plummet氏から「絶対音感」というちょっと意表をついたネタ振りを頂いたのは、ちょうど2週間前の事だ。
世界の中心で左右をヲチするノケモノ:ブログ漂流~あるいは一つの差別の類型より抜粋。
こういう音楽系の話は、専門家の極道に任せておくべきだったかな。つーわけでどうですかJ2さん(・∀・)ニヤニヤ
「こういう音楽系の話」がどんな話だったかはリンク元を参照。世間一般から見た「絶対音感」という言葉に対するイメージが垣間見れて興味深かった。
plummet氏からパスが来た時は、「よっしゃ、ノートラップでシュートや!」くらいの勢いだったのだが、思いとどまった。自分の経験と思い込みを頼りに自論を書き殴るのは簡単だが、それだけではいささか無責任な感じがしたからだ。
そこで、あらためて1998年のベストセラー「絶対音感」(最相葉月著)を読了し、このテーマに対する思考も少し深めてみた。そんなこんなで、2週間が経過してしまった次第である。
さて、「絶対音感」とはそもそも何なのか。最相葉月氏からの孫引きになるが音楽界で最も権威があるとされる「ニューグローブ音楽辞典」には以下の様に記されているらしい。
ランダムに提示された音の名前、つまり音名が言える能力。あるいは音名を提示されたときに
その高さで正確に歌える、楽器を奏でることができる能力である。
こう説明されてしまうとなんだかそっけないが、対して世間で語られる「絶対音感」にまつわる風評は、はるかに劇的で神秘的なものが多い。しかしそういった風評のほとんどは、正確さを欠いていたり、大仰だったり、絶対音感とは関係の無い話だったりする。いくつかピックアップしてみよう。
- 自然界のあらゆる音が「ドレミ」で聞こえる
正確には、絶対音感を持つ人の中にも「聞こえる人と聞こえない人がいる」。
「絶対音感がある」という物言いは、「英語が話せます」というのと同じくらい幅が広い。「英語を話せる」と一口に言っても「日常会話くらいは」という人から「同時通訳」レベルの人までいるように、絶対音感の持ち主と言っても「ピアノの音に限定」「楽器は限定しないが苦手な音域がある」「体調が悪いと判らなくなる」「1Hzの違いも全て聴き分ける」など様々な人がいる。
- 絶対音感は天才音楽家へのパスポート
「絶対音感」と「音楽の才能」は全く関係が無い。
「優れた視力」と「画家の才能」に例えた人もいるが、いい例えだと思う。そのくらい的外れな話だ。クラシックの大作曲家の中でも、シューマン、チャイコフスキーなどは絶対音感が無かったと言われる。現在ポップフィールドで活躍しているプロのミュージシャンの中で、絶対音感を持つ人は5%に過ぎないと言われている。
ジョンレノンが絶対音感を持っていたなんて話も聞かない。
音楽家にとって、絶対音感は「あると便利なツール」でしかない。
- 不眠症やノイローゼになる人がいる
そう訴える人がいるのは「事実」だろうが、それが「絶対音感」に起因するかどうかは甚だ疑問だ。自分の身近にも絶対音感を持つ人は何人かいるが、みんな心身共に健康そのものだ。「情報を認知する能力」と、「認知した情報をどう消化するか」は別の問題ではないだろうか。絶対音感が無くとも、時計の針の音が気になって眠れない人はいる。冷蔵庫のノイズが気になって眠れないのも、何も絶対音感保持者の専売特許ではない。
- 一度曲を聴いただけで、演奏したり譜面にしたりできる
それができるのは、「既に譜面を書く能力がある人、既に演奏できる能力がある人」だけである。バイエルしか弾けない人が、ショパンの幻想即興曲を1回聴いて弾けるようになるという事は、当然有り得ない。それに、こういった事が「絶対音感保持者以外は無理」なのかというと、そんな事は無い。優れた相対音感の持ち主であれば、実はほぼ同じ事ができる。ただし基準音の特定が出来ない為、CメジャーやAマイナーなど、簡単な調に脳内変換する場合が多い。
ただ、やはり聴き取りの速さ・正確さという意味では絶対音感保持者にはかなわない。
- 純正律に違和感を覚える。
これは良く「絶対音感の弊害」として語られる事だ。
plummet氏んとこのコメント欄でも、若隠居氏が指摘している(さすが博学です)。
ちなみに純正律とは判りやすく言うと「和声がよりキレイに聞こえる様にチューニングした音階」であり、それに対して平均律というのは「1オクターブを12等分した音階」だ。ピアノなどの鍵盤楽器や、殆どの電子楽器はこの「平均律」でチューニングされている。要するに、平均律で絶対音感を身に付けると、純正律が「チューニングが狂っている」ように聴こえて気持ち悪いという話だ。
しかし音階というのは、音の相関関係の定義であり、つまり「相対音感」にモロに関係するものだ。だから、純正律に違和感を覚えるのは相対音感保持者も同じ。平均律以外の音階を知らない、というのが違和感の元凶であり、正確に言うと絶対音感に起因するものではない。しいて言えば、絶対音感を獲得する過程でおそらく刷り込みが強すぎたのだろう。音感そのものよりは絶対音感を身に付けさせるまでの教育手法、過剰な刷り込みに無理があるのかもしれない。
- 移調が苦手
音楽家全体を見ても「移調が得意」「移調大好き」な人は極めて少ないだろう。曲を自在に移調して弾く、というのは高度なトレーニングの積み重ねが必要であり、絶対音感を持たなければ得意になれるという話ではない。これは推測なのだが、絶対音感を持つとソルフェージュの類はたいがいラクにこなせてしまうもんだから、他でラクをしている分、相対的に「移調が苦手」に感じるというだけの話ではないか。
ある程度の絶対音感は、全ての人にあるというのが私の自論である。
「音極道」に「耳道」のコーナーを作ったのも、そんな考えに基づくものだ。
私の場合、ヤマハで聴音などのソルフェージュ教育を幼少期に受けたのだが、6歳の時にカリキュラムを4ヶ月ほど休んだのが影響したのか、結局身に付かなかった。
「耳道」は自分にとっての「リベンジ」なのだ。
最相葉月氏の「絶対音感」に次のような記述があった。
絶対音感の記憶の深さは、よく母国語やバイリンガルに相当する言語の記憶にたとえられる。母国語を獲得する臨界期は六歳頃であり、バイリンガルになる為には個人差はあるが、六~九歳の間に複数の言語に晒されなくては母国語並みに話せるようにはならない。
~中略~
一方、ダイタイ音感は、臨界期以降に習得する外国語にたとえられる。
この記述は、自分の個人的感覚にも合致する。絶対音感の体得過程は「外国語の習得」に近いと思う。だとすれば、何も絶対音感を諦める必要は無い。幼少期の様な急激な進歩はなくとも、地道な変化はあるはずである。
皆さんにもこういう経験は無いだろうか。
自分がいつも歌っているカラオケの18番。曲が始まった時に、イントロがいつもより高いな、もしくは低いな、と気付いた。
とか、
自分の思い出深い曲や、何度も繰り返し聴いた曲など、頭の中で音を正確にイメージできる曲がある。
などなど。これらは紛れも無く「絶対音感」の断片である。
私の場合、頭の中で音を正確にイメージできる曲は以下のような感じ。
- イタリア協奏曲(バッハ)
- 幻想即興曲(ショパン)
- Yenショップ武富士のCM曲
最近では
- そのぬくもりに用がある(サンボマスター)
など。
自分の場合イタリア協奏曲の最初の音(F)をイメージしながら耳道をやると正解率が飛躍的に上がった。みなさんも好きな曲を何度も聴いて、その出だしの音が何なのかをチェックしておくと、自分の中の「基準音」になるかもしれない。
あと、最近耳道へのアクセスもお蔭様で増えてきたので、これを機会に耳道に関して少し解説。
ブラウザのアドレス欄に回答結果のパラメータがあるのでそれを参照すれば、回答直後にその正否を知る事ができる。例えば1問目正解直後のアドレス欄を見て ”http://www.virtual-pop.com/ear/ear_q2.php?q1=Y&dm=26901″
となっていたとすると、”q1=Y”の部分が結果パラメータで、この場合1問目正解という意味。不正解だった場合はここがq1=Nとなる。ブラウザの戻るボタンで戻れば同じ問題をリトライできる。
3問目、4問目は専門的過ぎて初心者の方には不親切であるのは否めない。もともと耳道は「自分」の為に作った頁だったので。最近は、挑戦者もお蔭様で増えてきたので、正解解説の頁を追加するのは前向きに検討したいと思います。
最後に。タイムリーにも、デイリーポータルZで絶対音感ネタが取り上げられていた。
耳道の次はこちらに挑戦してみると面白いかも。
月: 2005年7月
「絶対音感」の虚実
plummet氏から「絶対音感」というちょっと意表をついたネタ振りを頂いたのは、ちょうど2週間前の事だ。
世界の中心で左右をヲチするノケモノ:ブログ漂流~あるいは一つの差別の類型より抜粋。
「こういう音楽系の話」がどんな話だったかはリンク元を参照。世間一般から見た「絶対音感」という言葉に対するイメージが垣間見れて興味深かった。
plummet氏からパスが来た時は、「よっしゃ、ノートラップでシュートや!」くらいの勢いだったのだが、思いとどまった。自分の経験と思い込みを頼りに自論を書き殴るのは簡単だが、それだけではいささか無責任な感じがしたからだ。
そこで、あらためて1998年のベストセラー「絶対音感」(最相葉月著)を読了し、このテーマに対する思考も少し深めてみた。そんなこんなで、2週間が経過してしまった次第である。
さて、「絶対音感」とはそもそも何なのか。最相葉月氏からの孫引きになるが音楽界で最も権威があるとされる「ニューグローブ音楽辞典」には以下の様に記されているらしい。
こう説明されてしまうとなんだかそっけないが、対して世間で語られる「絶対音感」にまつわる風評は、はるかに劇的で神秘的なものが多い。しかしそういった風評のほとんどは、正確さを欠いていたり、大仰だったり、絶対音感とは関係の無い話だったりする。いくつかピックアップしてみよう。
正確には、絶対音感を持つ人の中にも「聞こえる人と聞こえない人がいる」。
「絶対音感がある」という物言いは、「英語が話せます」というのと同じくらい幅が広い。「英語を話せる」と一口に言っても「日常会話くらいは」という人から「同時通訳」レベルの人までいるように、絶対音感の持ち主と言っても「ピアノの音に限定」「楽器は限定しないが苦手な音域がある」「体調が悪いと判らなくなる」「1Hzの違いも全て聴き分ける」など様々な人がいる。
「絶対音感」と「音楽の才能」は全く関係が無い。
「優れた視力」と「画家の才能」に例えた人もいるが、いい例えだと思う。そのくらい的外れな話だ。クラシックの大作曲家の中でも、シューマン、チャイコフスキーなどは絶対音感が無かったと言われる。現在ポップフィールドで活躍しているプロのミュージシャンの中で、絶対音感を持つ人は5%に過ぎないと言われている。
ジョンレノンが絶対音感を持っていたなんて話も聞かない。
音楽家にとって、絶対音感は「あると便利なツール」でしかない。
そう訴える人がいるのは「事実」だろうが、それが「絶対音感」に起因するかどうかは甚だ疑問だ。自分の身近にも絶対音感を持つ人は何人かいるが、みんな心身共に健康そのものだ。「情報を認知する能力」と、「認知した情報をどう消化するか」は別の問題ではないだろうか。絶対音感が無くとも、時計の針の音が気になって眠れない人はいる。冷蔵庫のノイズが気になって眠れないのも、何も絶対音感保持者の専売特許ではない。
それができるのは、「既に譜面を書く能力がある人、既に演奏できる能力がある人」だけである。バイエルしか弾けない人が、ショパンの幻想即興曲を1回聴いて弾けるようになるという事は、当然有り得ない。それに、こういった事が「絶対音感保持者以外は無理」なのかというと、そんな事は無い。優れた相対音感の持ち主であれば、実はほぼ同じ事ができる。ただし基準音の特定が出来ない為、CメジャーやAマイナーなど、簡単な調に脳内変換する場合が多い。
ただ、やはり聴き取りの速さ・正確さという意味では絶対音感保持者にはかなわない。
これは良く「絶対音感の弊害」として語られる事だ。
plummet氏んとこのコメント欄でも、若隠居氏が指摘している(さすが博学です)。
ちなみに純正律とは判りやすく言うと「和声がよりキレイに聞こえる様にチューニングした音階」であり、それに対して平均律というのは「1オクターブを12等分した音階」だ。ピアノなどの鍵盤楽器や、殆どの電子楽器はこの「平均律」でチューニングされている。要するに、平均律で絶対音感を身に付けると、純正律が「チューニングが狂っている」ように聴こえて気持ち悪いという話だ。
しかし音階というのは、音の相関関係の定義であり、つまり「相対音感」にモロに関係するものだ。だから、純正律に違和感を覚えるのは相対音感保持者も同じ。平均律以外の音階を知らない、というのが違和感の元凶であり、正確に言うと絶対音感に起因するものではない。しいて言えば、絶対音感を獲得する過程でおそらく刷り込みが強すぎたのだろう。音感そのものよりは絶対音感を身に付けさせるまでの教育手法、過剰な刷り込みに無理があるのかもしれない。
音楽家全体を見ても「移調が得意」「移調大好き」な人は極めて少ないだろう。曲を自在に移調して弾く、というのは高度なトレーニングの積み重ねが必要であり、絶対音感を持たなければ得意になれるという話ではない。これは推測なのだが、絶対音感を持つとソルフェージュの類はたいがいラクにこなせてしまうもんだから、他でラクをしている分、相対的に「移調が苦手」に感じるというだけの話ではないか。
ある程度の絶対音感は、全ての人にあるというのが私の自論である。
「音極道」に「耳道」のコーナーを作ったのも、そんな考えに基づくものだ。
私の場合、ヤマハで聴音などのソルフェージュ教育を幼少期に受けたのだが、6歳の時にカリキュラムを4ヶ月ほど休んだのが影響したのか、結局身に付かなかった。
「耳道」は自分にとっての「リベンジ」なのだ。
最相葉月氏の「絶対音感」に次のような記述があった。
この記述は、自分の個人的感覚にも合致する。絶対音感の体得過程は「外国語の習得」に近いと思う。だとすれば、何も絶対音感を諦める必要は無い。幼少期の様な急激な進歩はなくとも、地道な変化はあるはずである。
皆さんにもこういう経験は無いだろうか。
自分がいつも歌っているカラオケの18番。曲が始まった時に、イントロがいつもより高いな、もしくは低いな、と気付いた。
とか、
自分の思い出深い曲や、何度も繰り返し聴いた曲など、頭の中で音を正確にイメージできる曲がある。
などなど。これらは紛れも無く「絶対音感」の断片である。
私の場合、頭の中で音を正確にイメージできる曲は以下のような感じ。
最近では
など。
自分の場合イタリア協奏曲の最初の音(F)をイメージしながら耳道をやると正解率が飛躍的に上がった。みなさんも好きな曲を何度も聴いて、その出だしの音が何なのかをチェックしておくと、自分の中の「基準音」になるかもしれない。
あと、最近耳道へのアクセスもお蔭様で増えてきたので、これを機会に耳道に関して少し解説。
ブラウザのアドレス欄に回答結果のパラメータがあるのでそれを参照すれば、回答直後にその正否を知る事ができる。例えば1問目正解直後のアドレス欄を見て ”http://www.virtual-pop.com/ear/ear_q2.php?q1=Y&dm=26901″
となっていたとすると、”q1=Y”の部分が結果パラメータで、この場合1問目正解という意味。不正解だった場合はここがq1=Nとなる。ブラウザの戻るボタンで戻れば同じ問題をリトライできる。
3問目、4問目は専門的過ぎて初心者の方には不親切であるのは否めない。もともと耳道は「自分」の為に作った頁だったので。最近は、挑戦者もお蔭様で増えてきたので、正解解説の頁を追加するのは前向きに検討したいと思います。
最後に。タイムリーにも、デイリーポータルZで絶対音感ネタが取り上げられていた。
耳道の次はこちらに挑戦してみると面白いかも。
TBスパムに完敗しました
以前にも100近いTBスパムの嵐に襲われた事があり、BlackList系のプラグインで弾いておりましたが、今日また50近いTBスパムに晒され、いちいちリスト化してもイタチごっこというか、きりがないので新しいPlugin入れました。
ゑBLOGさんのトラックバックSPAM防止プラグインです。IrregularExpressionさんも導入しているヤツ。
今後、元記事に拙ブログへのリンクが無いトラックバックははじかれますのでご注意ください。
まだ、動作確認できてない(つか、TBがこないと正常動作してるかわからない)ので、もし、トラブルや、TB送れねーぞゴルァ、という方はコメント欄なりメールなりでタレこんで頂ければ幸いです。
「荒らしはスルー」の真意
ブログみたいなもんを続けていると、コメント欄などで不意打ち気味に理不尽なパンチが飛んでくる場合がある。
どんなに当たり障りの無い事しか発言していなくても、理不尽パンチの洗礼を浴びる確率はゼロではない。ましてや、他者から見て刺激的な主張を声高に叫べばその確率は跳ね上がる。
残念ながら、それがネット空間の現実だ。
ネットは、常に「四角いリング」に変貌する危険性を秘めている。
しかしながら、その事を自覚している人は驚くほど少ない。自覚しているつもりでも、いざ自分に「理不尽パンチ」が飛んでくると、その瞬間に我を見失い感情にまかせて暴走してしまう。そして、「炎上」する。
ボクシングのようなプリミティブな格闘技でさえ、「感情的になったら負け」とよく言われる。頭に血が昇ってしまうと、必ずガードはあまくなり大振りが目立つようになる。そうなってしまったらセコンドはもう頭を抱えるしかない。どんなにハートは熱くても頭は冷静に。これはあらゆる勝負事に共通の鉄則である。
ネットには古くから「荒らしはスルーで」という名言がある。
この言葉はネット上の心得としては基本中の基本だが、なかなか奥が深い。
以前、小倉弁護士がこの「荒らしはスルー」について否定的なコメントをした事がある。
ANNEX OF BENLIのコメント欄より以下抜粋。
うーん、こう思ってしまうのも判らないでもない。しかし、この発言は根本的に「スルー」の意味を取り違っている。「スルー」=「泣き寝入り」と解釈してる時点で、パンチくらっとりますがな。ボコボコになっとりますがな。その解釈だと、「相手からパンチくらっても殴り返すな」になっちゃう。そりゃあツライ。
真の「スルー」の意味は違う。要するに「荒らしはスルーせよ」というのはダッキングしろ!ウィービングでかわせ!という事だ。相手のパンチを喰らうな、という事だ。
ボクシングであれば、自分のパンチが当たったら自分の拳に感触が残る。いくら「当たってない」、と主張したところで相手にはバレバレだ。しかしネットでは違う。パンチを放った方も、果たしてそのパンチが相手に当たったのか定かではない。だから、どんな捨てゼリフでも必ず発言者は現場に帰ってくる。相手のリアクションを確かめに。発言した事自体を忘れてない限り、相手のリアクションを確認したくなるのは人間のサガだ。それ故、いつまでもリアクションが無いと発言者は次第に焦れる。そして「もしかしてオレのパンチ当たってなかった?」と不安になる。逆に言うと、どんな内容であれリアクションしてしまうとパンチが「当たった」事を相手に確認させてしまう。そして、相手に次の発言(=パンチ)の機会を与えてしまうのだ。そして不毛な応酬が始まる…
「スルーする」とはそういう事だ。もし相手の攻撃が真っ黒けの反則(不法行為)だった場合はしかるべき措置を取れば良い。「スルー」はあくまで防御技術であって、泣き寝入りとは違う。
さて、こんなエントリーを書く気になったきっかけは、「若隠居の徒然日記」突然の閉鎖を受けてである。
若隠居氏の主張そのものは「概ね」正論だった。「概ね」と付けたのは、氏が感情的にエスカレートしていく過程で、いくつか失言めいたものがあったからで、そもそもの主張は正論だ。というか、「入居を断る時に人種や国籍を理由にしない」というのは、不動産業界でもコンセンサスが既にとれているはずで、本来は議論の余地など無いはずだった。
しかし、いかんせん若隠居氏は冷静さを失いすぎた。甘くなるガード。パンチはどんどん大振りばかりになる。
プロレスリングノアに「橋誠」という選手がいるが、橋誠の闘いぶりとダブった。熱い想いは十分伝わってくるのだが、ひたすら真っ直ぐに突っ込んでいき、空回りする。しまいにはタッグパートナーであるはずの秋山準 に叱咤のビンタを喰らう。(さしずめ、JSF氏が秋山準 というところか?)
なんか表現キツ過ぎ?などと自問自答しながら書いてるが、本心だから仕方がない。
つまるところこれはご隠居への「辛口エール」である。
ご隠居に限らず「ブログ本体」が消え去って自分のブラウザにブックマークだけが残るのは、切ない事この上ない。ダッキング、ウィービングでフットワーク軽やかにいきたいもんですな。自戒も込めて。
[2005/7/23追記]
ちょっと筆が足りないかなと思ってたら案の定bewaadさんからツッコミが来た。
理屈で言えばbewaadさんのおっしゃる通りだと思う。しかし、私が強調したかったのは心構えであり、「かわす」イメージを持つ事で感情のコントロールを「意識」する事だ。
ここが非常に重要なのだが、どんなに明後日の方向のパンチでも現実に自分が攻撃を受けたとき、少なからずショックを受ける場合がある。ダメと判っていても反応せずにはいられない精神状態になるのが人間というものだ。
ダッキング、ウィービングと表現したのは、「かわす」イメージを持つ事が冷静さを保つ上で重要だから。実際に「スルー」する事は時に難しい。
ついでに言うと、相手の批判がもし内心「的を射ている」と思ったら、その時点でパンチは当たっているので観念しようw。
[追記ここまで]
最後に私自身4月以降あえて「スルー」していた人権擁護法にも少し触れておこう。
基本的なスタンスは4月からあまり変わっていない。時期尚早論である。むしろ、若隠居氏のブログでのコメント欄等を見て、ますますその想いを強くした。今の日本では、有意義な人権論議を存分にできるほど社会が成熟していない。本来、人権意識を啓蒙するはずの諸団体は間違った方向に進んでいるし、それをチェックするべきマスコミは腑抜けだ。近年になってやっと憲法改正論議がまともになってきた様に、人権論議もいつかまともになる時期がきっと来る、と思う。
さらに言えば、今の日本で最も深刻な人権問題であるDVや幼児虐待に対して、今の人権擁護法案ではあまりに無力だ。もっと強い介入権限を定めた個別法を順次制定していくべきと思うがどうか?なんて、全然進歩のない主張を今更繰り返すのはちょっと恥ずかしい。
[若隠居氏関連記事]
ミイラ取りとミイラ(週刊オブィエクト)
若隠居さんへ(bewaad institute @ kasumigaseki)
若隠居さんに関連してとりとめなくも併せて。
差別と訴訟と日本人(松坊堂日乗の逆襲)
Re:Re:若隠居さんがブログを閉じた。(Scott’s scribble – 雑記。)
※Re:若隠居さんがブログを閉じた。 若隠居さんがブログを閉じた。も併せて。
追伸:plummet氏から振られた「絶対音感」エントリー。着手してみると話がどんどん大きくなってきて、今さらになって最相葉月著「絶対音感」読むところからやり直してますw。もうしばらくお待ちを。
日本で最もGoogleページランクの高いサイト
前エントリーのコメント欄にて、風見敬吾さんから日本語サイトで最もページランクの高いのは慶応大学WEBサイトのランク9ではないかとご指摘いただいた。
どうやらご指摘の通りの様で、Wikipediaには
と明記されていた。(ちなみに東京大学のサイトも調べてみるとランク9だった。)
Wikipediaを参照する事はしばしばあるが、大概自分の不得手な分野の予備知識を得る為で、Googleに関しては、身の回りに参考書籍などが比較的揃っている事もあって盲点だった。反省。
それにしても、YahooでもHotWiredでも首相官邸でもなく(いずれもランク8)、なぜ「慶応大学」なのだろうか?
ページランクで高い評価を得るには、英語サイトの方がはるかに有利である。言うまでも無く世界で最も使用されている言語だからだ。そこで、慶応大学WEBサイトのEnglish版を見てみると、驚いた事にランク10(最高ランク)だった。これはなかなかスゴイ数字で、本家Wired.comやCNNでさえランク9である。慶応大学サイトの英語版がランク10となれば、そこから直接リンクが張られている日本語版ページがランク9なのもある程度納得できる。それにしても、極東の1大学のWEBサイトがなぜWired.comやCNNなど世界中から参照されるポータルサイトよりランクが高いのか、ますます興味をそそられた。いったい何処からリンクされているのだろう?ちょっと調べてみた。
Googleには、そのURLがどんなところからリンクされているのか調べる機能がある。検索語句の入力欄に、調べたいURLを入力し、その前に”link:”という文字列を付加してあげれば良い。
例えば音極道茶室にリンクしているサイトを調べたい場合
link:http://www.virtual-pop.com/tearoom/
と入力して検索すると、リンク元がリスト表示される。以前はページランク4以上のリンク元しかリストされなかったのだが、最近はそうでもないみたいだ。(というか精度が落ちている気もする)
この機能を利用して、慶応大学サイトのリンク元を検索してみると、あーーなーるほど。思い切り納得してしまった。
リンク元にはW3Cの勧告や関連ドキュメントがどっさり!
検索結果約 3,640 件。そのうち、たぶん8~9割方W3C関連。
W3Cとは、World Wide Web Consortiumの略。WWW技術の標準化と推進を目的とする国際学術研究開発組織で、無理やり強引に例えると、「インターネットのルールを決める国会」みたいなところ(かなり強引)。
で、そのW3Cはマサチューセッツ工科大学(MIT)、欧州情報処理数学研究コンソーシアム(ERCIM)、慶応大学湘南藤沢キャンパス(Keio-SFC)の3機関がホスト機関として共同運営に当たっている。その為、ほとんどのW3C勧告ドキュメントには、
の記述があり、”Keio”の部分が慶応義塾大学サイトへのリンクになっているので、つまりほとんどのW3Cドキュメントに慶応大学への直リンクが張られているという事だ。W3Cのドキュメントは世界中の言語に翻訳され、どのページもランク6~ランク9クラスなので、これはランクが高くなって当然。
ちなみになぜ慶応大学がW3Cのホストに?というと、やはりSFC研究所長村井純氏の功績が大だろう。
JUNET設立者で、「日本インターネットの父」と呼ばれる偉大な人。詳しくはこちら参照。しかし、W3Cのホストをやってるっていうのはあらためてスゴイ事なんだなあと実感。
今日の結論。
ページランクを上げるには、W3Cのホスト機関になればいい。
ページランクリポート 2005/7/15
ほぼ3ヶ月周期でGoogleページランクの大掛かりな改変があるわけですが、ウチも含めて巡回先界隈が本日軒並みランク改変されてました。というわけで例によって報告。
前回リポートと同様、ランクが上がったサイトは色づけしてます。特に濃いのは複数ランクUPです。
何度も言いますがページランクにアクセス数は殆ど影響を及ぼしません。どのくらいリンクされているか。リンク元のページランクはどのくらいか、ってのが最大要因であります。
いや、しかしこの界隈(どの界隈?)はランクUP度が物凄い。地道に続けていればランクは上がっていくのが道理ですが、それにしてもランク5がゴロゴロ。すごい事になってきました。
その中で、ハテナユーザのランクは今回の改変で低めの傾向がより顕著になりました。なんたって、finalventの日記や、ARTIFACTハテナ系、愛蔵太の気ままな日記、おれはおまえのパパじゃない、などの大御所系の皆様が軒並み4のままですから。
大御所と言えば、IrregularExpressionさんが遂にランクUP.なんでこんなに時間がかかったんでしょうか。不思議です。
ご隠居のGooブログは、前回も書いた通り末尾スラッシュの問題があって、ランクが分散してしまう為、「若隠居の徒然日記」は実質5あるでしょうね。スラッシュ有りも無しも両方4にUPしていました。さすがは工作員首謀者です(冗談です)。
どうも、日本語ブログはある程度認知されると殆どが3~5に集約されてしまって、差がつかなくなってしまいますね。「音極道茶室」が切込隊長やら真鍋かをりと同じランクってどうよ?さすがにマズイだろという気がします。-_-;;
海外の有名ブログ、例えばkottke.orgやDAILY KOSなどは軒並みランク8ですからね。やっぱり英語圏は被リンクのスケールが違うのでしょう。
そんな中、オグリンはさすがですね。ANNEXが、本家BENLIの方を早くも抜いてランク6。しかし、更新もコメントも殺伐としてきて肝心の内容が最近はグダグダなのが気になりますが。。。
ただ一応、毎度のエクスキューズですが、改定前後はページランクが不安定になるのでこの数字で落ち着くとは限りません。
[関連エントリー]
ページランクリポート 2005/4/22
ページランクからBlogを読む
ボーダフォンにエールを送る
ボーダフォンが約半年ぶりに契約者数純増に転じた。
これはほんの序章である。以前と同じだけの輝きを取り戻せるかはまだ予断を許さないが、これからは「目の離せない」反撃の一手を次々と繰り出してくるのは間違いない。
暗く長いトンネルの出口が見えてきたと断言しよう。
「暗く長いトンネル」とは契約者数が純減に低迷したこの半年を指すのではない。「J-PHONE」ブランドが消滅した2003年10月からの長い長いトンネルだ。
企業を生かすも殺すも、結局は「人材」である。そして、いくらいい「人材」を抱えていても、その能力を発揮できる「環境」が整ってないといけない。「人材」と「環境」。ロングスパンで見れば、企業が伸びるかどうかはこの2つでほぼ決まりだ。「環境」も「人材」も外からは見えない。だからその変化に誰も気付かない。
「水濡れ修理の保証除外」「ハッピータイムの突如廃止」などまともな神経とは思えない数々の経営判断、その集大成としての「消えた10の約束」。
M&Aだけで巨大化してきたボーダフォングループ経営陣の無能さ、そして誤った経営判断に対して日本人社員が「No」と言う事ができない「社内環境」。それらの問題に世間が気付いた時には、もはやボーダフォンは取り返しのつかないほど大きなモノを失っていた。
そして極めつけが、昨年夏の「希望退職制度の実施」である。
復活の為の最後の砦「人材」までもが大量に離れていく…
おそらく、大量の離職者を生んだ昨年の夏がボーダフォン内部的には「どん底」だった。
「どん底」の体制で生み出された製品が市場に並ぶまでにはタイムラグがある。昨年末からの3G製品群がまさに「どん底」の体制で生み出されたものだとすればその品質のお粗末さも理解できる。それが契約者純減に繋がったわけだ。
そして今、ボーダフォンは既に「どん底」を脱している。
そのきっかけは、「NTTドコモの社長になるはずだった男」津田志郎氏の電撃移籍、ボーダフォン社長就任である。
しかし驚くのはまだ早かった。
津田志郎氏は社長就任わずか2ヶ月後の2005年2月7日、なったばかりの社長を退き会長職に、ボーダフォンUK社長のウィリアム・ティー・モロー氏が日本法人の社長にそれぞれ就任すると発表。
就任後わずか2ヶ月でのさらなる社長交代発表をネガティブに解釈している人もいるようだが、それはとんでもない間違いだと思う。
モロー氏の役割は、本国ボーダフォン経営陣の懐柔であり、それはとりもなおさず日本独自路線を進むという津田氏の並々ならぬ決意の現れである。
これは「攻めの人事」だ。ボーダフォングループ本体経営陣が日本におけるボーダフォン再生の足枷となっている事を悟った故の英断である。そもそも、社長就任2ヶ月では、まだペナントレースは始まっていない。キャンプだけで退任するプロ野球の監督などいない。ただでさえ、津田氏は社長就任を反故にしたドコモへのリベンジという強いモチベーションがある。
「新生ボーダフォン」の象徴は、新しい2つの東芝機種だろう。
1つは、斬新なデザインが話題の着ぐるみ携帯V501T。牛型携帯で話題の「ブル」の着ぐるみが持つ大胆さは強烈で新鮮。この大胆なアイディアを具現化した時点で、次の何かを期待させてくれる。久しぶりにボーダフォン端末で「ときめいた」。
もう1つは、V902T。
実用に耐えうる3G携帯はこれが初めてと言っても良いだろう。これでやっと3Gもスタートラインに立った。反撃はこれからだ。
携帯電話の総契約者数は約8800万人。日本全体の15歳~64歳までの総人口(約8400万人)を超えている。とんでもない数字だ。もはや市場は飽和状態に近づいている。イーアクセスやソフトバンクなどが新規参入してくればさらに競争は激化する。これからは、どのキャリアも契約者純減は珍しくなくなる。
ドコモだってauだっていつどうなるかわからない。
「狙われるもんより、狙うもんの方が強いんじゃ 」 by 広能昌三(仁義なき闘い)
これからのボーダフォンはちょっと楽しみだ。
今年の阪神が強い理由
藤川球児 中継ぎ 防御率 1.01
ウイリアムス 中継ぎ 防御率 2.61
久保田 抑え 防御率 2.11
橋本 中継ぎ 防御率 1.85
江草 中継ぎ 防御率 1.80
上の5人全員登板数30試合以上。
ちなみに、登板試合数が12球団で一番多いのが藤川、2位がウイリアムス。
何この層の厚さw
敗戦処理に出せる投手がいないw
正直な感じ、2003年より強い。
「共通ID」主張するなら真剣に
ネットにおける匿名発言を排除したい一部の方々は、連日あちこちのブログで出張コメントをされているようです。
ただ、ネットでの匿名卑怯者を排除したい、あるいは、共通IDの導入を確実に実現したいというのであれば、自分のブログや他所様のコメント欄でぐだぐた騒いでいても何の意味もありません。
お得意のだだっ子型消耗戦術は通じません。「俺を説得しきれないからって議論を打ち切りやがった。論破だ、論破だ」と叫んでみても、そんなことはお構いなしに連日匿名の発言は増え続けます。
「共通ID」導入論者は自ら積極的にネット世論を説得しなければならないのです。
それには、「共通ID」の実現可能性やインセンティブを、技術的なシミュレーションに則して、具体的かつ論理的に説明できなければなりません。つまり、従前匿名の卑怯者達の発言による被害の実態がどのくらいで、共通IDを導入しないとどの位ネット社会全体に不利益を生じ、またプロバイダーや事業者を圧迫するかを、共通ID導入コストとの比較により、論理的に説明できなければなりません。
ネット世論は、IT技術者に実現可能なのかを確認したり、プライバシーの安全性を再検証したりするわけですから、現状のアーキテクチャではネット社会が立ち行かなくなるという具体的な危惧を論理的に説明できなければそもそも話になりません。
実名論者のうち「共通ID」導入を主張する人々は、まずこれができていないといえそうです。それどころか、「市井の人々のプライバシーなどそれほど重要視するものではない」という意図が見え隠れする人が運動の中心に立つと、むしろ、「共通ID」など実現させてはならないという決意を固くしてしまい、逆効果となるように思います。
そして、ネットでのトレーサビリティについていえば、プロクシや海外中継のアクセスさえ禁止すれば事足りるという多数派のコンセンサスが得られているので、現実的な対策を実施しつつ、非現実的なものを導入しなくとも済むような対案を用意するのがベストです。
非現実的だとコンセンサスが得られているものについて、これを実現しないのはけしからんと言ってみても、通常相手にされません。
また、実名論者も共通ID導入支持者も、未だ少数派にとどまっています。したがって、ネット世論を盛り上げるためには、高アクセスを誇る大手サイトに取り上げられることが必要です。そのためには、たくさんのブロガー、特に匿名性による不利益を判りやすく述べるオピニオン・リーダーの存在が必要です。アルファブロガー系が担ぎ出されてくれればベストですが、少なくとも匿名支持者にもある程度説得力のあるブロガーが表に出ることは不可欠です。
また、プロバイダーやブログ事業者にビジネスモデルを提示し、コスト回収の見込みを聞いてもらうことも必要です。インセンティブも提示できず、コスト負担だけを要求し、共通ID導入賛成に転じてもらおうだなんて、甘いとしか言いようがありません。
そうすると、いくつかのシステムベンダーにはプロトタイプ等を開発してもらう必要がでてきます。机上の空論で議論だけしてみても、実際に「コード」を開発する人が出てこないのであれば、共通IDはそこまで、という感はやはり否めないといえるでしょう。
あとは、行政に関する部分等で、総務省などが暴走するのをかすかに期待するしかなさそうですね。