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ポラリスが降り注ぐ夜・文庫版

個人のための言葉、あるいは小説家の使命【後編】

『ポラリスが降り注ぐ夜』文庫化&「肉を脱ぐ」連載開始記念対談

李琴峰さんの代表作にして芸術選奨新人賞受賞作『ポラリスが降り注ぐ夜』が待望の文庫化! 単行本刊行時に対談していただいた村田沙耶香さんと、あらためてその魅力について、また激動する世界のなかで、いま小説家が書くべきこととは何か、前・後編の2回に亘って、存分にお話しいただきました。

承認欲求との付き合い方
 デビューしてエゴサしまくっていたのは私の体験でもあるんですよね(笑)。自分の作品が発表されてどういう反応が返ってくるか、やっぱり知りたいのはあって。悪口や批判を見たら傷つくのはわかっているのに、エゴサがやめられないのはなぜなんだろうと考えたときに、この主人公のように、自分の身体に嫌気がさしていてこの世界にいたくない気持ちが、身体に拠らないもう一人の自分に存在してほしいという思いになって小説を書いたわけで、そのもう一人の自分を確認するためにエゴサをしているんだと思うんです。というより、自分がエゴサすることについて考えていたら、この主人公が生まれたんです(笑)。まあ、もっと簡単に言ってしまうと承認欲求なんですよね。基本的に作家って承認欲求の塊なので。

村田 私も承認欲求はあると思うんですけど、難しいのは、ひとによって満たされるポイントが違う気がしていて、純文学ではあまり聞かない気がするのですが、エンタメとかマンガのひとだと部数が承認欲求のポイントである場合があると聞いたことがあり、あまり自分にはなかった観点なので驚いたことを覚えています。
 文学賞を大切に思っていたり、尊敬する作家さんからの言葉が気になったり、ひとによって満たされるところが意外とまちまちだという気がします。
 自分はどこで満たされるのかよく考えるんですけど、基本的に、小説に関する部分では自分を満たさないようにしているのだと思います。強いて言えば、お会いしたりお手紙などで感想を聞いているときかもしれません。だから、サイン会がなくなったのは、けっこう寂しく思いました。

 承認欲求はブラックホールみたいなもので、永遠に満たされないものだと思うんです。だからこそこわい。

村田 そうですね。私はなるべく小説で満たされないようにしようと思っていて、そのかわりに、コンビニ店員をしていたときは、なるべく最高のコンビニ店員になることでできるだけ承認欲求を満たしていました。書くことで居場所を作ろうとすると壊れるということはなんとなく理解していて、中学生のときに友達四人で紙をホッチキスで留めた雑誌を作ったんですね。私は、小説の神様に向けて書いている小説は絶対に人に見せないで、友達に見せるためにそれ専用の小説を書いて。それでも褒められると嬉しくて、そのことが凄くこわかったです。そのころから、小説と承認欲求を結びつけることにかなり恐怖があります。
 同様に賞というのもすごくこわくて、中学生作家としてデビューを目指そうと思ったことがあって。小説は私にとって唯一の、人間の顔色を伺わずに小説の神様のためだけに言葉を探せる場所だったのに、真逆のものを書いてしまって。そのとき、自分は小説を汚してしまったと思ったんです。小説の神様のためではなく、人間としての自分の愛情飢餓を満たすために小説を書いてしまったと。承認欲求に駆られて書いてしまった小説の汚さをすごくおぼえていて、こういうことはやめようと思いました。小説のことを絶対に裏切ったらいけないんだと。
 でもこの主人公がエゴサーチしてしまう気持ちもわかるんです。やっぱりデビューしたばかりだと自分の居場所がないと思うでしょうし、たとえばパーティーとかに行って、「あなた誰、なんでいるの?」みたいに思われるよりは、「村田さん、お久しぶりです」とか「こないだの短編を読みましたよ」って言ってもらえると、「自分は呼ばれていない場所に来てしまったわけじゃないんだ」って感じられますよね。でもそれに溺れてしまうのもこわいですし、難しいです。

 溺れるのがこわいというのは?

村田 教会が壊れてしまうからだと思います。私の場合、小説はひとりでやっている新興宗教みたいなところがあって、小説の神様と対話しているような感覚にわざと陥るようにして、それにいつも引き摺られています。教会の中に小説の神様がいて、ただその神様に捧げるために小説を書いていて、ただそれだけでいたくて、なるべく純粋な信者でいないと精神状態が危うくなってしまうんです。昔、私の命が危うかったときに、精神がそういう構造になってしまったのだと思います。だから、小説の神様にお祈りするための教会に、自分の祈りの外側にあるものが入ってくることがとてもこわくて。私だけがお祈りする場所が奪われたり壊されたりしてしまったら、たぶん死んでしまうという危うさがあってこわいんです。

 ただ、プロの作家として小説を書く際に、編集者だったり校閲の意見だったり、必ず誰かしら他人は入ってきませんか。

村田 言われて気がついたのですが、さきほどひとりでやっている新興宗教と言いましたが、同じような教会で祈っているひとが他にもたくさんいると思っているみたいですね。編集者さんや校閲のひとも、私と全く同じ宗派ではなくても、小説という宗教の信者なのだろうなと、勝手に思い込んでいた気がします。
 編集者の方で自分より信心が深いというひとがいて、たとえば『タダイマトビラ』という作品で、「カゾクヨナニー」という家族愛を言い換えた言葉のシーンを書いたとき、担当の方が「カゾクヨナニー」ってどういうことなんだと自分より追究しだして、「カゾクヨナニーはこんなものじゃない!」とか言い出すようになって、小説への信仰の深さに感動しました。

 小説が自分が作り上げたカルトなり新興宗教だとしたら、それを読んではまった読者は信者になったひとという感じですか(笑)。

村田 小説と読者との関係はものすごく個人的なものだと思っていて。好きな本に対して作者を超えた読み手のオリジナルの世界を構築したり、作者がまったく想像しなかった光景を発見したりして、その人から流れ出る特別な音楽をそこに発生させるようなイメージを抱いています。サイン会でお手紙をくれる読者の方にしても「感動しました」とか「村田さんはすごいです」と言ってくださることもあるのですが、それは私よりも、私が道端にそっと置いておいた小説と読者の方がどこかで出会って、感動したり面白がったりしてくれた読者のほうがすごいと思うんですね。作品を読んで、そのひとのなかで起こった化学反応がすごいのであって、読者こそがクリエイターなんだと思っています。

 なるほど。読者を自分の宗教に入信させるのではなくて、読者が勝手に出会って、そこで勝手に関係が築かれるという感じなんですね。

村田 私もそういう粘着質な読書をするタイプなので、それが嬉しいということですね。

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