いまだかつて、自分が「2ちゃんねらー」だとは一度も思った事が無かった。
もし、誰かに問われたならば、自信をもって明確に否定していただろう。
なぜ、「2ちゃんねらー」ではないと自信をもって言い切れたかと言えば
「一度も2ちゃんねるに書き込みを行った事が無い」
という事に尽きる。一度も書き込んだ事が無いのに「2ちゃんねらー」であるわけがない、と思っていた。
しかし、ちょっと自分でも疑念が沸いてきた。それはScott氏の一連の記事を読んで。
- 「事実」「分析」と来たわけだが。
- で、これで「結論」・・・なのか?
上記の記事は物議を醸した日経BPのコラム「ブログで自滅する人々」
を受けてのものだが、Scott氏はこのコラムの筆者も「2ちゃんねらー」だろうと断じている。
で、私もScott氏の意見に概ね同意した。うん、そーだよね、と。
で、あれ?と思った。2の記事からもリンクが貼ってあるScott氏の定義からいけば、私は「2ちゃんねらー」だろう。Scott氏の記事に特に異論も無い。
じゃあ、やっぱり自分は「2ちゃんねらー」なんかな。
そもそも、「2ちゃんねらー」という定義が人によって明らかに異なるように見受けられる。
そこがよくわからない。「2ちゃんねらー-Wikipedia」
を読んでもやっぱりよくわからない。
そもそも2ちゃん「ユーザー」って何?リードオンリーでも「ユーザー」なんかな?
というわけで、唐突だがこれを投票企画にしてみた。
以下に私自身の「2ちゃんねる」との関わり方を列挙する。
それを読んだ上で、私が「2ちゃんねらー」と思うかどうか投票して欲しい。
で、参考にしたいので「なぜそう思ったのか」をコメント欄に書きこんで頂けるとうれしい。
内容は「私」の話だが、ペルソナ設定の一例と捉えれば一般化した議論も可能だろう。
(※一応、投票は連投防止の為にIPアドレスだけ取ってます。直近50名の投票IPを参照してガードをかけてます。)
私の場合。
- ほぼ毎日「2ちゃんねる」にアクセスしている。
- 「2ちゃんねる」に書き込みをした事は無い。
- 「2ちゃんねる」を見る時間は平均すれば一日あたり1時間弱位。
- 必ずチェックするスレは4、5スレ程度。あとは日によってまちまち。
- 「人大杉」で一時期アクセスできなかったので、それ以来「禁断の壷」を使用している。
- 2ちゃん発祥の「祭」に当事者として関わった事は多分無い。
- 「2ちゃんねる」の存在を特に否定しない。実際存在しているのだから、自分なりの利用法を考えている。
- 「祭」の動機が安直だったり、先鋭化した場合は嫌悪感を覚える事も多い。
こんな私は「2ちゃんねらー」だろうか?
スクリプトはとりあえずWindowsのIE6とFirefoxでは大丈夫っぽい。
けど、動作確認は不十分。なので不具合報告などあれば、そちらもコメント欄にお願いします。
月: 2005年11月
耐震強度偽造事件を発見できたのは民間委託の成果
マスコミを賑わす耐震強度偽造事件。11月29日には衆議院国土交通委員会にて、事件の当事者が一同に参考人招致された。その様子はTV放送されたのだが、実に興味深かった。
正直、この事件に関する情報はあまりフォローしていなかった。ただ漠然と、最も責任が重くまた糾弾されるべきは最終的に検査を通した「イーホームズ」じゃないかと考えていた。
ソフトウェア開発に置き換えてみても、バグを出したコーディング担当者よりもデバッグ工程でバグを見逃した試験担当者の方が問題視されるからだ。
しかし、この事件についてはちょっと考えを改めざるを得ない様だ。
姉歯設計士の偽造に気付き、最初に国交省に通報したのが「イーホームズ」だったとは知らなかった。正直驚いた。
マスコミはこの重要なポイントを軽視しすぎじゃないか?
マスコミの論調と、実際の事件の景色とは大きく隔たりがないか?
確かにイーホームズには検査を通した重大な責任がある。しかし、裏を返せば自らの瑕疵が間違いなく糾弾される不祥事を、自ら告発したという事だ。
いまどき、こういう決断ができる企業は貴重だと思うが。
マスコミの論調を鵜呑みにすると、自ら告発しておきながら責任逃れに終始している事になる。しかし、イーホームズが告発していなかったら事件はおそらく今も発覚していない。何か妙ではないか?
委員会では事件発覚までの詳細な経緯が、イーホームズ藤田東吾氏の証言で明らかになった。いずれ議事録が公表されて細かいやり取りはWEB上でも確認できる様になると思うので、明らかになった事実関係だけを箇条書きにすると以下の様な感じ。
さらに藤田氏は重要な新事実を次々に明かす。
内部監査のきっかけとなった外部からの情報提供について詳細を問われると、
「1年ほど前、姉歯氏の偽造をある検査機関が発見したがその事実は隠蔽されたという情報だった」
という主旨の発言。
さらに「その検査機関名」を具体的に問われると、やや躊躇した後、「日本ERI」の名を明らかに。
この指摘は、ヒューザー社長が圧力をかけたとか、木村建設がリベート貰ったなどという末節の話より遥かに重要だ。委員会で突然名指しされた日本ERIは即座に記者会見を開き隠蔽の事実を否定したが、結局、姉歯氏が関与したという物件の安全性は確認できていない。
他には、藤田氏の以下の発言が印象に残った。
この発言を藤田氏の自己弁護と切り捨てるのは容易い。
しかし、この言葉が何かひっかかる。私には、単なる自己弁護とは思えないのだ。
その主張を裏付ける様に、ここにきて平塚市や台東区、長野県など自治体の検査物件にも次々と偽造が発覚している。
日本ERIが検査した姉歯物件も結局偽造である可能性が高い。
そしてこんな報道もある。以下抜粋。
いずれにしても、姉歯氏やヒューザー小嶋社長の言動はこの事件の本質ではない。いまさら圧力だのリベートなどは、スキャンダルではあっても驚く話ではない。
それよりも、「この事件を発見できたのは民間委託の成果」と言った藤田氏の言葉に真実味を感じてしまう私はバイアスがかかっているのだろうか…
もし今も行政のみが確認検査を行っていたら、と想像した時に、「事件発覚」の場面をどーしても想像できない。
余談になるが、国交委員会の質疑で質問相手を藤田氏に絞り数々の新事実を引き出したのは日本一の子宝議員 馬渕澄夫議員である。GOOD JOB。
今回の馬渕議員の質疑はマジで好感が持てた。いずれ民主党を背負う存在になったりして。
「モヒカン族」の不在と、「正しき」技術至上主義者
[2005/11/29追記]
fladdict.netのTaka氏から、当エントリーで取り上げている「はてなブクマ論争から、モヒカン族の本質が見えてきた」の「モヒカン」云々の部分は釣りだった宣言をいただきました。釣りエントリーを絶賛してしまうといういささか間抜けな構図ではありますがw、しかしながら、本エントリーの主張が変わる事はありませんので、修正せずに記事はこのまま残します。「モヒカン」云々の部分はスルーという事で一つ。
fladdict.net のエントリー「はてなブクマ論争から、モヒカン族の本質が見えてきた」 が素晴らしい。しかし、ぶくまコメントを見る限りなんとなくTaka氏の問題提起が正しく理解されていないようにも思える(Taka氏ご本人にその真意を確認した訳ではないので、私の方が思い込みで解釈している可能性も否定はできないけど)。
とにかくこの記事に刺激を受けてしまったので、私自身が考える「技術至上主義」についてちょっと言及しておきたくなった。
Taka氏の上記エントリーから、私自身が読み取ったメッセージはこうだ(超訳)。
いや、これはちょっと超訳し過ぎかもしれないが…
ちなみに、Taka氏は11月20日のエントリー「はてなブクマのコメントを隠すブックマークレット」 で、まさに「技術至上主義」な視点を提示した。正直「やられた」と思った。今回の記事もこの延長線上にある。
いずれにしても、Taka氏は自身を「技術至上主義者」と位置づけ、またこの言葉をポジティブな意味で使用している。そこがキモだと思う。
さて、こっからが私自身の主張になるのだが。
プログラマを始め、ソフトウェアに携わるすべての技術者にとって「技術至上主義者」は1つの理想形だと思っている。すべてのソフトウェア技術者は「正しく」技術至上主義者であるべきだ。
「正しい」技術至上主義者とはどういう意味か?
話を具体的に進める前にちょっと脇道に逸れるが、サイバー法の世界的権威ローレンスレッシグが1999年に書いた「CODE」という名著がある。この本は多くの人に読まれているのだが、プログラムを開発した事の無い人がこの本を読むと非常に多くの人が「誤読」してしまう。
以前、企業か財団法人かは失念したがどこかの会長さんの挨拶原稿(pdfファイル)をネット上で拾った事がある。その挨拶では、レッシグの「CODE」について言及していた。思い出しながら書くが、曰く
これ典型的な誤読パターン。この会長さんは、「CODE」の本の中で「コードは法である」という章がなぜ冒頭にあるかを理解していない。過去も現在も未来も「コードは法」なのだ。これは逃れられない現実であり、将来予測ではない。
レッシグが予測したのは、いずれ「権力」がその「現実」に目をつけてコードに対してどんどんコミットしてくる世の中になる、という未来であり、(サイバー空間において)「コードは法」であるというのは、「当たり前の事」として理解するべき現状認識でしかない。
そして、この「コードは法である」という事実を認識する事が、「正しい」技術至上主義者の第一歩だ。
「法」とは社会の秩序を保つためのルールだ。サイバー空間において秩序を形成するのはまぎれもなく「コード」である。
コードが無ければ、人はサイバー空間に存在する事すらできない。CPUはコードが無ければ微塵も動作しない。キーボードを打鍵すれば割り込みハンドラという「コード」がイベントを処理し、上位アプリケーションへ通知する。ブログにコメント欄があるのは、ブログ設計者がそう設計したからだ。コメント欄を閉じるという選択肢がブログ主に与えられているのも、はてなのぶくまコメントが50文字以内なのも、全て設計者の意図だ。サイバー空間においては様々なソフトウェアが連携してその森羅万象全てを司る。あるアプリケーションを人が操作する時、そのアプリの設計者はその空間において全知全能の「神」となる。だからこそ責任が重い。プログラム言語だけ知っていても優秀な技術者にはなれない。
私は大企業社員時代、ある携帯キャリアの交換ネットワーク開発に携わった。全国のネットワークセンターに設置するオペレーション端末のアプリ開発リーダーだった。この時の経験は今でも貴重な財産だ。
とにかく仕様書のレビューを徹底して行った。実際に端末を操作するオペレータにも何度も参加してもらって意見を聞いた。
例えば、オペレータが直接入力するフィールドがあって、その桁数が48文字だったとする。そうすると、すかさず「なぜ48文字なのか」説明を求められる。設計者は全ての質問に論理的根拠をもって答えられないといけない。
「そのフィールドの全ての入力パターンを洗い出し、さらに全体のディスク容量や新たな入力パターンが追加された時の事を考慮に入れて決定した仕様です」
と自信を持って答えられるだけの根拠だ。
48文字で仕様が決まったとしよう。これを詳細設計に落とし込むとまた新たな問題に直面する。
「万が一48文字を超えた入力があった時にどうハンドリングすべきか」
要するに準正常ルートである。
またオペレータに意見を聞く。すると、状況によってエラー画面を出して欲しい場合と、超えた分はカットしてデータ格納して欲しい場合がある事が判る。それを仕様にフィードバックする。
どんな些細な事でも曖昧にできない。「決定」しなければならなかった。「全知全能の神」のつらいところだ。
なぜここまで仕様検討を徹底したかというと、逼迫した線表ゆえに開発工程後の仕様変更が絶対に許されなかったからだ。責任重大だったので当時は必死だった。
しかし、この時の経験のお陰で「コードは法である」という感覚は体に染み付いている(と思う)。
社会で機能する法設計をするには、まず社会を熟知しなければならない。そして人間を熟知しなければならない。
サイバー空間において、「コードが法である」以上、コード設計も同じ責務を負っていると思う。ユーザーが人間である以上、技術の知識だけでは良い技術者にはなれない。
私のイメージする「正しい」技術至上主義者とは、いい加減でワガママな人間の問題を技術の問題に翻訳して解決しようという発想を持つ人である。技術による「大岡裁き」である。
そんな訳で、今回のTaka氏の主張にはおおいに共感した次第。
[2005/11/26追記]
なんだか大事な点が抜け落ちている感じがしたので追記。
Taka氏のエントリーから読み取った「メッセージ」にさらに1つ追加するとしたら、
「Let’s CODE!!」
だろう。ぶくまコメント問題に関して、結局みんな「発言」するばっかで誰も「CODE」を書かなかった。
実際にCODEを書いたのはTaka氏だけだ。私が「やられた」と思ったのは、「実際にCODEを書くという行為」であって、「Bookmarkletによる解決方法」そのものではない。
というか、ぶくまコメント問題そのものの落しどころは正直わからない。Taka氏も同様の趣旨の事を「Bookmarklet」エントリーに書いている。
「考えて判らないのなら、試しに何かCODEを書いてみよう」そーゆー発想の人がもっといるかと思ったのに、という想いが出発点にある。
「モヒカン族考察」が出発点ではないので、そういう意味で誤解を招きやすいのかもしれない。
「ブックマーカー」ブックマークの恐怖
先日、アクセス解析を見ていたら、見慣れないリンク元からのアクセスを発見した。
そのリンク元URLが全く見覚えの無いものだったので興味本位でアクセスしてみた。
アクセスしたそのサイトの左上には、「Momonga Bookmark」というロゴ。聞いた事がない。デザインはなかなかこざっぱりしていて美しさと機能性のバランスが良い感じ。Googleツールバーを見るとまだページランクは0。
新興のソーシャルブックマークサービスかな?と最初は思った。よく見るとその横に
「モモンガブックマークは『ソーシャルブックマーカー』をブックマークする全く新しいサービスです」
という解説文。
「うーん、はてなブックマークでいうお気に入りみたいなもんだろうか?」
TOPには「現在の注目ブックマーカー」がリストされている。そこには、はてなブックマークでも見覚えのあるidがいくつか見えた。
「あー、なるほど。 Alpha Clipper Clipsみたいなところなのかな」
と思いつつ、注目ブックマーカーの一番上にリストされている名前をクリックして見た。日本における著名な「ギーク」の一人だった。
そこには、ちょうど「はてなブックマーク」と同じ様に短いコメントが並んでいた。唯一つ、はてなとの明らかな違いはコメントの殆どが英語だった事。ごく稀に、日本語やフランス語のコメントも混ざっていたが、大半は英語だった。
「うぉ、ナニコレ!オモシロそう!」
よく見ると、各コメントの横に言語選択のボタンらしきものがあった。「ja」のボタンをクリックすると、そのコメントが即座に日本語に切り替わった。Ajaxっぽい。どうやらこのサイトは完璧なマルチリンガルを実現しているらしい。これは自動翻訳だろうか。その割にはほぼ完璧に違和感の無い日本語になっていた。
私はすっかり夢中になって各コメントを読み漁った。
…しかし、読み進めるうちにその内容に愕然とした。心なしかマウスを握る手が震える。
「この人、日本じゃ一応”ギーク”らしいよ。」
「”アルファブロガー”でもあるってwww」
「これはひどい」
「ブックマークコメントも酷いが、その元記事も酷いね」
「これは是非Timに読ませたい。どんな顔するかなw」
他の「ブックマーカー」もチェックしてみた。
日本では「勝ち組」であるはずの面々が軒並みネタにされていた。
自分の中の価値観が混乱し始めていた。
特に、”Ajax”や”WEB2.0”といった言葉に無条件反応してClipしまくっているブックマーカーは大人気だった。
「ちゃんと記事読んでるのかよ」
「あとで読む、らしいよwww」
こんな調子だ。読んでるうちに気分が悪くなった。
「モモンガブックマーク」は、海外の正真正銘の「アルファギーク」達が、日本の「ソーシャルブックマーカー」の傾向やレベルの低さをネタに楽しむサイトだったのだ。
これはフィクションである。
「モモンガブックマーク」なんてサイトは(多分)実在しないし、日本のネットユーザーは(多分)笑いモノになるようなレベルではない。
この話は要するに、「トゥルーマンショー」である。当事者でしかないと思っていた自分が実は想定外の観客に注視された「ショーの出演者」だったという構図だ。その現実にある日突然直面してしまった時に、人は誰でも少なからずショックを受けるはずだ。想定内であれば、ショックは小さくて済む。はてなユーザーが、はてなブックマークでネタになったところで、それほど驚かない。
でも、「ソーシャルブックマーク」という存在を全く知らず、理解も出来ないレベルの人から見れば「はてなブックマーク」は「モモンガブックマーク」以上に気味の悪い場所に感じるかもしれない。
彼らは「ブクまコメントの内容」以前に、自分が知らない場所で「ショーの出演者」になっていた事にショックを受ける。
ブクまコメント論争や、無断リンク論争など、どれも突き詰めれば「情報弱者と情報強者の軋轢」だ。その根本原因は共通している。
そして、ネット世界は基本的に、情報格差がもつある種の「残酷さ」を内包した世界だ。オフラインの社会に比べて「情報弱者をサポートする仕組み」が圧倒的に少ない。能動的に「情報」を摂取し続けなければあっという間に取り残される、完璧な「弱肉強食」の世界だ。
それが良いとか悪いとか言いたいのではない。この現実を忘れがちな人が多いのではないか、と言いたいだけだ。
ネットにおける「強者と弱者」は相対的なものでしかない。自分より強者が現れれば、その時点で自分は弱者だ。「モモンガブックマーク」のストーリーではそれをデフォルメしてみた。
ブログという言葉が一般的に認知された事で、ネットには今まで以上に「情報弱者」が無防備に大量流入してきている。WEBページがHTMLで書かれている事も知らない人々だ。彼らとどう対峙していくべきか。これからも思わぬ形で「情報格差の軋轢」が次々と表面化するだろう。その覚悟だけはしておいた方が良いと思う。自らが「弱者」側になる可能性も含めて。
「悲しいとき」ミクシィ編
悲しいとき
自分が招待した人が、全然やる気なかったとき
悲しいとき
コメントキター!と思ったら「メンテナンスのお知らせ」だったとき
悲しいとき
「お気に入り」に入れてた人が退会していたとき
悲しいとき
「ブロガー」コミュのトップ画像が「渡辺淳一」になってたとき
悲しいとき
誰もミクシィに招待してくれないとき
自分は「2ちゃんねらー」かもしれない
いまだかつて、自分が「2ちゃんねらー」だとは一度も思った事が無かった。
もし、誰かに問われたならば、自信をもって明確に否定していただろう。
なぜ、「2ちゃんねらー」ではないと自信をもって言い切れたかと言えば
「一度も2ちゃんねるに書き込みを行った事が無い」
という事に尽きる。一度も書き込んだ事が無いのに「2ちゃんねらー」であるわけがない、と思っていた。
しかし、ちょっと自分でも疑念が沸いてきた。それはScott氏の一連の記事を読んで。
上記の記事は物議を醸した日経BPのコラム「ブログで自滅する人々」
を受けてのものだが、Scott氏はこのコラムの筆者も「2ちゃんねらー」だろうと断じている。
で、私もScott氏の意見に概ね同意した。うん、そーだよね、と。
で、あれ?と思った。2の記事からもリンクが貼ってあるScott氏の定義からいけば、私は「2ちゃんねらー」だろう。Scott氏の記事に特に異論も無い。
じゃあ、やっぱり自分は「2ちゃんねらー」なんかな。
そもそも、「2ちゃんねらー」という定義が人によって明らかに異なるように見受けられる。
そこがよくわからない。「2ちゃんねらー-Wikipedia」
を読んでもやっぱりよくわからない。
そもそも2ちゃん「ユーザー」って何?リードオンリーでも「ユーザー」なんかな?
というわけで、唐突だがこれを投票企画にしてみた。
以下に私自身の「2ちゃんねる」との関わり方を列挙する。
それを読んだ上で、私が「2ちゃんねらー」と思うかどうか投票して欲しい。
で、参考にしたいので「なぜそう思ったのか」をコメント欄に書きこんで頂けるとうれしい。
内容は「私」の話だが、ペルソナ設定の一例と捉えれば一般化した議論も可能だろう。
(※一応、投票は連投防止の為にIPアドレスだけ取ってます。直近50名の投票IPを参照してガードをかけてます。)
私の場合。
こんな私は「2ちゃんねらー」だろうか?
<!–
function execVote(){
if( document.voteform.vote[0].checked == false && document.voteform.vote[1].checked==false){
alert("投票内容を選択してください。");
return;
}
xmlhttp = this.XMLHttpRequest ? new XMLHttpRequest() : new ActiveXObject("Microsoft.XMLHTTP");
xmlhttp.onreadystatechange = function(){
if(xmlhttp.readyState == 4 ){
if( xmlhttp.status == 200 ){
var targetdiv = document.getElementById('voteresult');
var retval =xmlhttp.responseXML.getElementsByTagName('retval');
var retcode = retval[0].getElementsByTagName('code')[0].firstChild.nodeValue;
if( retcode==0 ){
targetdiv.innerHTML= '投票は受け付けられました。‘ ;
}
else if(retcode==1){
targetdiv.innerHTML= ‘直近の投票で同一IPを検出しました。
連続投票は出来ません。‘ ;
}
else{
targetdiv.innerHTML= ‘エラーが発生しました。‘ ;
}
}
else{
alert(“Error: “+xmlhttp.status+” “+xmlhttp.statusText);
}
delete xmlhttp;
}
}
xmlhttp.open(‘POST’,’/tearoom/chuser_vote.php’,true);
if( document.voteform.vote[0].checked ){
votevalue = 1;
}
else{
votevalue = 2;
}
xmlhttp.setRequestHeader(“Content-Type” , “application/x-www-form-urlencoded”);
xmlhttp.send(‘vote=’ + votevalue);
}
function dispVote(){
xmlhttp = this.XMLHttpRequest ? new XMLHttpRequest() : new ActiveXObject(“Microsoft.XMLHTTP”);
xmlhttp.onreadystatechange = function(){
if(xmlhttp.readyState == 4 ){
if( xmlhttp.status == 200 ){
var resdiv = document.getElementById(‘dispresult’);
var grdiv = document.getElementById(‘egraph’);
var yesdiv = document.getElementById(‘dispchuser’);
var nodiv = document.getElementById(‘dispnochuser’);
var retdata =xmlhttp.responseXML.getElementsByTagName(‘data’);
var retcode = retdata[0].getElementsByTagName(‘code’)[0].firstChild.nodeValue;
var chusercnt = retdata[0].getElementsByTagName(‘chuser’)[0].firstChild.nodeValue;
var nochusercnt = retdata[0].getElementsByTagName(‘nochuser’)[0].firstChild.nodeValue;
var chuserper = (chusercnt / (Number(chusercnt) + Number(nochusercnt)))*100;
var nochuserper = 100-chuserper;
if( retcode==0 ){
resdiv.innerHTML= ‘
現在の投票状況
‘ ;
grdiv.innerHTML=’‘;
grdiv.innerHTML+=’‘;
yesdiv.innerHTML = ‘‘;
yesdiv.innerHTML+= ‘ おまえは2ちゃんねらーだ: ’+chusercnt+’ 票 (‘+Math.round(chuserper)+’%)’ ;
nodiv.innerHTML = ‘‘;
nodiv.innerHTML += ‘ おまえは2ちゃんねらーではない: ’+nochusercnt+’ 票 (‘+Math.round(nochuserper)+’%)’ ;
}
else{
resdiv.innerHTML=( ‘
データを取得できませんでした
‘ );
yesdiv.innerHTML=( ‘おまえは2ちゃんねらーだ: — 票’ );
nodiv.innerHTML=( ‘おまえは2ちゃんねらーではない: — 票’ );
}
}
else{
alert(“Error: “+xmlhttp.status+” “+xmlhttp.statusText);
}
delete xmlhttp;
}
}
xmlhttp.open(‘POST’,’/tearoom/chuser_disp.php’,true);
now = new Date();
xmlhttp.send(‘now=’+now.toLocaleString());
delete now;
}
// –>
スクリプトはとりあえずWindowsのIE6とFirefoxでは大丈夫っぽい。
けど、動作確認は不十分。なので不具合報告などあれば、そちらもコメント欄にお願いします。
Flash演習-徘徊するドットが描くイラスト
O’reillyの『Flash Hacks』に紹介されているHACK #2を応用してちょっとしたコンテンツを作ってみた。
「RANDOM」「FACE1」「FACE2」の3つのボタンがある。
ステージ上には2×2ピクセルのドットがランダムに散乱している。「FACE1」「FACE2」のボタンをクリックするとそれらのドットが徘徊して、ある人物の顔を描いていく。誰の顔かわかる?
ドットが粗い上に、2階調なのでちょっとわかりづらいかも。一人は女優。一人は政治家。
「RANDOM」をクリックすると、ドットが再びランダムに散らばる。
プログラムは超シンプル。ボタンハンドラを除けば空行やコメント行を含めても80ステップに満たない。
swfファイルサイズも8kByteをわずかに超える程度だ。
まずステージ上に、ドットオブジェクト(インスタンス)を2400個生成する。Flash上ではオブジェクトが2500個を超えると急激にパフォーマンスが落ちるらしく、少し余裕を見て2400個とした。
で、ボタンをクリックする度に各ドットオブジェクトに目的地を設定してあげて、ドットのEnterFrameハンドラに、目的地へ移動するメソッドを設定してあげるだけ。このメソッドはHACK本のものをそのまま使った。
絵を描くような目的地をいかにして割り出すかというところがこのHACKのミソなわけだが、けっこう力技。HitTestを使って地道に上からドットを舐めていく。
ActionScript(Macromedia Flash)は、オブジェクト指向を学ぶのに最適なツールだと思う。
オブジェクトがそのまま目に見える物体になる。メソッドはその挙動になる。アトリビュートを変更すればオブジェクトの位置や態様の変化が目に見える。これほど直感的に学べるツールはない。
JavaScriptとかだと、ブラウザ互換だとか本来のプログラミングと関係ない余計な気を遣わないといけないがFlashはプラットフォームが(一応)統一されているので、余計な気遣いも少ない。
オープンソース系の人にはどちらかというと不人気なFlashだが、少しでも興味を持ってくれる人が増えるとよいなー。今後も折を見てFlash演習モノエントリー続けていきます。
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by G-Tools小泉純一郎と麻生太郎
第三次小泉内閣がスタートして二日が過ぎた。ブログ界隈では早くも秀逸な分析がたくさん出てきている。
圏外からのひとこと:小泉遺言スクリプト内閣
Bewaad Institute@Kasumigaseki 第三次小泉改造内閣発足
Bewaad Institute@Kasumigaseki 続・第三次小泉改造内閣発足
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(1):麻生外相の重要な意味。
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(2):安倍官房長官の試練と竹中総務相の飛躍。
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(3):政敵は閣内に、忠臣は党に。
かみぽこぽこ 小泉内閣改造を読む(4)そして、森喜朗と古賀誠。
どの記事も素晴らしいので後でじっくり読んでいただければと思う。
政治や経済に詳しい論客はネット上にヤマほどいるので、そういう視点で語ってもほとんど私の出る幕はないだろう。なので、このエントリーでは「人間」という視点から語ろう。個人的に最も興味があるのもその部分だ。
そして、「小泉純一郎」と「麻生太郎」は、今の政治家で一番興味を持っている「人物」である。今回の組閣と絡めて、この2人について少し語ってみたい。
小泉のポリシーを一言で表すなら、「人物指向」だと思う。首相就任当初打ち出した、「一内閣一閣僚」という方針にもそのポリシーは如実に現れている。
「まる投げ」と時に批判されたその政治手法も、見方を変えれば政策そのものよりも、「人」への信頼を重視したが故のスタイルと言える。
「人それぞれ考えがありますからねぇ…よく話し合って、適切な結論を出していただきたいと思います」
というフレーズは小泉が番記者とのインタビューで頻繁に用いるものだ。自身の悲願であった郵政民営化を度外視すれば、このようなスタンスで小泉は終始一貫している。
そういう意味で、「組閣」というのは小泉純一郎にとって極めて重要なイベントである。
というか、最大の楽しみでもあったろう。組閣人事に思いを馳せるのは、小泉にとって至福の時間だったに違いない。自分自身の「人間を見抜く能力」を証明できる絶好の機会。まるで「三国志」や「信長の野望」といったシミュレーションゲームで武将の配置に悩むように、プレーヤー小泉はその状況を楽しんでいたに違いない。こんな楽しみを他人に邪魔されたくはないだろう。そう考えれば「独断専行」型人事も当然だ。
「三国志」や「信長の野望」では、各地に配置した武将達は次のタームから独自に働き出す。プレイヤーがいちいちコマンドを与えなくても、配置された武将の能力や性格を基に、コンピューターが自動的に各地を治めていく。essa氏の「スクリプト内閣」という表現を見たとき、そんなシミュレーションゲームの光景を思い出した。そういう感覚は、以前からあったような気がする。第一次内閣の時からすでに「スクリプト内閣」という性格はあったのだと思う。
「人間を見抜く力」は、歴史小説でもしばしば美談になる。織田信長が秀吉を見出したエピソードなどはその典型だろう。歴史小説をこよなく愛する小泉にとって「人間を見抜く力」は自身の美学にも重なるはずだ。逆に、誤った人材登用をしてしまえば、それすなわち「敗者」であると歴史小説では相場が決まっている。
そこまで考えた時に、小泉には耐え難い汚点があった事に気づく。
田中真紀子の外相登用・更迭である。
bewaad氏は、先に紹介した記事の中で、
と述べているが、外交問題を軽視していたのではなく、小泉は本当に田中真紀子を「見誤っていた」のではないかと思っている。
小泉は、「一内閣一閣僚」の方針反故+自らの支持率20%以上ダウンという大きな犠牲とひきかえに田中真紀子を更迭した。当時、まだ世論は田中真紀子に同情的だった。内閣支持率の低下がその証左だ。本当に外交問題を軽視していたなら、もっと田中外相へのバッシングが強まるまでタイミングを伺ってもよかっただろう。
しかし小泉はそうしなかった。
外交を重視していたからこそ、早急に「敗北」を認めざるを得なかったのだと思う。
小泉の目を曇らせたのはやはり「血統」だろう。その血統にありもしない「ロマン」を見出してしまったのだろう。責任ある地位に立てば、隠れた能力が引き出されると勝手に想像してしまったのだろう。
とにかく、小泉は見誤った。言い訳のしようも無い。自らの読み違えのせいで「一内閣一閣僚」の方針を守れなかったのだ。
小泉自身、この件を「4年半にわたる政権運営の中での最大の失敗」と考えているのではないか。
そこで「麻生太郎外務大臣」の登場である。
これは小泉純一郎入魂の決断と見た。
ポスト小泉レースという文脈も当然あろうが、それ以上にこれは小泉自身の「リベンジ」なのだ。小泉はもう一度「賭け」に出たかったのだ。もう一度「吉田茂」という血統の「ロマン」に賭けたのだ。
実は私自身、麻生太郎の「大化け」に密かに期待する一人である。
麻生太郎は、ご存知の方も多いと思うが「吉田茂」を祖父にもつ。
まあ孫と言ってもいろいろあるだろう。名馬の子がまた名馬とは限らない。しかし、麻生太郎の母親が三女の和子というのがポイントだ。
三女の和子は聡明で性格も茂そっくりだった。吉田茂の最大の理解者であり、良き話し相手でもあった。吉田茂の駐イギリス大使時代は、大使館の会計を全て和子が取り仕切っていた。首相時代も永く秘書として吉田茂を支えた。後年、吉田茂が「尊敬する人は」と問われ「娘、和子」と言わしめた程の女性。それが麻生太郎の母親である。
麻生太郎の外相就任会見におけるユーモア溢れるやりとりが早くも話題となっている様だ。一方で、過去の様々な失言を理由にその資質を疑問視する人もいる。
思えば、吉田茂こそ「ユーモアと失言」の宝庫である。
心筋梗塞で倒れ、見舞いに駆けつけた武見太郎に向かって「臨終に間に合いましたね」と言い放つ文字通り命を張ったギャグセンスは尋常ではない。
また、国会答弁にて西村栄一(民主党西村真悟の父)の挑発にのって「バカヤロー」と口走ったのがマイクにのってしまい、衆議院解散にまで発展した「バカヤロー解散」はあまりにも有名だ。
吉田茂-Wikipedia
には他にもユーモアと暴言・放言に関する数々のエピソードが紹介されている。
こうしてみると、麻生太郎は少なくともユーモアと放言癖に関しては確実に「血」を受け継いでいる様であるw。
では肝心の「政治家としての資質」はどうか。果たして彼は「平成の吉田茂」になれるのか。
正直、この点についてはまだ「未知数」である。政治家としての麻生太郎はまだ底を見せていない。放言癖は麻生太郎の資質を否定する理由にはならない。それこそ、「吉田茂」という前例があるのだから。
郵政民営化という大仕事の中で、「総務大臣」という重責を無難にこなしたのは評価に値する。少なくとも田中真紀子クラスの無能ではない事は既に証明されたと言って良い。
外交官出身の吉田茂は、まさに「外交の人」であった。外交にこそ吉田茂の真価があった。
その直系である「麻生太郎」が、遂に日本外交のTOPになったのだ。聞くところによると、本人も外相を希望していたと言うではないか。
ああ、「吉田茂の再来」という妄想が頭から離れない。とりあえず「ユーモアと放言癖」は完璧に受け継いでいるという点が妄想に拍車をかけるw。
もし麻生がホンモノならば、「対中強硬路線」などという薄っぺらい括りでは語れない味のある外交をしてくれるはずだ。
祖父の吉田茂は、対華21ヶ条の要求にただ一人反対して左遷の憂き目に遭い、その一方では「親米」のレッテルを貼られ、軍部から外相就任のダメ出しを喰らうような外交官だった。そんな男が今こそ必要なのだ。
これは血統の「ロマン」である。「夢」である。ディープインパクトである。
小泉は今回の組閣について、「適材適所」という言葉を繰り返した。なんとなくではあるが、小泉は私と同じ「ロマン」を麻生太郎に見ているのではないか。
考えてみれば、郵政民営化が正念場を迎える第2次内閣において、麻生を総務省のTOPに据えたのだ。そして今度は外相である。第1次内閣では政調会長だった。
実は小泉人事で最も厚遇されているのは麻生かもしれない。小泉の麻生に対する「人物評価」は恐ろしく高いはずだ。ポスト小泉という意味では、私もかみぽこ氏と同様麻生太郎が一番手と見る。
いずれにしても、麻生太郎が外相としての真価を発揮した時、小泉人事の真の「サプライズ」が始まる。