世界には、労働力マーケットが2つある。
高能率労働者マーケットと低能率労働者マーケットだ。
高能率労働者マーケットでは、慢性の人手不足のせいで、賃金が上がり続けている。
企業と労働者の力関係は、圧倒的に労働者の方が強く、
企業は、労働者に頭を下げて、お願いして企業に来てもらっている。
当然だ。
企業は、その労働者から、給料以上の価値を受け取るのだから。
交渉では、常に、より多くのメリットを相手に与える方が、優位に立つ。
当然、高能率労働者の待遇はすごくよい。
これは、単純な需給バランスの問題でもある。
需要が大きいのに、供給が小さいから、労働力の価値が上がっていく。
労働者がでかい顔をする。圧倒的なパワーを持つ。
一方で、低能率労働者マーケットでは、世界的に、労働者の数はどんどん増えている。
その需要を上回るスピードで。
そのせいで、賃金は下がり続ける。ワーキングプアに転落する。
これも、需給バランスの問題だ。
需要以上に供給があれば、賃金はどんどん下がっていく。
ここでいつも3つの意見が出る。
(1)低能率労働者マーケットの労働者は、努力が足りないから低能率労働者マーケットにいる。努力して能率を上げ、高能率労働者マーケットに行くべきだ。
(2)低能率労働者マーケットの労働者は、才能がないから努力しても高能率労働者マーケットに行くことはできない。だから、低能率労働者マーケットの労働者を保護するために、企業を規制し、福祉制度を充実させるべきだ。
(3)実は、能率の違いなんてない。単に高能率労働者は、卑怯なことをやってお金を儲けているだけだ。だから、高い累進課税をかけて、所得を取り上げ、貧しい者たちに分配すべきだ。
ここで、(1)が可能であったと仮定して、そもそも、そんな社会が成立しうるのか、考えてみる。
つまり、過半数の労働者が、高能率労働者マーケットに行ってしまったら、どんな社会になるのか?という話だ。
その社会では、単純労働のかなりの部分が、自動システムに置き換えられてしまっている。
そして、過半数の労働者は、自動システムの、企画、設計、実装、運用、保守に携わっている。
それらは、高度な知識と、戦略と、緻密な計算と、鋭い洞察と、的確な判断と、クリエイティビティが必要な仕事ばかりだ。
スーパーマーケットでは、レジ打ちの人がいない。
全ての商品にICタグがついており、レジにカゴを置くと、自動的に計算され、結果がスクリーンに表示される。
OKならば、ICカードをかざすと、電子マネーで決済される。
レシートも、ICカードの中に格納される。
もちろん、レジの付近はともかく、店内も監視カメラに録画されている。
しかし、そもそも、現金を扱わないので、泥棒が入っても、せいぜい洗剤や白菜を盗むことしかできない。
人々は、それらの高度に自動化された店舗システムを企画し、マーケティングし、戦略を練り、設計し、開発し、マネージメントし、改良し続ける労働に従事する。
大勢の単純労働者が、少数の高度な労働に置き換えられている。
大戸屋も、店内は、間接照明で、花が飾られ、静かに音楽が流れていて、シックな机と椅子で食事できるが、
注文は、テーブルに備え付けられたタッチパネルから注文する。
決済は、ICカードをかざして、電子マネーで支払い、レシートも電子的なものを、ICカードの中に入れてもらう。
食事ができたら、それとなくパネルが点滅し、鳥の鳴き声で知らせてくれるので、できた食事を、
調理室の受け渡し口のところまで、自分で取りに行く。
また、食べ終わったら、自分で返却する。
店舗オペレーションをする人数が、とにかく少ない。
店舗をマネージする会社の社員は、やはり、その自動化されたシステムの企画、マーケティング、設計、開発、マネージメントに携わる。
住宅も、さまざまな建築材が、規格化されたコンポーネントでできているため、
非常に安くできる。たとえば、玄関前に敷き詰める敷石も、
一見、自然石を職人さんが手間暇かけて敷き詰めたように見えるが、
よくよく見ると、規格化されたサイズに削られた石がいくつかひとまとまりに
コンポーネント化されたものを組み合わせるだけでできている。
職人さんに依頼する場合の数分の1のコストになっている。
こちらも可能な限り多くの単純労働が、緻密な戦略とオペレーション設計で、
徹底的に排除されている。
オフィスも、各種の事務処理などの単純作業は、
それらの作業を自動システム化し続ける、半プログラマに置き換えられている。
たとえば、営業事務で、様々な営業案件の進捗や、先方さんとのコンタクト管理、
議事録管理、契約書管理、受注確度、今後の予定、予想案件金額規模などの情報は、
最初は、エクセルで手作業でやっているものの、やりながら、どんどんエクセルVBAマクロで
自動化していく。さらに、一部をMS-ACCESSに置き換えはじめ、上長の承認などの
処理も含めて、どんどん自動化していく。
この社会では、すべての事務作業員は、半分プログラマであり、常にあらゆる業務を
自動化し続けている。
このため、全てを手作業でやり続けるよりもずっと生産性が高い。
経理も財務も、SQL文を自在に使い、関数もマクロも縦横無尽に使って、
どんどん経理作業を自動化し、より高度で柔軟な財務分析を行う。
営業担当は、PCのテレビ会議で顧客と打ち合わせを進めるため、
電車やタクシーをほとんど使わない。このため、移動のコストが小さい。
また、このためタクシーの需要も減り、タクシー乗務員という単純労働者を
以前ほどたくさん必要としない社会になっている。
この社会では、そもそも、単純労働の必要なサービスを消費することが、悪だとされている。
生産性の低い単純労働は、人を不幸せにするから、必要以上に、
単純労働によって作られた商品やサービスを消費するのは、罪悪なのである。
だから、単に注文を取りに来るだけの店員がたくさんいるレストランで食事をするのは、
買春と同じぐらい悪趣味なことなのだ。
このため、人々は、お金に余裕があっても、普通のレストランでは、セルフサービスで
食事をコックさんのところまで取りに行き、食べ終われば、食器を自分で返却する。
由緒ある料亭とか、五つ星レストランとかは昔風のままだけど、そういうのは例外。
このように、労働人口の過半数が、極めて生産性の高い社会では、
人々が必要とする以上の付加価値が生産されてしまうかのように見えるが、実際はそうはならない。
なぜなら、これら、過半数の高能率労働者が生産しているものは、実は、モノでもサービスでもなく、自由時間であり、自由時間こそ、まさに現代の消費者が求めているものだからだ。
高能率労働者たちは、仕事の自動化によって、より多くのモノやサービスを生み出したのではなく、「時間」を生み出したのだ。
人々が、モノやサービスをそれ以上必要としていない社会でさらに生産性を上げようとすると、必然的に、生産性向上によって生み出される余剰価値は、時間の創出に振り向けられる。
これは、要するに、生産者と消費者がWin-Winになるモデルだ。
生産者は、自動化によって単純労働を排除することによって、商品やサービスを極力低コストで提供し、消費者も単純労働が必要なサービスを求めないことで、生産者を長時間働かせないようにする。
生産者は、自動化により、少ない労働で、多くのサービスを生産できるので、あまり長く働く必要は無い。また、その生産者が、自宅に帰り、消費者となるときは、誰か他の人間を長時間働かせることで生産されているサービスを消費せず、自動システムによって作られたサービスを消費するため、多くの労働力を消費しない。
結局、社会というのは、自分の労働力を提供し、他人の労働力を消費することで成り立っているが、他人の労働力をわずかしか消費しないと言うことは、自分の労働力もわずかしか提供しなくても、社会が成立する、ということである。
そもそも、なぜワーキングプアが問題かというと、長時間激しく働いても、生活に必要なものを手に入れられるだけのお金が得られないからだ。お金とは何かというと、他人を労働させてサービスや商品を提供させる権利だ。そもそも、社会のあらゆるサービスが、自動化によって他人をあまり労働させずに手に入れられると言うことは、そもそも、あまりお金が無くても、生活に必要なものは手に入れられるということだ。
あまりお金が無くても、満足のいく生活が送れるのなら、そもそも長時間激しく働く必要など無いのである。
唯一の問題は、石油やレアメタルなどの資源を他国に牛耳られていることだが、後述するように、これは、イノベーションで別の技術や知財や利権を生み出すことで対抗していくという戦略をとれる。それは、アメリカの国家戦略でもあるが、今後、天然資源を持たないあらゆる先進国は、この戦略をとらざるを得ない。つまり、独占には独占で、利権には利権で対抗するパワーゲームを仕掛けるわけである。
話を戻すと、もちろん、通常の労働よりも高い品質のサービスが欲しければ、長時間激しく働くことで、特別な商品やサービスを手に入れることはできる。贅沢したければ、そうすることも可能だ。しかし、自由時間を売り渡してまで、特別な商品を手に入れたいと思わない人たちは、それ以上無理に働く必要はない。
ただ、そういう人たちが、もし、一日の労働時間を短くして、さらに週休4日制になると、
人々の連係プレーが上手くいかない。取引先の担当者が、しょっちゅう休みでは、
社会全体の生産性が落ちてしまう。
このため、人々は、どれかのプロジェクトを担当している間は、
あまり休みを取らずに激しく長時間働く。
しかし、いったんそのプロジェクトが終了したり、別の担当者に引き継いだ後は、
数ヶ月から数年にわたる、長期休暇を取る。
また、余剰の生産力は、単に余暇を生み出すだけでなく、
よりセンスのいいデザイン、レイアウト、便利で快適なサービスへと、
商品の質の向上へと向けられる。
そして、サービスや商品の質の向上を行う労働も、全て、創造的な質の良い労働である。
そして、学校では、全ての子供は、徹底して高能率労働者、もしくは、創造的な仕事をする労働者に
なるように教育され、また、すべての単純労働者は、高能率労働者になるように、
徹底的にトレーニングされる。
こうして、社会全体が、単純労働を減らすように動いている。
文化、気風、時代の空気も変わってくる。
「長く働いたら負け」だとみなが思っている。
「長く働かせるのは悪趣味」だともみなが思っている。
このため、必要とされる単純労働力ももちろん少ないが、それ以上に
供給される単純労働力は少なくなっているため、単純労働力の供給過剰による
価格下落が起きにくく、ワーキングプア問題がかなり緩和されている。
かつて、物を長く大切に使う文化だった日本は、
戦後、「消費は美徳」という価値観を作り出すことで、
物やサービスの需要を拡大させ、
高度成長時代を作り上げた。
同様に、これからは、「長時間労働は悪徳」という文化を作り出すことで、
労働供給を縮小させ、単位時間あたりの労働者の給料を上昇させ、
高度余暇時代を作り上げていくわけだ。
こういう社会であれば、海の向こうで、いかに大量の単純労働力が供給されようと、
それほど驚異にはならない。それによって、労働者の生活が危機にさらされるようなことはない。
そもそも、あまり単純労働力には依存しない社会だからだ。
それどころか、その国は、供給不足の高能率労働者マーケットに、
貴重な労働力を供給することで、余裕のある豊かな国になれる。
もちろん、他の国をさしおいて、その国だけがそれに成功した場合の話だけど。
そして、他の国に追いつかれる前に、その高能率労働者の余剰老労働力を使って、
石油やレアメタルなどの天然資源利権や、ウィンドウズやインテルCPUやゲノム創薬や
各種ブランドなどの知的財産利権によって牛耳られた世界をひっくり返す。
たとえば、エネルギー変換効率が50%の太陽電池を安価に量産する
方法の製法特許をとって産油国以上の利権を握ったり、
レアメタルを使わずに、安価な有機材料だけで高価な素子の製法特許を取って、
レアメタル利権を超える利権を握ったり、
老化による細胞の微細構造の劣化を分子的に修正するタンパク質マシーンを開発し、
老化に伴うアルツハイマーやガンなどの発生を大幅に減らす医療テクノロジーを独占したりする。
まあ、そこまでは無理でも、国家戦略を、そっちの方向で進めていく。
しかし、このシナリオは全て、「労働者の過半数がそのような高能率労働者になれれば」という前提に依存している。
子供のときから算数が嫌いで、コンピュータもいまいち好きになれず、
ブラインドタッチすら怪しく、しょっちゅう手元を確認しながらキーを叩いていて、
ショートカットキーを使って生産性を上げようなどという発想も浮かばない、けれど、明るくて、化粧が上手で、
合コンではモテモテの営業事務のオネーチャンが、
はたして、営業の人たちのニーズをくみ上げ、要求分析し、業務フローを整理し、
全体の情報の流れを戦略的にシステム化し、自動化し、より生産性の高いものへと、
改良していくなんてできるようになるのだろうか?
現在、あまりにも多くの事務職の方々が、パソコンにアレルギーを持っている。
仕事の生産性を上げたい、という意識はあるし、
本屋には、ショートカットキーやエクセルVBAの本があふれているのだけれども、
実際にそれらを使って仕事の生産性を上げるのは、ごく一部の意識の高い人たちだけだ。
旧態依然とした零細企業などでは、事務職の人が、相変わらず
モタモタとマウスでセルを選択し、マウスでメニューをめくっていることも多い。
何度も反復するような作業はたくさんあるのに
ちょっとしたVBAマクロプログラミングやVBScriptで、自動化できるのに、やらない。
大事なファイルとかを、頻繁に手作業でバックアップを取っているけど、
そんなの、バッチファイルかスクリプトを書いて、
それをウィンドウズのタスクスケジューラから、夜中に呼び出すようにしておけばいいとかは考えない。
子供のとき、算数の苦手だった私には、そんな難しいことなんてできないと、
かたくなに信じ込んでいる。
しかし、職業プログラマになるのに比べ、日々のルーチンワークを、
マクロやスクリプトのプログラミングで自動化するのは、
はるかに簡単なことだ。それは職業プログラマにしかできないようなことじゃない。
20行や30行のスクリプトコードを書くのに、オブジェクト指向もアーキテクチャ設計も
二進数もビット演算も、理解する必要はないのである。
そして、ひとたび、あらゆる作業を自動化し、システム化する
くせさえつけば、その次は、システム全体のアーキテクチャをマネージメントする
ことの必要性を、理解するように導いていくことだってできるのではないか?
もちろん、ここで自動化と呼んでいるのは、
法務、人事、経理、総務などの自分の専門分野のスキルをレバレッジするスキルのことであり、
「IT投資」という考え方そのものが間違っているや
現代という時代は、どのようなプログラミングを求めているのか?で書かれているようなことだ。
自動化≒仕組み化≒システム化≒マネージメント≒経営、であるようなもののことだ。
自分の専門分野の業務フローを深く理解した上で、戦略的にもっとも効果的な業務の自動化を行うことだ。
だから、もちろん、そもそも自分の専門分野のスキルがなく、自分の業務をろくに
理解していなければ、自動化どころではないのだが、
「自分の専門分野のスキルさえあれば、それでよい」
と思いこんでいる人は多い。
たとえば、法務や人事の知識は豊富なのだが、
日々の業務の中でしょっちゅう発生する繰り返し作業を、自分でスクリプトを書いてまで、
自動化する気のないひとたちはとても多い。
「スクリプトを書くのは、プログラミングの専門家の仕事であって自分たちの仕事ではない」
という、お役所的な縦割り行政意識がある。
しかし、自動化やマネージメントは、本質的には、あらゆる業務の能率を上げていく
メタスキルであり、とくに日々の業務のなかで発生するちょっとした繰り返し作業は、
その業務分野の専門知識に乏しいプログラマーにアウトソースすると、
プログラマに業務内容を説明するオーバーヘッドの方が大きくなってしまうだろう。
つまりこれは、プログラミングとは経営判断の集積であるで書かれているように、ある一人の人間が、自分の専門分野のスキルと自動化のスキルの両方を持たなければ、本質的に解決できないような、典型的な「ハイブリッド問題」だ。
だから、自動化能力は、本質的に大部分の職種の人が持たなければならない、職業横断的なスキルなのだ。
もしかしたら、問題の根本は、人々にこの認識が欠けていることなのかもしれない。
それとも、それらの、仕事をシステム化し、自動化する能力は、
遺伝子にコードされた脳のニューロンのシナプス結合ところのレセプターの数や
各種の神経伝達物質の放出するメカニズムの細部構造で決まってしまうものなのだろうか?
あるいは、幼い頃の教育で決まってしまうものであり、大人になってからでは、
どうにもならないものなのだろうか?
過半数の労働者に、このシステム化能力を身につけられるものなのかどうかが
分からないために、いつも議論が錯綜する。
すなわち、自己教育資金と適切な教育機会さえ与えれば、あとは自助努力でなんとかできる、
という主張と、それは、時間とお金と努力だけではどうにもならない、才能というヤツのもんだいなのだ、
という主張だ。
これは、やってみなくては分からない問題なのと、
その、適切な教育機会というヤツを、どう与えるか、という問題なのだと思う。
もちろん、パソコンを二本指打法で打っている、50歳でリストラされた、食品会社のオジサンが、
3ヶ月パソコン教室に通っても、ワードとエクセルの使い方を覚えたぐらいはできるかもしれないが
そういう高度なシステム化能力の身につけられるかどうかは、怪しいかも知れない。
しかし、まだ若い、20代、30代の単純労働者たちは、OJTさえ適切に行えば、
なんとかならないのだろうか?
しかし、問題は、誰がその教育コストを負担するのか、ということだ。
それこそ、政府は、そういうことにこそ、お金を出すべきではないのだろうか?
結局のところ、未来の経済や社会のマクロな構造は、
ミクロ構造どころか、労働者の脳のニューロンのレセプターとか神経伝達物質とかの、
ナノの構造で決まっているのか?
それとも、それは、思いこみ、単なる心理障壁に過ぎないのか?
それは、やってみるまで、分からない。