが︑家畜化との関連 析では︑文家屯A区第3層出土紅焼土の一 その熱意により世代を越えて継承され︑い の作成は︑発掘に携わる者の義務であり︑ ま高水準の報告書として結実した︒報告書 お︑末尾にこの考察をもとにした中文と英 以上は︑調査後六十年を経ているにもか 今後も︑対象とする時代や地域にかかわら 文の要旨が付される︒ を示す結果として非常に注記される︒現状 かわらず︑精細で美しい挿図や写真ともど さかのぼり遼東半島でイネが存在したこと では稲作の伝播までを決定づけるには至ら も見やすく簡素に仕上げられ︑日本におけ その点でも︑参考とすべき点が多い︒中国 ず同種の作業は実施されていくであろうが︑ 点からイネが検出され︑紀元前四千年紀に ないけれども︑縄文後期以前にさかのぼる る中国考古学研究と報告書作成の双方の水 先史考古学の研究者のみならず︑たくさん イネ情報が示されつつある日本列島にとっ いる︒資料呈示の方法やその考え方につい 準を存分に発揮した優れた報告書となって 四七五〇円︶ 京都大学埋蔵文化財研究センター助手︶ 真陽社 写真図版二四頁 ︵B5版 の人々が手にされることを願うものである︒ ︹伊藤淳史 二〇〇二年三月 一二五頁 て︑中国側研究者との間にはなお微妙な相 本書の刊行は︑最終的に澄田氏の仕事を ていくことにも︑つながるだろう︒ 違があるように思われるが︑その溝を埋め ても︑経路を論ずる上で無視できないデー タとなろう︒いずれも︑周辺遺跡での情報 考察︵第7章︶では︑各遺跡の年代や性 蓄積が待たれる︒ めとしている︒年代では︑文総屯での層位 格を中心に︑簡潔な考察を加えながらまと 体制を組織した岡村氏と︑そのもとで遺物 別の土器様相の変化に加えて︑C14年代測 継承し︑科学研究費の交付を受けて刊行の 定結果と︑山東からの搬入土器の様相から︑ (131) 131