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禅宗の起源
伊吹 敦*
はじめに
禅思想は馬祖道一(709-788)によって完成され、その教えは彼が育て
た多くの弟子たちによって中国各地に伝えられていった。また、石頭希遷
(700-790)の一派も、それを追うように教勢を伸ばし、こうして馬祖と石
頭の系統が禅の主流となると、彼らの師、南嶽懐譲(677-744)と青原行
思(?-740)は六祖慧能の二大弟子であったとして、
『宝林伝』
、
『祖堂集』
、
『伝
灯録』等の灯史に、
┌─南嶽懐譲─馬祖道一
菩提達摩─慧可─僧璨─道信─弘忍─慧能─┤
└─青原行思─石頭希遷
という系譜が立てられるとともに、各祖師の詳細な事跡が記載されて禅宗
史の「定説」となり、後世に承け継がれて行ったのである。
近代になって境野黄洋(1871-1933)や松本文三郎(1869-1944)によっ
てアカデミックな禅宗史研究が始まると、これらの「定説」には種々の点
で問題があることが明らかになったが、資料の制約のため、疑うことはで
きても、
それに代わる新たな初期禅宗史を構築することは不可能であった。
それが試みられるようになったのは、敦煌文書が発見され、その中に含ま
れていた従来未伝の古禅籍が徐々に紹介されるようになり、また、それが
契機となって、
日本や朝鮮半島に古くに伝わった古文献や、
『全唐文』
等に含
まれていた碑文等の価値が注目されるようになったことによるのである。
*
東洋大学文学部教授
‒ 19 ‒
かくして、胡適(1891-1962)
、鈴木大拙(1870-1966)
、宇井伯寿(1882-1963)
、
関口真大(1907-1986)
、柳田聖山(1922-2006)
、印順(1906-2005)
、田中
良昭(1933-2016)らの先学によって、新出の初期禅宗文献の解読と、そ
れら相互、
あるいはそれらと伝世文献との比較検討が繰り返されることで、
弘忍の門下から個性を異にする初期禅宗の各派が生まれ、しのぎを削る時
期がかつて存在し、それを乗り超える形で思想を形成した馬祖によって禅
の趨勢が決せられたことが次第に明らかとなっていったのである。
すなわち、その展開を概観すると、道信(580-651)
・弘忍(602-675)の
師弟により、湖北の山中に東山法門が成立すると全国から修行者が集まっ
たが、彼らは一定期間の修行の後に師の印可を得ると、それぞれ故郷に戻
るなどして一派を開き、それぞれに弟子を養成していったのである。この
ような形で成立した初期禅宗の各派として、長安・洛陽の両京で活動した
法如(638-689)
・慧安(?-709)
・神秀(606-706)
・玄賾(生没年未詳)系
の人々(これを一般に「北宗」と呼んでいるが、後に述べる「南宗」とと
もに、この呼称には大きな問題がある)
、四川で活動した智詵(609-702)
系の人々(保唐宗)
、江蘇の牛頭山に拠った法持(635-702)系の人々(牛
頭宗)
、広東で布教を行った慧能(638-713)系の人々(南宗)
、更に慧安
の在俗の弟子であった陳楚章(生没年未詳)に学んだ後、慧能の弟子の自
在(生没年未詳)に師事し、更に保唐宗の無相(694-762)にも学んだ無
住(714-774)系の人々(保唐宗)などがあったのである。
今日、これら各派の著作、思想的特徵、歴史的展開、他派との関係等に
ついてかなり詳しく分かってきているが、これらは、敦煌文書が発見され
る以前には想像もできなかったことであって、客観的に見れば、初期禅宗
史研究は、仏教研究の中でも、短期間に長足の進歩を遂げた分野の一つで
あると評価できるであろう。
しかし、実際に研究を行っている立場からすると、残された課題は余り
に多い。以下、
‒ 20 ‒
1 .新出文献の枯渇と新たな研究法確立の必要性
2 .禅宗成立の意義をどのように考えるかという視点の必要性
3 .初期禅宗史を再構築する上で解明が求められる主な研究課題
a.各地の習禅者や他宗の人々と禅宗との関係
b.達摩や慧可、僧璨と東山法門の接続性
c.南北二宗の意味と「北宗」内の立場の相違
d.荷沢宗から洪州宗への移行過程
という各項目に沿って主な問題点について私見を述べてゆくことにしたい。
1 .新出文献の枯渇と新たな研究法確立の必要性
敦煌文書等の新出文献の新しさに目が奪われ、新たな文献を発見し、そ
れを紹介するというだけで研究業績と見做される時期が長く続いた。それ
には、敦煌文書がロンドン、パリ、北京等の各地に分散されて所蔵され、
閲覧だけでも容易ではなかったことが大きく関わっている。新出文献の発
見と紹介は、それだけで絶対的な学術的価値を持っていたため、初期禅宗
の研究を行うことの意義は何かという、最も基本的な問題提起すら行う必
要がなかった。胡適のように禅思想の価値を理解できないような人が大き
な成果を挙げ、また、田中良昭のように思想に触れることなく、新出資料
の紹介だけを事とする専門家が出てきたのはそのためである。
しかし、その後、状況は様変わりした。各地に所蔵されている敦煌文書
のほぼ全てが影印の形で出版されており、基本的には、研究者であれば誰
もが敦煌文書の全貌を容易に把握できるようになっている。こうした情況
の中では、新たな禅宗文献を発見することは極めて難しく、仮に見つかっ
ても、既に知られている文献の一部というような断片が中心となってきて
いる。もはや、従来の
「宝探し」的な研究法は成り立ちようがないのである。
敦煌文書の現状は以上のごとくであるが、一方で、碑文については、新
‒ 21 ‒
出文献が紹介される可能性がむしろ高まっている。
比較的近い例でいえば、
荷沢神会(684-758)の塔銘の発見や、その弟子、慧堅(719-792)の碑文
の発見は、従来の初期禅宗史に対する見方を根本的に覆すような大きな影
響力を持っているし(竹内弘道1985・冉雲華1994)
、最近発見が続いてい
る在家信者の墓誌銘は、禅宗が在家の人々にどのように受け入れられたか
を示す貴重な資料となりうる(伊吹敦2008・2009)
。最近も河北省の邢台
にあった新羅出身の荷沢神会の弟子、恵覚(?-774)の碑銘が紹介され(楼
正豪2018)
、荷沢宗の展開を解明する重要資料となるなどしており、今後
も、宅地開発等に伴って新たな碑銘や墓誌銘が発見される可能性は十分に
ある。
また、中国、韓国、日本の図書館や寺院等に伝えられている古典籍の中
から、従来の定説を突き崩す発見が行われる可能性もある。最近の例では、
『金沙論』や『跋陀三蔵安心法』の紹介は注目すべきである(定源(王招国)
2019・通然2020)
。前者については、その文献の性格が明確ではなく、現
状ではその影響力は限定的であるが、後者は敦煌発見の『楞伽師資記』の
原資料となった古典籍の発見であり、
『楞伽師資記』そのものの編集過程
を考え直すことにも繋がる貴重なものである。
『跋陀三蔵安心法』は筆者
がかつて論じたように、源信(942-1017)の『菩提心義要文』に引用され
ており(伊吹敦2017)
、これが契機となってこの発見に繋がったわけだが、
これと同様に、日本の古文献に引用されている古逸禅宗文献が見つかる可
能性も否定できず、更に、その引用文を敦煌文書等と照合することで、新
たな知見が得られる可能性もある。
これらの例に見られるように、今後も新出資料の発見が初期禅宗史の再
構築に大きな影響を与える可能性は否定できないが、少なくとも、これま
でに紹介された各種の資料が初期禅宗史研究に与えた巨大なインパクトを
超えるようなことは考えにくい。その点から言えば、新資料の発掘よりは、
これまでに知られた資料の精読と他文献との照合による初期禅宗史の再構
築に研究の中心を移すべきことは明白である。
‒ 22 ‒
従来は、新出資料に基づいて初期禅宗史の構築を目指しても、その後の
新出資料の紹介によって、それが覆され、また一から考え直さなくてはな
らなくなるといった恐れがあった。それが新文献の発見を急がせる一方、
初期禅宗史の再構築がなかなか進まなかった理由であったが、いまや、そ
の恐れはほとんどなくなった。正しく、時は熟したのである。
ところで、初期禅宗史を再構築する際に常に念頭に置かなくてはならな
いのが、禅宗の成立の意義をどのように評価するかという視点である。次
にこの問題について考えてみたい。
2 .禅宗成立の意義をどのように考えるかという視点の
必要性
先に述べたように、従来、初期禅宗史研究といえば、新出文献の紹介が
主であったため、この問題について考える必要がなかった。そうした中で、
達摩伝の変遷と理想化の過程を追った関口真大の『達磨の研究』
(1967年)
や『達摩大師の研究』
(1969年)
、
「灯史」を中心に初期禅宗史の構築を図っ
た柳田聖山の『初期禅宗史書の研究』
(1967年)
、その他の文献を含めて禅
の形成を明らかにしようとした『語録の歴史』
(1985年)等は注目すべき
成果と言える。しかし、関口の研究はそうした達摩像を生み出した禅宗各
派の活動をヴィヴィッドに描き出しているとは言い難く、また、柳田の研
究も、禅宗史書を中心とする種々の禅宗文献の記述を辿るという極めて限
られた範囲での成果に過ぎなかった。要は、禅宗成立の過程を当時の社会、
当時の仏教界の中に置いて、更に言えば、中国の仏教史、思想史の中にお
いてその意味を探るという視点を欠いていたのである。
柳田までの研究は、個々の初期禅宗文献の分析と、文献相互の関係を明
らかにすることで、初期禅宗史の流れを捉えることに終始していた。これ
は確かに不可欠の作業であったと言えるが、これをいくら繰り返しても、
それだけでは、禅宗の人々の活動やその思想が社会にどのような影響を与
‒ 23 ‒
えたかを知ることはできない。それを知るためには、どうしても外部的な
視点が必要なのである。その点で、浄土教家たちが禅宗の人々をいかに見
ていたかを明らかにしようとした一連の拙稿や、在家の禅宗信者の信仰生
活を墓誌銘から窺おうとした拙稿は非常に有意義なものであると考える
(伊吹敦2000・2003・2004・2008・2009)
。また、近年、筆者が提唱してい
る、中国仏教を「都市仏教=国家仏教」と「山林仏教=アウトロー仏教」
とに二分して理解し、後者を母体に成立した最も代表的な宗派が禅宗であ
ると見做そうとする見解は、禅宗の本質がどこにあるのか、また、初期禅
宗各派の消長と、最終的に馬祖と石頭の系統が主流になった理由が何で
あったのかを理解する上で、極めて示唆に富むものであると思う。
このような問題意識は、従来、全くなかったものであるから、この点を
もう少し詳しく述べると、中国の仏教は、その流入の当初から、国家権力
と結びつく形で受け入れられたため、国家公認の仏教では、正式な僧侶は
免税や生活の保証を得るという特権を与えられたが、その見返りに、戒律
の遵守と経論の学習、国家への奉仕という義務を課せられた。しかし、そ
うした正式の僧侶とは別に、国家権力の及びにくい山林には、国家による
束縛を嫌い、自分こそが真の菩薩であるとの自覚のもと、純粹に宗教的な
欲求を満たそうとして、菩薩戒を生活の指針としつつ、頭陀行を中心とす
る修行に励む私度僧たちの群れが存在したが、禅宗を初めとする中国仏教
の諸宗はその伝統の中から生まれたと考え、この認識を前提に、禅宗と天
台宗、三論宗、華厳宗、三階教等との関係や、初期禅宗各派の展開を理解
しようとするのである。このような視点を導入することによって、これら
諸宗の間にどうして類似点や相互交流が見られたのかといった問題だけで
なく、
『金剛三昧経』『法句経』
『心王経』といったいわゆる「禅系偽経」
がどうして禅宗に限らず多くの宗派において用いられたのかといった問題
についても解答を与えてくれるはずである。なぜなら、これらの「禅系偽
経」こそは、
「山林仏教=アウトロー仏教」に属する山林修行者たち、あ
るいは彼らの価値観をよく理解する人々が自らの信念と宗教体験を書いた
‒ 24 ‒
ものであったと考えられるからである(伊吹敦1997)
。
更に、この見方によれば、東山法門が両京(長安・洛陽)に進出した後
に、国家がその指導者を宮中に招いて帝師として遇するという行為は、
「山
林仏教=アウトロー仏教」を「都市仏教=国家仏教」に取り込もうとする
国家の活動と見ることができるし(伊吹敦2012)
、
「北宗」の特異な性格や
戒律重視に転じた理由、それを批判した荷沢神会の主張の意味、その後の
荷沢宗の衰微の理由、両京への進出を目指すことのなかった馬祖や石頭の
系統が勢力を拡大した理由等々を統一的に理解することが可能となる。す
なわち、
「北宗」が禅体験の意義を強調し、
「心観釈」などと呼ばれる奇怪
な経論解釈を事としたのは、
「都市仏教=国家仏教」に取り込まれる中で
禅宗としての独自性を出そうとした結果と見做し得るし、荷沢神会の「北
宗」批判は、その変質に対する正当な主張と見ることができるのである。
更に、
「北宗」だけでなく荷沢宗も衰退したのは、結局のところ、
「北宗」
に代わろうとしたために、
「都市仏教=国家仏教」の枠組みから出られな
かったことによるものであり、それに対して洪州宗や石頭宗の隆盛は、国
家に背を向けて「山林仏教=アウトロー仏教」としての本分を守ったため
と解しうることになるのである(伊吹敦2021)
。
この見解は、筆者が十年ほど前に着想を得、その後、東山法門の人々の
伝記、東山法門と戒律、あるいは国家権力との関係等を個別に研究して行
く中で次第に明確になっていったものである。この見解に対する反響は寡
聞にして知らないが、筆者の考えでは、禅宗成立の意義、禅宗の歴史的展
開を把握するうえで非常に有効な視座を提供するものであると思う。
3 .初期禅宗史を再構築する上で解明が求められる主な
研究課題
上述のように、現在、この分野では、禅宗成立の意義をどこに求めるか
という視点に立ったうえで、初期禅宗史を再構築することが求められてい
‒ 25 ‒
るわけであるが、その場合、特に解明が急がれる研究課題について簡単に
私見を述べておきたい。
a.各地の習禅者や他宗の人々と禅宗との関係
『続高僧伝』等の記述に基づいて、禅宗が成立する以前、あるいはそれ
と平行する時期の習禅者たちの活動や系譜、相互関係等を探ろうとする試
みは古くから行われてきた(水野弘元1957)
。ただ、それらの記載は断片
的なものであるから、師弟関係の一部を明らかにすることはできても、そ
れ以上の成果を挙げることはほとんどできなかった。
しかし、
これらの人々
の多くは禅宗を初めとする中国仏教の諸宗の母体となった「山林仏教=ア
ウトロー仏教」の人々と密接な関係にあったと考えられるから、おざなり
にしてよいという問題ではない。そして、それを明らかにするためには、
伝記のような形式的表面的な研究だけでは不十分で、諸宗の祖師たちの著
作に見られる類似性、彼らによる「禅系偽経」の依用情況とそれらとの思
想的共通性等に踏み込んで研究する必要がある。例えば、筆者が、
『金剛
三昧経』において達磨の著作とされる『二入四行論』と三階教の思想が接
合されているのは、両者に共通する基盤として「非僧非俗」の思想があり、
これが
『金剛三昧経』
の編者を含む山林修行者たちの共有する価値観であっ
たためだと論じたのは、その一例であり(伊吹敦2020)
、こうした地道な
研究を積み重ねていくことが中国仏教の本質、そして禅の本質を明らかに
する上で不可欠な作業となるはずである。
b.達摩や慧可と東山法門との接続性
遊行生活を送る菩提達摩のあり方が慧可にインスピレーションを与えた
ことは否定できないにしても、少なくとも達摩が慧可に教えた内容とされ
る『二入四行論』が、当時の北朝における支配的な教学であった地論宗の
強い影響を受けていることは明らかであって、基本的には慧可が独自に育
んだ思想であったことは否定しがたい(伊吹敦2006)
。そして、彼の主要
‒ 26 ‒
な弟子たちがその思想を奉じていたことも確かであるが、問題は、この『二
入四行論』の思想と後世の東山法門のそれとの間に大きな懸隔があるよう
に見えるということである。この点は、慧可と道信を繋ぐ僧璨の実在性が
曖昧であり、しかも、
『続高僧伝』において達摩や慧可、道信の伝記を綴っ
た道宣(596-667)が慧可と道信の関係について何も知らなかったこと、
更には、達摩や慧可が北地で遊行を事としたのに対して、東山法門が南地
で定住生活を送ったという修行生活のうえで根本的な相違が認められると
いうこととも相い俟って、
「禅宗=東山法門」の源流をいかに考えるかと
いう問題に直結するものである。
これは非常に大きな問題であるにも拘わらず、従来、ほとんど問題にさ
れていない。しかし、筆者は、これについて、
『金剛三昧経』には『二入
四行論』に基づく部分があるだけでなく、東山法門で強調された「守一」
等の思想も認められるが、
『金剛三昧経』が編輯された当時、それが生み
出された北地においては、いまだ東山法門の存在は知られておらず、そこ
に見られる「守一」の思想は、
『二入四行論』を奉じていた北地の慧可の
弟子たちの思想であり、従って、それが東山法門と共通するのは、東山法
門自体が慧可の思想の継承者であったことを示唆するものだと論じたこと
がある(伊吹敦2020)
。この説の当否は更なる検討が必要があるが、今後も、
こうした議論を積み重ねていくことが必要と思われる。
c.南北二宗の意味と「北宗」内の立場の相違
「南宗」と「北宗」とで「頓」
「漸」の相違があるから、
「南宗」が正統
の教えで「北宗」は傍系に過ぎないとし、その根拠を弘忍門下における慧
能と神秀の呈偈の応酬と、正当の証としての達摩の袈裟が弘忍から慧能に
の伝授されたこと(
「伝衣説」と呼ばれる)に求めるというのが禅宗の伝
統説である。実を言えば、この説は中央で権威を確立していた神秀の弟子、
普寂(651-739)に対して慧能(638-713)の弟子、荷沢神会が自分こそが
正統であることを主張するために捏造したものに外ならない。この禅宗史
‒ 27 ‒
の「定説」は、今日から見ると、いかにも子供じみたものに思われるが、
少なくとも、このようなものが説かれるに至った理由が問われなくてはな
らない。
史実としては、慧能も神秀も弘忍の印可を得て布教を開始した。従って、
少なくともその基本思想は共通していたと見なくてはならない。もし、実
際に神会の言うような思想的な相違が存在したとすれば、
「南宗」と「北宗」
の間にあった思想的相違をその宗祖に遡及させたのが、この伝統説だと考
えざるを得ない。しかし、その場合、次のような様々な問題が生ずる。す
なわち、神秀と普寂の間に思想的な相違があったと見るべきなのか。それ
とも、思想的な相違は、慧能と神会の間に生じたもので、神秀や普寂は慧
能と同じ思想を共有していたと見るべきなのか。あるいは、思想的な変化
は普寂と神会の双方に生じたのか。
そもそも、
残された著作を見る限り、
「北
宗」の人々も現に「頓悟」を強調しているのであるから、神会の言うよう
に「南宗」と「北宗」の間に思想的な相違があったということ自体、事実
と言えるのか。もし事実であったのであれば、その相違はどの点にあった
のか。こうした様々な問題に我々は答えねばならないのである。
これは極めて重大な問題であり、その答えを得るには、
「北宗」
「南宗」
の諸文献を丹念に読み、
それらの成立や相互関係を子細に辿る必要がある。
この作業は筆者が現に行っているところのものであるが、先に述べたよう
に、取りあえずの試論として筆者は、本来、
「山林仏教=アウトロー仏教」
として成立した禅宗が両京に進出することによって、戒律の遵守や教学の
重視を迫られ、
「都市仏教=国家仏教」へと変質していったのが「北宗」
であり、その変質に気づき、それを批判したのが荷沢神会(=「南宗」
)
であったが、結局のところ、
「南宗」も「北宗」の轍を踏むことになって
衰退していったとする見解を提出している。山林から両京へという環境の
変化が禅宗に与えた影響が些細なものであったはずがないというのが筆者
の基本的立場である(伊吹敦2021)
。
この「南北二宗」という観念について忘れてならないことは、これは神
‒ 28 ‒
会が自身を正統化するために提出したものに過ぎないということである。
神会は話を単純化して、両京に進出した人々を十把一絡げに「北宗」と呼
んでいるが、実際には法如─元珪系、玄賾─浄覚系の人々は、神秀─普寂
系の人々の活動の影響を受けながらも、それぞれ独自の活動を展開したの
であって、それを個別に辿って行く作業が不可欠である。このような研究
は、筆者が手を付けるまでほとんど行われていなかったもので、恐らくは、
まだ論ずべき点が多く残されているであろう。
d.荷沢宗から洪州宗への移行過程の解明
「北宗」から禅の主流の座を奪ったのが「南宗」
(=荷沢宗)であったが、
やがて洪州宗に取って代わられることになる。それは、神会が「北宗」に
対して行ったような正面切っての対決ではなく、
「敬して遠ざく」形で自
然に淘汰されるのを待つといったものであった。彼らは「南宗」や「北宗」
とは異なり、両京を目指さなかったので、彼らを相手にする必要がなかっ
たのである。ところが、その一方で、彼らは自らを「六祖慧能─南嶽懐譲
─馬祖道一」という形で系譜を慧能に結びつけ、荷沢宗が自派を正統化す
るために捏造した伝衣説や慧能伝をちゃっかりと借用して自らの正当化に
利用した。
ここで問題となるのは、馬祖の思想の独自性をいかに理解するかという
問題と荷沢宗が捏造した諸説を洪州宗が取り込んで自らのものにしていっ
た過程の解明である。前者については、東山法門、北宗、南宗、洪州宗の
間の思想的な展開を、あたかもこの時期に勃発した安史の乱に伴う社会変
動と絡めつつ弁証法的に論述する必要があろう。また、後者については、
荷沢宗系の『師資血脈伝』
『六祖壇経』
『曹渓大師伝』等の文献の成立過程
を明らかにし、また、それらに記される慧能伝の変化とその理由の解明を
行うことが急務である。これらの諸文献の成立には、荷沢神会の弟子で師
の復権に尽力した慧堅のグループが関わっていた可能性が強く、洪州宗の
人々は、彼らの遺産をそのまま継承したようである(伊吹敦2021)
。しかし、
‒ 29 ‒
荷沢宗から洪州宗への移行期に成立した『付法簡子』
『祖宗伝記』
『達磨系
図』
『西国仏祖代代相承伝法記』等の重要な文献が散佚しており、その空
白を埋めつつ考察を行う必要があり、多くの困難が予想される。
むすび
初期禅宗史研究の現状と今後の課題について簡単に述べてきたが、上記
以外にも、牛頭宗、浄衆宗、保唐宗、石頭宗の位置づけ等、残された課題
は多い。ただ筆者は、先ずは禅の主流、すなわち、
東山法門→北宗→南宗→洪州宗
という変化を追うことが当面の急務であり、その輪郭をしっかりと定めた
うえで、
それとの関連のもとで他の課題を追求すべきであると考えている。
そうでないと、初期禅宗史は、これまでと同様、いつまで経っても断片的な
知識の寄せ集めにしかならないと危惧するからである。
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柳田聖山(1985)「語録の歴史:禅文献の成立史的研究」『東方学報』第57号,
pp.211-663.
楼正豪(2018)
「新たに発見された新羅入唐求法僧・恵覚禅師の碑銘」『国際禅
研究』創刊号,pp.15-48.
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