中村 新刊の『言霊の幸う国で』を拝読させていただきました。琴峰さんの覚悟を感じるので簡単に感想は言えないのですが、私がまず感じたのは、主人公であるLが栄光を手にしたはずなのにむしろ孤独になってることです。自分の住んでいた国や自分に与えられてしまった性別といった自分が望まないものから逃れて、望む自分になるために行動しているのに、栄光を手にしたことによって、逃れてきた過去がすべて戻ってきてしまう構造の無情さでした。
にもかかわらず、Lが自分は小説を書くことでそういうものに折り合いを付けてきた、いままでもそうだったし、これからも小説を書いて乗り越えると決意する場面は勇気を貰ったし、私も自分の生業しかすがれるものがないなと、似た感覚になることがあるので、読み進めるうちに心が落ち着いていくのを感じました。
私も誹謗中傷や差別を受けたり、Lに近い経験をしたことがあるので、また同じような目に遭ったときに読み返したい作品だと思いました。
Lの発言が切り取られネット上で炎上したときも、とにかく事実と異なることは間違っていると書けばいいんだと冷静に具体的に対処していく姿が頼もしかったです。そういう状況に陥ってしまったひとは、やっぱり不安であたふたしてしまう。でも、実際に、自分でやれることはいくつかしかないし、冷静に事実を明らかにしてゆけば焦ることはないのだと思わせてくれる、本当に心が落ち着く本だったので、これからも折りにふれて読み返すと思います。
李 ありがとうございます。『言霊の幸う国で』は私のデビュー作である『独り舞』に構造的に似ていて、『独り舞』も台湾出身のレズビアンが主人公で、台湾でつらい経験があって日本に留学して学位を取りそのまま会社員として働いている。でも、けっきょく台湾でのつらい過去がインターネットの回線を通して追いかけてくるんです。ここだけ取ると『言霊の幸う国で』ととても似ています。『言霊の幸う国で』は論考の部分もあるし文字数も四、五倍くらいありますが。ただ、過去と向き合うリスクという点では共通していて、これは現代ならでは、というか、現代に生きるひとにとってより深刻な問題ではないかと思っています。
インターネットがなかった時代、人間の記憶は長く保つものではなくて、新しい土地に行って新しい生活を始めることが――流行りの言葉で言うと「転生」でしょうか(笑)――比較的容易だった。いまは過去の情報がほとんど無限に近く蓄積されて、一瞬で世界中に拡散されてしまうので「転生」がしにくくなったんですね。
ヨーロッパではここ十年くらい「忘れられる権利」が議論されています。犯罪の被害者や加害者になってしまったとか、深く考えずやってしまった過去の記録といったいわゆる「デジタル・タトゥー」がいつまでもネット上に残ってしまうのは人権侵害ではないかという話ですね。ただ、アジアではまだまだそういう議論は起こっていません。『独り舞』『言霊の幸う国で』は過去および過去の情報にどう向き合うかという点で共通のモチーフを扱っています。
中さんは十数年のキャリアの中で誹謗中傷などもあったと思うのですが、どういう対処をされてきましたか。
中村 『言霊が幸う国で』で私の過去のインタビューが取り上げられていたことに驚きました。デビューしたばかりの頃に、どういう経緯で自分のセクシュアリティを公表するに至ったのか、じつは自分としては反対していたと話したものです。セクシュアルマイノリティに生まれたことで、公表する?しない?の天秤にかけられてしまうこと自体が辛かったんだよね、という話をお世話になっている方に話したら、「その話はちゃんと世の中の人に知ってもらった方が良いのではないか? 何が差別か気づいていない人もいるから」と後押しされる形でインタビューをしていただけることになって、紅白歌合戦に出場した時のエピソードなどを話したのですが、あのインタビューを公開して学んだのは、真実を語っても受け取るひとによって真実以上のものになってしまうこと。本来は私と当時のチーム間の話だったものが、NHKを叩きたいひとに利用されてしまうこともあったりして、賛同してくれる方は静かに見守ってくれて、揚げ足を取りたい人の方が声が大きい印象を受けたので、このインタビューを受けた意味あったのかなと悩んだりはしました。
Lが自分のセクシュアリティを公表するのかしないのかというときに、公表すればもしかしたらトランスジェンダーの女性のロールモデルになれるかも知れないと悩む場面で私のインタビューを引用されていて、Lは中村中という人間の活動を見て自分も「ただそこにいるだけで、誰かの勇気になる」ことができるだろうかと思ってくれていて、そこも凄く驚きました。私はロールモデルになるつもりはないし、活動の出発の時点でした後悔をいつまでも手放せずに生きているし、むしろ手放すというか抱えるつもりもなかったのに持たされたのだからこの後悔をどう扱おうが私の勝手にさせてもらいますよ、みたいに思っているタイプだから、いるだけで誰かの勇気になるだなんて勿体無いくらいです。でも、そういう言葉をかけられて、そういう風に生きられたらいいなって思いました。
私はインタビューって植林のようなイメージがあります。木を植えて、その木が育って実を付けたり、その実が必要な人がいるかも知れないから。そして、実際に誰かが必要としてくれたりするのかもしれないけど、そこはもう私のあずかり知らないことだと思っていました。今回こんな風に「勇気」だなんて表現してくれて、ありがたいです。
李 中さんのインタビューはいまもネットで見られるわけですが、やはり過去の情報はおもにネットに蓄積されるわけです。しかし、インタビューにせよエッセイにせよ、本来、時代や社会の文脈を背景として発表されていて、あくまでその時点での考えや表現で、人間は時間とともに考えが変わったり成長したりもするのに、インターネットの海に投げ込まれてしまうと、だいぶ時が経ってから、大昔の発言があたかも現在のもののように取り上げられることに危うさを感じます。
中村 デビュー日が決まってから、セクシュアリティを公表しなければ売らないよと最終的に脅しのように言われてしまうまでの約一年、週に三回くらいの頻度で会議をしてました。セクシュアリティを公表するかどうかという話題があがる度に、自分としては公表したくないとずっと言っていて、その挙げ句に押し通されてしまったので、常に追い詰められるような感覚で活動していました。実際のところはわかりませんが、スタッフの中にもトランスジェンダーの方はいなかったと思いますし、Lが感じたような、自分が自分と同じ境遇にあるひとたちのロールモデルになれるかもしれないというイメージも持てませんでした。「言えば楽になると思うよ」みたいな自白を勧められてるような説得ばかりで(笑)。要するに、私に差別に慣れるように勧めているわけです。いまだったら、どうして私が差別されることに合わせないといけないの?と言えますけど、当時は言えなかったから、このように生まれてしまった自分が悪いと思わされてしまいました。
それが私と当時の事務所とレコード会社との間で起こったことなんですけど、インタビューが公開されると、NHKが悪いとか、事実とは異なることを語られました。それ以降、NHKのインタビュー番組やドラマに出演させていただく機会があった時に、過去のインタビューを持ち出して、再び批判している人もいて。情報がネットに蓄積するっていうのはこういうことですかね。
でも対処のしようはないし、ほおっておいています。応援してくださる方が、『言霊の幸う国で』のLの親友だっためぐのように、私の発言じゃなくてネット上の情報を信じてしまうことがなければいいなとは思っていますけど。
李 中さんのインタビューを利用してNHKを叩くひとがいるというのは、現代において起こりがちなことですね。そういうひとは結論ありきで、それに使えそうなネタをなんでもいいから漁ってくる。私もそういうひとたちとは距離を取りたいけれども、ネット上の活動も必要なところがあり、どうすればうまく距離が取れるのか試行錯誤しています。
中村 この本を読んで、自分の中で明確になったことがありまして、それがさっきの誹謗中傷にどう対処してるかということへの答えになるかもしれないんですが、Lが国やコミュニティへの帰属意識があまりないと書かれていたところです。
私も似ていて、自分と近い悩みを持っているひとたちのコミュニティに余り繋がりがなくて。友達はいるけど、コミュニティとなると気を使って疲れそうだし(笑)、LGBTというカテゴリーに自分がいるという感覚もなくて、カテゴリーで表すことが必要な人がいて、それが知られるようになったから、はたから見たら私も当てはまりますけど、私にとっては後付けでしょ?って感じで、そこに私はいないよ、と思います。そういう生き方が好きなんですね。ずっと浮遊していたい、どこにも属したくないという気持ちがある。
デビューしてから、私が望んでいないのに「性同一性障害の人」とか「トランスジェンダーの人」とか、私の立っている場所を他人が勝手に決めていくのがわずらわしくて、よりそういう思いが強くなったのかも知れないです。自分はそこには立っていないんだけど、そう見えるんだなと思っていました。何かの立場に立つって、誰かの味方になったり敵になったりもすることだから、そういうのが私は好きじゃないんですね。Lは自分が望んで台湾に生まれたわけでも、医師によって決められてしまった性別になったわけでもないと言っていて、本当にその通りで、そんなのは誰も望んでできることではない。私が望んだことは唯一、歌手になることで、それしか望んでいないので、歌手であること以外に自分だと思えるものはないと思っています。それが、この本を読みながら、自分の中ですっきりしたことでした。
セクシュアリティについては、自分が経験したことや、それが役に立つことであれば話すけど、私はそれをアイデンティティだと思っていないので無責任なことも言っちゃうけどいいの?という気持ちになったりもします。男性として生まれたことは自分で望んだことではないし、もっと言うと、いま女性として生きていることもアイデンティティとかではないんだよなと思います。だから誹謗中傷にどう対処してるかというと、私のアイデンティティが何かを気付けてからは流せているという感じでしょうか。
李 私は芥川賞贈呈式のスピーチで「作家は永遠の異邦人だ」と言ったんですが、国家に対して距離を取りたい気持ちがあります。『言霊の幸う国で』でも書いたように、ずっと排除されてきた、切り捨てられてきた側にいたので、国家というものにそこまで帰属意識を抱いていない。ただ個人でいたいと願っているだけなのに、けっきょく世の中は個人を何かしらの共同体に帰属させようとしてくる。こういう力学がSNSによって、よりはっきり可視化されていて、結論ありきで安易な物語を構築していくという現象が非常に増えています。作中で言えば、Lが過去に安倍政権を批判する投稿をしていたというので「本物の台湾人ならこんな投稿をするはずがない」という自分たちの思いこみを守りたいひとたちが断片的な情報をかき集めて「Lは本当は朝鮮人だ」とか「Lは中国共産党の手先だ」と言い出すデタラメさで、これは行き着くところまで行ったなと思います。
先ほど、中さんは何の立場も持たないと言われましたけど、私は人間が何の思想も持たないということはないと思うんです。必ず生きてきた経験の中で見てきたこと、会ってきたひとに影響されつつ、自分なりの世界観や価値観が構築される、そうでなくてもなにか行動したこと――中さんの場合だと朝日新聞のポッドキャストに出るとか、レインボープライドでコンサートをするとか――によって、こちら側のひとというようにやはり外からは見られるわけです。
中村 他人がどう見るかはぜんぜんかまわなくて、私はそれについて気にしていない、出来ることをしているだけです。
李 なるほど。さっき言われていた、なにが私たちが本当に選んだことなのかというのは、振り返ってみると自分の作品のテーマのひとつだと思っていて、Lは生まれた国も性別も自分で選んだものではなくて、中さんの話と同様に、性別移行もしたけれども、別にそれがアイデンティティというわけでもない。選んだというより、そうせざるを得ないほうが大きかったわけです。
中村 私は自分が持たされてしまったものとずっとやりとりしていく人生なんだろうなと思ってはいるんですけど、望まなかったことと、望んだ音楽とを関係させないようにしてる部分はあります。音楽ってすごく解放的なものだし、音圧の中で解放される心地よさがあるんです。どんな悩みを歌っていても音圧の中でカタルシスを得る部分も大きくて、嫌なことはすべて受けとめて自分のほうで変形させていく、葬っていく、そういう感覚があります。
李 自分のほうで葬る?
中村 歌うことで消し去るというか。はたから見たら私が望まなかったこととかも内包して歌っているように見えるかも知れないけど、むしろそれを考えないでいられる、自由になれる時間なんです。歌っている時は日常のわずらわしいことなんか存在しなくなるんです。またわずらわしいことは起こるんだけど(笑)。
李 中さんが歌うのを見て、本当に自由だなと思いました。美しかったです。
中村 いい人には美しく見えるらしいです(笑)。
李 琴峰『言霊の幸う国で』刊行記念対談として、シンガーソングライター・役者として活躍する中村 中さんとの対談を一挙掲載します。文学と音楽、フィールドこそ異なれど、表現者として生きること、自分の望むあり方を目指す覚悟が静かに熱く伝わってきます。ご覧下さい。